03 月に丸よし
「あ……」
少年はがっくり肩を下げた。それから熱くなっていた前髪の際を掻き上げ、額を押さえる。開いた小展示室の扉を凝視しながら、しばらくその場から動くことができなかった。
せっかく、気持ちよく見送ってやろうと思っていたのに。ここまでいいようにされてしまっては、後を追う気にもなれなかった。
もう知るものか。
どうぞ自由勝手にしてくれ。
やるせない気持ちを胸に、少年はようやく手足を動かした。踵を返して、西棟へ続く廊下に向かって歩みはじめる。
(これでオレの仕事は終いだ)
つまらないことに時間を取られてしまった。
本日のスケジュールはご破算。このあとの穴埋めを考えるだけで頭が痛くなる。
じっさい、先程から腕時計型デバイスにはうるさいコールが何度も入っていた。見慣れたアイコンに目を落とすと、うんざりしてデバイスごとを壁に投げつけたくなった。
わかっているから何度も呼ぶな。と、無言のままに切る。とたん、また相手からしつこいコールがかかってくるものだから、少年はあきらめて一度だけ通信をつなげた。「いま出るところだ。セキュリティチェックにはなんら問題ない」と無愛想に告げて、やはり相手の返答など待たずに通話を強制的に切った。
そのときであった。
はたと、少年は小脇に抱えていたタブレットの存在に気づいた。
「…………」
歩みを止めて、その場で画面を操作する。
タブレットの画面に映し出されたのは、小展示室の監視カメラの映像だ。リアルタイムの、ライブ映像が少年の眼に焼きつく。
やはり、あの風変わりな客の男の姿がそこにあった。
そしてあろうことか、男が立っているのは……あの絵の前ではないか。
思わず、少年は片手で顔の半分を押さえた。
カメラが切り替わり、別の角度から男の顔を映し出す。男は微動だにしない。まっすぐな瞳で、壁に掛かったその絵画を食い入るように見つめていた。
画面のなか、絵を見つめ続ける男。
その男を、画面を通して見つめる少年。
時が止まったかのように──かたや絵を、かたや画面を、自身の瞳に閉じこめる。
少年が我に返ったのは、本日何度目かのコールが入ったときだった。強制的にオンになった腕時計の通信から、相手側の怒濤の叱責が炸裂した。
エントランス全体の空気を震わせるほどの迫力であった。……にもかかわらず、当の少年の耳には一枚の膜に塞がれたようなくぐもった音にしか伝わらなかった。
彼の意識は別に向けられていた。
顔を上げて、体を向けていたのは――あの小展示室であった。
デバイスを装着した腕を持ち上げ、騒々しい声に、少年はひと言だけ告げた。
「十分、待て」
そして通信を遮断するなり、彼は足早にかの場所へとおもむいた。因縁の……否、あの人が待つ小展示室へと。
* * *
そっと、扉の隙間を覗き見る。
入口から正面奥に、例の男の広い背中が見えた。
小展示室の内装は、西洋式の館で見かけるゲストルームを模している。床には絨毯が敷かれ、部屋の中央や壁脇にはソファーが鎮座している。入口から縦に伸びた長方形の壁には、不揃いのサイズの絵画が展示されていた。
大展示室の美術品と同様に、こちらのジャンルもごた混ぜである。油絵もあれば鉛筆のスケッチ画もあり、風景、静物、抽象など内容も自由だ。だがオーナーのセンスの元に蒐集されただけあって、不思議と嫌な不調和は感じられなかった。
小さな部屋に漂う静寂のなか、男はただひたすら一点の絵のみを、見つめ続けていた。
その無言の対話を、直線上から少年はじかに見つめる。なかに入るのは、やはり躊躇した。しかし、覚悟を決めて、彼は小展示室内へと片足を踏み入れた。らしくもなく、おずおずと、気まずさと後ろめたさの圧に眉間を寄せながら……。
絨毯を踏む足音で気づいたのだろう。
それでも男が振り向くことはなかった。だが、ただひと言、静かな声でこう言った。
「月に丸よし」
それは、男が見ている絵の題であった。
ようやく半身を翻した男が、少年を見て言う。「すてきな絵だね」と。無垢な微笑を前に、少年はなにも答えてやることができなかった。
振り向きざまに肩の位置がずれたことから、少年の目にも件の絵の全貌が映る。日本画であった。サイズはP十号――わかりやすく説明するのなら、人の頭部から胸元あたりまでの大きさである。比較的、小型の部類に当たる絵画であった。
色彩は金、銀、白。三種の光を顔料で表現した抽象的な絵である。唯一認識できる形といえば画面上部の円形で、題にもあるように、これはまばゆいばかりの鮮烈な輝きをたたえた――満月だ。
「……お気に召されているようで」
やっと、喉からひねり出した言葉がそれだった。
男は聞き取れなかったらしく、「うん?」と不思議そうに聞き返してきた。少年は軽く咳払いをしたのち、改めて言い直した。
「ずいぶんと、お気に召されているようですね。先程からずっと……その絵の前にお立ちになっているようですので」
少年の言いたかったことを理解して、男は今度ははっきりと「うん」とうなずいた。
次の言葉をつむごうと、少年は口を半分ばかり開かせた。すでに頭のなかでは、男にかけるいくつもの問いが洪水のごとくあふれ返っていた。
美しい色の暴力に魅入られましたか?
不思議な題でしょう? あなたのその節穴からはなにが見えましたか?
どうせ、なにも考えてないのだろう?
わかったような顔をしないでくれ。その薄嗤いに腹が立つのだ。
もうこれで満足したか? いいから、さっさとこの部屋から出ていけッ!
「私はね……」
ぐちゃぐちゃした思考に喉が塞がれていると、先に男のほうがしゃべりはじめた。
「こんなにも鮮烈な絵と出会ったのは、生まれてはじめてかもしれない。まぶしい……見る者の瞳を焼き焦がしてしまうほどの力強い絵だ……」
この世の総ては我のために有り。
天上へ至った愉悦に満ち満ちている……と、男は絵を見つめながら、そう語った。
「傲慢だね……」
「…………」
「でも、私は好きだな」
ささやくような音の余韻が、少年の胸をざわめかす。
男はいまだ入口に立ったままの少年を見つめて、そっと自身の立ち位置を横へずらす。絵の前のスペースを一人ぶん空けて、そばに来るよう促してきた。
少年の足が動く。沈黙を抱えたまま、彼は男の元へ歩み寄り、静かに絵の前に立った。
男の視線は絵画のかたわら、キャプションへと向く。
「題のみで作者は不詳らしいけれど……この絵を描いたのは歳の若い子だね。それも私よりずっと年下の……」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
素直な質問だった。男は苦笑する。
「未熟という意味ではないよ。ただ強烈な輝きとともに危なっかしさを覚えるんだよ、この絵には。これは想像にすぎないけれど、おそらく当人はもっと大きなサイズの画面でこの題を表現するつもりだったんじゃないかな。
我のままに、見る者すべてを圧倒しようと」
再び絵に視線を向ける男の、その横顔を見た。
見てはいけなかったのかもしれない。
心から陶酔しきった顔で、かの人は小さくつぶやく。
「────」
おそらく独り言だ。
誰かに聞かせるための言葉ではない。少年もわかっていた。
けれど、耳に届いてしまった。無抵抗で、不可抗力で。つむがれた禁句を、隣でばっちり聞いてしまった。
帽子のつばをつかむ。重力に従って引っぱり、不自然と知りながらも、できうるだけ、いま精一杯できる形で少年は自身の顔を隠した。
完敗であった。
認めたくはないが、これはもう認めざるを得なかった。
突如、目の前に現れた風変わりな客。この男は見事、少年に興味を抱かせた。人嫌いを称する当人のすぐ真横に立っているのが、なによりの証明である。
それもあの忌まわしい絵の前で、これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶ。もはや居心地のよさすら、少年は感じはじめていた。
男はまたつらつらと、ひとり勝手におしゃべりをはじめているが、その半分も少年の赤耳には入っていなかった。
(オレは知りたい……)
彼が何者であるのかを。
息苦しい暗闇のなかで、硬直しながら少年はせつに願った。
しかし、いつだって現実は非情だ。
やかましい音とともに、淡い願いは塵と消えた。
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