01 月曜日のイヤなお仕事
月曜日が嫌いだ。
七日間の周期のなかで、どの曜日が一番嫌いかと問われる機会があれば──そのときも、彼は月曜日が大嫌いだと即答することだろう。
平日の頭に当たるから、などという一般的な理由からではない。
ただ単純に、その日、彼には為さなければならない面倒な仕事が待っているからであった。
* * *
月曜、時刻は午前九時半。
この日、この時間、彼はさる美術館へ足を運ぶ決まりになっていた。
美術館といっても、県や市などの公共が運営しているような規模の大きな施設ではない。とある大富豪が蒐集した美術品を展示している、個人経営の小さな美術館である。
白を基調とした近代的デザインの建物で、西と東の二棟に分かれている。その両棟をつないでいるガラス張りの廊下を、彼はいま、気だるげに歩んでいた。
「…………」
今日はよい日和だ。ガラスの向こう、屋外では雲一つないきれいな水色の空と、スプリンクラーの飛沫を浴びて青々と艶めく芝生が広がっている。
しかし、さわやかな景色とは裏腹に、彼の表情は険しい。外の景色など見向きもせず、その目は常に交互に動く足元の、鏡面に磨かれた大理石の床にとどまっていた。
床に反射して映る人の像は、少年の姿をしていた。第二次成長期を終えて、これから本格的に成人の体に成ろうとしている十代半ばの少年である。
ふいに、彼──少年は足を止めた。
廊下の真んなか、足元に映る自己像をじっと睨めつける。
「……ふむ」
顔立ちは整っているほうだが、輪郭の丸みが取れないことが目下気に食わない。童顔、中性的な顔はいまどきの女子の好みらしいが、そんなことを褒めそやされたって彼にはちっともうれしくないのだ。
(幸い、身長は理想の最低ラインをクリアしたが……まっ、欲を言っちゃえばもう少し伸ばしたいかな。あとで、有益そうな情報をアイツに漁らせておくか)
年相応の悩みを巡らせながら、少年はおもむろに持ち上げた手で自身の髪をすくった。薄い色素の髪先を、いたずらに指に絡ませる。その細くやわらかな髪は、彼の輪郭に沿って上品なショートヘアに整えられていた。
思案に気がまぎれたのだろう。
彼の表情が、心持ちゆるくなる。
ところがその矢先に、髪をいじっていた指先が、頭にかぶっていた帽子の縁に引っかかった。あわや床に落ちかかるも、少年が素早く胸元でそれをキャッチした。
帽子を前に、みるみるうちに渋い顔になる。
そうだ、忘れちゃいけない。いまは週に一度の、面倒な仕事の真っ最中であることを。
改めて帽子を──自分には少しサイズの大きい、いかついパトロールキャップをかぶり直す。固いつばを押さえて、床を鏡代わりに位置を整える。
鏡面の白い床は、少年の着ている服装をも映した。帽子に合わせた警備服、一応この美術館での彼の正装である。
再び戻った足元のしかめ面の上を、ふいに円盤形の機械が通過する。床掃き専用のお掃除ロボットである。自身の仕事のことを思い出した少年は、脇に抱えていたタブレット型の端末を手元へと構えた。
「さてさて、週一の点検をはじめますか……」
せっせと清掃活動に勤しむロボットの挙動を目視で確認し、タブレットの画面へと視線を移す。
画面には、この美術館の見取り図が展開されていた。そのなかで散らばっているいくつもの白点こそ、館内で働くロボットたちの位置情報なのである。
少年は、そのうちの一つの白点をタップする。廊下を示す二本線の合間を移動していた点──機体に割り振られたナンバーが表示されたとたん、彼は短く「よし」と口にした。
白点が緑色へと染まる。
動作に問題なしと、チェックがついた証だ。
そのまま少年は視界に入っている窓磨きのロボットや、外で芝生を整えているロボットにも、次々画面上でタップしていく。リズミカルに「よし、よし、よし」と、音声での確認を済ませた。
これがこの美術館における、彼の仕事の一つである。
精密機械の動作、及びメンテナンス。セキュリティを含め、館内の管理はすべて少年の手に担われているのだ。
「よし、よーしっと……」
タブレット端末を操作しながら、少年は歩みを再開させる。
正直なところ、管理だけなら遠隔でも十分だったりする。わざわざこうして自らがご足労を願わなくたっても、なんら問題ないはずなのだ。
しかし、外部の清掃業者との契約を切ってまで、機械ばかりを導入したのはほかでもない少年自身の決定である。
彼は人嫌いであった。
できうるかぎり、自分の身のまわりから人を排したかった。さすがに開館当時から長く勤めている館内スタッフを解雇するのは忍びなかったため、わずかな人員だけは手元に残してはいる。老齢のスタッフばかりなもので、最新鋭の機械を管理するのは自ずと年若い彼自身の役割となったのだ。
廊下を渡りきり、少年は東棟へと足を踏み入れる。入場口や受付、ロビーなどがある西棟に対して、この東棟には美術館のメインとなる展示室が設けられていた。
まず、エントランススペースが来場者を迎える。いくつかのオブジェが飾られている小空間は片面が広いガラス張りで、屋外に出るドアも設置されている。そして、廊下の入口から正面奥の壁に、展示室へ通じる両扉が見えた。
その入口で、少年は足を止める。一度エントランススペース全体を見渡すと、動きまわっているロボットたちの点検を一挙まとめて行おうとした。
「よし、よし、よし、よし……」
律儀に一体ずつ、よしと確認を口にし続ける。
監視カメラもきちんと動作しているか。タブレット画面に映った館内を斜めに見下ろした映像と、ついでに別角度の自分の姿を眺めながら「よし」と判断した。
人手の代わりに導入したマシンは、三十台を超える。途中で舌が疲れてきた上、真面目に点呼するのが猛烈に馬鹿らしくなってしまった。「よし、よ……あーっ、クソッ!」と、こらえ性もなく、少年は忌々しげに声を荒げる。
「もういいっ! ぜんぶマルだ、マルッ!」
まるで鶴の一声だ。
じっさいは美しくもない怒鳴り声だったが、画面すべての白点に緑のチェックが入った。少年は短い嘆息をついて、ひと呼吸を入れると……ゆるりとタブレットから視線を上げて、遠くを見つめ出した。
さて、これで残るは展示室のみである。
エントランスの奥を見据えて、少年はまた息を吐いた。それは長い長いため息であった。表情は今日いちばんに険しい。
苦々しいことに、最後に残った『展示室の巡回』こそが、彼がもっとも忌まわしく遠ざけたい仕事なのであった。
この美術館の展示室は二つある。
そのうちの一つは大展示室という名称で、名のとおり室内は広い。例えるならダンスパーティが開けるほどの十分な空間面積があり、ほとんどの美術品はここに集結している。
この大展示室の巡回は、問題ない。
嫌なのは、その隣にある小さな部屋──小展示室へ足を踏み入れることなのだ。
もっと細かく言えば、とある美術品の前に立つこと。
否、アレを視界に入れることすら疎ましかった。
ここまで来て、少年の気持ちは陰鬱に沈みこむ。小展示室をきつく見据えたまま、廊下の入口から足が上がらない。
(いっそのこと、今日はさぼってしまおうか……)
大展示室のみを軽く見まわり、それで終いにしてしまおう。
なに、誰も自分が手を抜いたことなんかに気づきやしないだろう。
一つ悪魔のささやきを受け入れれば、そこから言い訳の甘やかな枝葉がするする伸びていくのを、少年は胸の内で感じ取った。
「そうとも、いままでが律儀すぎたんだ」
周りに人がいないのをいいことに、彼は不敵に吐き捨てる。
「約束の手前、オレは堅苦しく考えすぎていたようだな。うん、そうだ、そうするべきだったんだ。今日は──いや金輪際、あの部屋には入らん。
これからは、ほかを見まわるだけでいい……」
もう二度と、アレをお目にかけずに済む。
そう思うと、なんだか急に拍子抜けしてしまった。肩から力を抜いて、おもむろに帽子を取って顔をあおぐ。
永久に封印してしまおう。
あの作品は、オレの──。
と、そのときである。
甲高く、けたたましいベルの音が耳をつんざいた。
──ピリリリッ!
「うぉっ!」
脱力とともに雑多な思考を巡らせていたものだから、不意打ちのコール音に少年は飛び上がるほど驚いてしまった。
慌てて、シャツの袖口をまくる。左手首の時計型の端末に呼び出しがかかっていた。
大判切手ほどの小さな画面には、朗らかな笑みを見せた老人の顔アイコンが表示されている。この美術館に長らく勤めている警備スタッフだ。当人はいま、西棟にいるはず……なにかあったのだろうか?
『お仕事中にすみません、かん──』
「どうした? なにかオレに用か?」
通信がつながるやいなや、少年はせっかちに用件を訊ねる。今年で還暦を迎える老齢のスタッフは、急かす若者に思わず苦笑して『いえいえ、そう大事ではありません』と言ってなだめた。のんびりと、落ち着いた口調で返していく。
『驚かせてしまいましたね。一つ確認を入れたかったのですよ、お掃除と点検のほうは終わりましたか?』
少年は「まぁ、概ねな」などと嘘をつきながら、時刻を確認した。気づけば、開館の時刻である午前十時が迫っている。単に終了を促すためのコールだったかと、ひとり納得していると、意外な返答が待っていた。
『それはようございました。では、お客さまをお通ししてもよろしいですね?』
そのひと言に、少年は一瞬思考を止める。
「いまなんて言った?」
『えっと、それはようございました、と』
「そのすぐあとだ。頼む、もう一回言ってくれ」
『はぁ。お客さまをお通ししてもよろしいかと……』
お客さまだって?
彼はもう一度時刻を確認しようとした。だが、タブレットの画面を見る間もなく、館内スピーカーから開館を知らせるメロディが流れた。
いまこの瞬間、午前の十時を迎えたのだ。
(おいおい……平日の初っぱな、それも開館と同時刻ときた。こんな美術館にいの一番に足を運ぶなんて、とんだ物好きの暇人がいたものだな……)
タブレット端末を操作し、外にある駐車スペースの監視カメラのライブ映像を確認する。がらんとしている様子から見るに、そのお客とやらは徒歩で来たというのか。
美術館の場所は、市の中心部から離れた丘の上である。最寄りでもある麓のバス停から歩いたって、ちょっとしたハイキングの距離だ。
『開館準備がまだのご様子でしたので、いまはロビーにお引き留めいたしております。いかがいたしましょうか? このまま東棟へとお通しなさってもよろしいでしょうか?』
「うぬぬ……」
うなりながら、今度はロビーの映像へと切り替える。しかし、相手はちょうどロビーに陣取る彫像の物影にいるようで、姿が見えない。別のカメラへと切り替えてもふらふら動きまわっているようで、すぐ死角へと隠れてしまう。タイミングの悪いやつだなと、少年は悪態をついた。
だから代わりに「どんなやつ?」と訊ねてみた。
『二十代半ばの男性の方ですね。物珍しそうに館内を見まわしております。なんでも散歩の途中にこの建物が目に入ったので、興味本位にお立ち寄りになったとか』
「入場料は?」
『はい、いただいております』
マジか。
この報告には少年も思わず舌を巻いた。
というのも、この美術館の入場料は少々割高なのである。当初はそれほどでもなかったが、少年が管理を任された際にセキュリティの向上と機械の維持費にかこつけて金額を吊り上げたからだ。
二部屋しかない展示室。亀の歩みで鑑賞したとて、三十分もかからないボリュームのなさに、我ながら不親切な価格設定にしたものだと少年は深々と思う。
(これもひとえに、客足を遠ざけるため……)
横目で、小展示室の閉じた両扉を睨む。
少年は「……少し待て」と告げた。手早くタブレット端末を操作して、まず稼働中のお掃除ロボットたちに指示を出す。全機、速やかなる撤退を──作業を中断し、地下にある倉庫へ戻れと命令した。
ロボットたちがわらわらと専用通路へと集結するのを見届けて、少年は腕時計型の端末に向かって言った。
「いいぞ。お通ししてやれ」
そして通信を切ると、自分もロボットたちに続いて地下へ赴こうとした。
だが、足先を向けたところで、少年の脳裏に愉快な思いつきが浮かぶ。
そうだ、ここは一つサプライズでもくれてやろう、と。
急な来場に戸惑いはしたものの、今日からはじめる素晴らしい手抜きの実行に、彼はすこぶる機嫌がよかったのを思い出した。
だから、ほんの少し幸福のお裾分けといこう。変わり者の来場者を、このオレ自らが出迎えてやるのだ。
廊下のすぐ角に隠れるように身を潜め、それこそいたずらっ子のように彼は笑う。どんな面かは知らないが、相手の驚く反応は容易に想像がついた。
まさかこんな時間、こんな場所で超有名人とじかに会えるだなんて──きっと一生にない幸運だろう。
「なんなら、気前よく握手だってしてやろうかな?」
くすくすと楽しい想像を巡らせていると……ほら、やって来た。
遠くからコツコツ、近づいてくる靴音が聞こえてくる。顔を覗かせたい気持ちをぐっとこらえ、少年はそのまま相手側から見えない位置を陣取り続けた。
背筋をすっと伸ばし、軽く喉を鳴らした。
目元に張りが出るよう、まぶたは気持ち大きめに開かせておく。表情は一度きりっと引き締めて、そこからやや力を抜き……そう、上品な面構えへ調整する。
良し、これでばっちり。
鏡で確認せずともわかる、いつもの自分の出来上がりだ。
そうこうしているうちに、いよいよ靴音が間近まで迫ってきた。少年の胸の高鳴りと同調するよう、リズミカルにコツコツ、コツコツコツ……。
(相手の靴先が廊下から飛び出した瞬間を狙うとしよう。まず高らかな挨拶を述べて、それから──)
すでに彼の脳内では十数秒後の未来図が展開されていた。気まぐれな親切から帯びる、ささやかな優越感と冷笑まじりの甘やかな感情に、瞼を震わせて浸る。
しかし、そんな不埒な想像に引っぱられたせいで、少年は反応を一拍遅らせてしまった。かっこよく登場する前に、相手の影が目の前を横切ったのである。
さらに瞬間、廊下と抜けると同時に相手の首が動く。双眸が角に隠れていた少年の姿を先に捉えた。
「やぁ、こんにちは」
その男はにこやかな微笑をたたえ、少年に挨拶をした。
新作連載スタートです。スーパーセレブ少年と世紀の大怪盗が織りなす物語を、どうぞお楽しみください。
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