02 ファーストインパクト
相手に見つめられてから、少年はその男の容姿を遅れて視認することになった。
まず、背が高い。
すらりと伸びたしなやかな大人の体格に、自ずと視線の位置が上がる。黒シャツにグレーのボトムスという、無彩色のシンプルな服装──おそらく私服なのだろうが、前髪を横に流した乱れのない髪型と整った顔立ちが合わさることでカジュアルさを感じさせなかった。
なぜか、少年の脳裏にはホテルマンの姿がよぎった。
あるいは宝石商か、バーテンダーか。なんにせよ、洗練された立ち振る舞いを目の前の男から感じ取った。
そういった類いの大人とは、幼少期の頃から嫌というほど顔を突き合わせてきた。だからとっさに連想したのかもしれない。そして、その手の生真面目で堅物な性分は、少年が自身から遠ざけたい人間リストの上位を占めていたりもする。
当然、少年は警戒した。
しかし、その刹那の緊張も、優しい微笑の前にすぐに解ける。少年は反射的に肩をすくめ、思わず身を引きかけてしまった。
慌ててごまかすように、帽子のつばを片手で押さえる。中途半端に顔を隠しながら、彼は「どうも……」と気まずそうな声を喉の奥から絞り出した。
容姿の優れた人間は見飽きている。
見飽きているが、きれいな顔の人だと思った。
笑い方も含めて。
「あれ? 君……学生さん?」
笑みから一転、今度は少し驚いたふうに男は目を見張らせた。止めた足先を改めて少年のほうへ向け、頑なに帽子のつばをつかんだままの彼の顔を、少し身をかがめて覗きこむように見つめる。
少年は「あ……いや、まぁ」と、曖昧なうめきを上げるのがやっとだった。踵を浮かせ、ついに半歩後退してしまった自分に内心舌打ちをする。
このオレが人を前にたじろぐなんて。
「学校はどうしたの? まだ月曜の、それも午前中じゃないか。授業に間に合わなくても大丈夫なのかい?」
さっきからこの男、とんちんかんなことを言っている。
どうやら少年のことを、学生アルバイトかなにかと勘違いしているようだ。それに気づくと少年は一変して、男のことを滑稽だと笑った。
けれど、やっぱり強気なのは内面だけ。じっさいの彼の口から出てきた言葉も、負けず劣らず相当おかしなものであった。
「大丈夫……許可、取っているから」
「そう、問題ないならいいんだけれど」
許可ってなんだよ、と思わず少年は自分自身にツッコミを入れた。一方の男のほうは、半分納得したような微妙な顔つきで、すっと身を引いた。
距離が空いたことで、少年は少しほっとする。同時にこれまでの会話を振り返り、あることをはっきり確信した。
この男、オレのことを知らないだと?
「なにか事情があるのかもしれないけれど、偉いね。朝から美術館でお仕事していて」
また笑いかけられる。
つばから手を離すタイミングがつかめない。視線だけを横に逸らして「それほどでもありません……」と、少年は答えた。
それほどでもないってなんだよ。
またしても自分で自分にツッコミを入れるはめになった。
「お、お客さまこそ……」
「うん」
「お客さまのほうこそ、お早いですね。当美術館にお越しいだたく方、あまりこんな早い時間に……ないですから……」
舌がもつれ、たどたどしく話す。妙な言葉づかいになってしまったと、頬が熱くなった。
相手の苦笑がよく響く。
苦い心情と重ねて、少年はますます顔を渋く固めようとする。けれども、そんな険しさを一瞬で取り払ってしまうかのように、目の前の男はじつにさわやかに答えた。
「そうだね、私のほうも十分に変に見えるだろうね。
大した理由はないんだよ。ただ、この辺りを散策していたら、遠目からこの建物が見えたんだ。近づいてみたら美術館だという看板を見つけてね、思い切って足を運んでみたというわけさ」
朗らかにおしゃべりをはじめる男に対して、少年は「へぇ」と短い相づちしか打てなかった。丁寧に事の成りゆきを説明する相手をよそに、彼の目はある物に留まっていた。
男の肩に掛かっている、黒のトートバッグである。大判の口から少しだけ顔を見せている中身は意外な物で、少年自身もよく見慣れたものであったから興味を引いた。
「静かで、きれいな場所だね。ここは」
「…………」
「まさか、丘の上に美術館が建っているだなんて知らなかったよ。……と言っても、私はここ最近、この街に越してきたばかりで土地をまったく知らないから仕方ないんだけれど──」
しゃべりを続けながら、男はおもむろに周囲を見渡す。
トートバッグから視線を外して、少年は男の様子を見つめた。好奇心に目を光らせて、館内を楽しそうに見まわしているさまは子どもっぽいように思えた。
なにがそんなにいいのやら、とあきれる反面で不思議と悪い心地はしなかった。
「それで──」
「!」
急にくるっと、男の視線が少年を捕らえる。不意打ちを食らって、少年の心臓は跳ね上がった。
「向こうの展示室のほうは、まだ開錠されてないのかな?」
奥の扉を開けていなかったことに、いまになって気づく。
少年は「す、すぐに開けます!」と叫んで、駆け足で展示室の扉へと向かった。
* * *
少年が男に案内した部屋はもちろん、大展示室のほうである。
部屋に通したのち、自身はそそくさとその場から退散してもよかった。だが、ようやく帽子のつばから手を離し、扉を開ける準備をするなかで、彼はいくぶんか冷静さを取り戻していた。
順路の一番手、七宝飾りの青竜刀の展示を前に感嘆している男の──そのゆるやかな横顔を眺める頃には、すっかり奇妙な酔いから醒めていた。
今度は、ふつふつとほの暗い怒りが込み上げてくる。
先の己はなんたるざまであったか。脳内で素晴らしい握手会を完璧にシミュレートしていただけあって、『恥』一文字が自尊心に傷をつける。
(このまま、おめおめとこの男から背を向けるだと?)
気に食わない。
そこで少年は、この煮えくりかえる激情を露とも知らない客の男に、自ら展示品の解説役を買って出たのだ。「よろしければ一点ずつ、収蔵品の案内をいたしましょうか?」と。
まばたきして「いいの?」と訊く男に、少年は今度こそ完璧な笑みを返す。
自信たっぷりに笑えたはずだ……たぶん。
(こいつは、たまたま現れた風変わりな客にすぎない。飾り気のない身なりから察するに、その辺によくいる金持ちじゃなさそうだ。ただの一般庶民……スタイルと顔はまぁまぁ悪くないが、オレからすれば道端の石ころさ……)
よく見ろ、特筆するところのない極めて凡庸な人間じゃないか。
そう、少年は自分自身に強く言い聞かせた。
「うーん、そうだねぇ……」
「…………」
提案に、男はまだ返答せずにいる。口元に手を当てて、悩むように考えこんでいた。小首をかしげ、視線はやや上へと向いている。
……特筆する点はないと断言した。だが、かわいそうなので『人の気をやわらげる、ゆるやかな雰囲気』を特徴に加えてやってもいいと少年は思った。
「でも、お仕事中の子の手をわずらわせるわけには……」
「…………」
今度は頭をうつむかせて、うなりはじめる。長めの眉がきれいな八の字を描いていた。
その姿が少しばかり愉快に見えたものだから、少年はさらに『ころころ表情が変わる愛嬌のよさ』もつけ加えてやった。
そう思っていたら、またぱっと男の表情が明るくなる。心臓に悪いのでやめてほしい。
「ありがとう。せっかくだから、お言葉に甘えてよろしくお願いしようかな?」
「…………」
知らぬ間に、少年はまた帽子のつばを握っていた。
なぜだか、指先に力がこもる。優雅に返事をするつもりだったのに、「はい……」とかぼそい声を出すのが精いっぱいであった。
たびたび説明を入れるが、この美術館は小さい。展示室は大小の二部屋のみで、大きいほうの部屋でもダンスフロアくらいの面積しかない。
そのため、館内すべてを見まわったとしても二十分もかからないことだろう。なのに大人料金はうん千円と、現代人が敬遠するコスパ最悪の美術館なのである。
だからこそ、少年はひどく驚かされた。
自ら案内を買って出て、男の一緒に大展示室を鑑賞しはじめてから──およそ、一時間以上の時が経過していることを。
「えー、こちらは当館のオーナーが西洋の某地方にある古城を借りてバカンスを楽しんだ際に、秘密の隠し部屋にて発見した亡き貴族令嬢の夏のドレスと装飾品一式になります……」
「あぁ、とても清らかな彩りのドレスだね。時の褪せりを感じさせない光沢に、淡碧の地がまるで静かな水面を覗いているような気分になるよ。そこに銀の百合模様の刺繍が優美な張りを引き立てている……。
ドレスというよりも、ローブガウンに近いシルエットだね。十八世紀の貴族の間で流行したスタイルじゃないかな? 資料で目を通したことがあるよ。それにしても、首元のネックレスも美しい……金鎖に、大粒の正円の紅玉か。ドレスの彩りが淡いぶん、深みのある強い紅は秘めたる情熱の証なのだろうね」
「は、はぁ、自分にはなんとも……。ええっと、次の展示ですが……」
「おぼろげだけど、このドレスを纏っていた遠い日のご令嬢の姿が目に浮かぶよ。彼女はきっと恋をしていた……澄まし顔で気品をたたえながら夜会の隅に佇み、そっと静かに眼差しを向けるんだ。胸の紅玉のごとく、強い情愛の瞳で見つめる……もしかしたら宝石は、恋する人からの大切な贈り物だったのかもしれない。言葉を多く語らない代わりに、互いに交わした二人だけの思い出の──!」
「あの、次の展示に進んでもよろしいですか……?」
「時に君は知っているかな? 紅玉は古代から魔除けや権力の象徴として、はたまた命の石として愛されてきたんだよ。じつは正反対に見える青玉とおなじ鉱物で、その燃えるような赤はクロムという微量の元素が──」
こちらが案内しているというのに、少年がひと口しゃべれば、男の百の語りが容赦なく降り注ぐ。
このやりとりが展示品の数だけ、行われるのだ。数歩ごと、順路を進んでは長く立ち止まるのくり返し……牛歩どころじゃない、亀にだって負ける自信があった。
落ち着いた風貌のわりに、意外と活発なおしゃべり好きらしい。嬉々として話を広げていく男に、水を差すのも悪い気がして、少年は黙って立場を逆転させていた。
かくして大展示室を一周する頃には、時刻は午前十一時を過ぎていた。疲弊とともに、少年は白目を剥いてしまった。
「いやぁ、ゆっくりしてしまって申し訳なかったね」
隣から男に謝罪された。時計型デバイスを見ていたから、時間を気にしていると思われたのだろう。少年は疲れを抑えて「いいえ、大丈夫ですよ。これも仕事のうちですから」と、適当に笑ってごまかしておいた。
「本当にごめんね。昔から夢中になることがあると、つい時を忘れて没頭してしまう癖があるんだ。特にこういった美術館となると……ふふっ、熱が入りすぎて、気がついたら閉館間近だったってこともざらにあるんだよ」
「はぁ、好きなんですね……美術館……」
「もしも君に迷惑がかかることがあったら、私の口から上の人に説明させてほしい。君をあの場に長く引き留めてしまったのは、私の責任だからね」
あんたが気にかけることじゃないさ。
そう言う代わりに、少年は静かに首だけを振っておいた。
(じっさい、オレのほうも時間が経つのを忘れていたんだ。おあいこだよ)
週に一度、顔を突き合わせていた展示品たち。すっかり見飽きていたはずなのに、どうしてか普段より彩り鮮やかに見えた。博識な説明も悪くない、ずっと耳を傾けていたいような居心地のよさもたしかに感じていた。
少年の無言の返答に、「そう、ならよかった」と男が胸をなで下ろす。不意にまた身をひねって、男は大展示室のなかをしげしげ見つめた。
「それにしても、ずいぶんと多種多様なものを展示しているんだね。アジアの骨董品からはじまって、中東に西洋、アフリカ……古今東西の文化を象徴した美術品をそろえたかと思えば、遺跡から掘り出した土偶や呪物、それから──」
言葉尻を伸ばした男の代わりに、少年が「アラスカで発見した隕石」と加える。「そう、それそれ!」と男は嬉しそうに言った。
「美術館などと仰々しく名前をつけていますが、展示しているものはすべてオーナーのコレクション品なのです。案内の際にもすでお話ししましたが、当人が世界中をまわった折りに金に物を言わせて集めていったそうです」
雑談をはじめながら、少年はゆっくり歩み出した。
すぐ背中のほうから「オーナーって、たしかこの美術館の名前にもなってる──」と、男の声が続いたため、「ええ、その方です」と振り向かずに答えておいた。
足先はさりげなく、西棟へ通じる廊下へ向けられている。
もう二、三歩ほど歩みを進めてから、視界の端にいる男の姿を確認した。数秒遅れて、大展示室の入口にいた男の体が動いた。少年との空いた距離を埋めるよう、後を追いかけてくる。
少年はよし、と心のうちでうなずいた。
このまま二人とも大展示室の扉から離れて、廊下へと赴こう。うまいこと誘導できそうだぞ、さっさと東棟からおさらばだ……などと、安心するのもつかの間であった。
男の歩みが止まって、また距離が空いていく。気にせず進みたいところであったが、少年は渋々あきらめて身を反転させた。
おなじように、後方へ身をひねっている男の姿がそこにあった。その視線は、やはり大展示室の隣――小展示室の閉じた扉へと向けられている。
「あっ、ちょっと待って、君」
先を行こうとする少年に、男は制止の声を上げる。
「まだ、あそこの部屋に展示が残っているみたいなんだ」
一瞬、「あそこはなにもない部屋です」と、うそぶこうかとも思った。しかし、男はどこからか館内パンフレットを取り出して、「たしか展示室は二カ所あるんだよね?」と訊ねてくる。先に言われてしまっては、少年も口をつぐむしかなかった。
小展示室の扉は固く閉じたままだ。
そして、その禁断の錠を開ける鍵はほかならぬ少年が持っている。
電子ロックではない、従来のひねりまわすタイプの鍵だ。先程、大展示室を開けたときに使用した鍵とおなじリングチェーンにくっついて、少年の懐へしまわれている。
「ええ、おっしゃるとおりでございます。お隣の小さな展示室は、絵画作品をそろえた部屋となっています」
冷えた口調で淡々と説明すれば、男は唐突に「絵画!」と声を弾ませた。またわかりやすく、表情が一段階明るくなる。
「それはぜひ拝見したい! じつはさっきの展示も十分に素晴らしかったんだけれど、絵画がほとんどなかったことが気にかかっていてね」
「まぁ、美術館と言えば、真っ先に絵をご想像されるのが一般的ですからね……」
言いながら、少年は男の肩に掛かっているトートバッグの縁を見つめた。その視線にも気づかず、男の足はすでに小展示室の扉へと近づいていた。
そんな期待に満ち満ちた子どものような顔をされると、じつに心苦しい。
しかし、気持ちまで譲る気はない。
珍しく心地よいひと時を過ごしたのだ。きれいなままの記憶で今日一日を終わらせたかった。
少年は非情にも身を翻し、男から背を向ける。そして、わざとらしい憂いを帯びた嘆息をこぼした。
「まことに残念なのですが、現在、そちらの展示室は閉鎖中なのです」
背後から「閉鎖?」と、不思議そうに反唱する声が響く。少年は振り向かず「はい」と答えて、都合のいい嘘を続けた。
「先日、当館のスタッフが扉の鍵を閉めたまま、その鍵をなくしてしまったんです。スペアもありませんので、近いうちに専門業者へ依頼して鍵ごと取り替えていただこうと──」
流暢に話しながら、少年は懐を手で押さえる。「お客さまにはご迷惑をおかけしてしまい、大変心苦しく思っております……」と述べた折には、こっそり舌先をちろっと出した。
だが、少年はまたも驚かされるはめになる。
突然、ガチャンと小気味よい金属音が辺りに響いたのだ。
音から連想した予感に、少年がぎょっと身を振り向かせると──小展示室の扉の前に、男が立っていた。その手はドアノブを握っている。壁に平行だった扉がゆっくり斜めへ傾き、隙間から室内の暗闇を覗かせた。
男が首を振り向かせ、少年に向かって片目を閉じた。
「開けた──じゃなくて、開いてたみたいだよ」
「そ、そんな馬鹿なっ!」
懐を押さえながら、驚愕のあまり少年は叫んでいた。目をひん剥いている隙に、男のほうはするりと扉の隙間へ身を滑りこませた。
止めようと手を伸ばしても遅かった。隙間から見えていた暗闇がパッと明るく照らされた。すでになかで、男が電灯のスイッチを押してしまっていた……。
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