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第8話 判断

物事を決めることは、とても難しい。

 タイリェス砦を予定よりもはるかに早く攻略できたのは、嬉しい誤算だった。


 侵攻当初、最重要目標として定めたのは、国境付近の防衛と監視の要であるタイリェス砦だった。


 夜が明ける寸前に奇襲をかけた。相当な抵抗が予想されたが、あっけなかった。

 捕虜としたライツ軍兵士を尋問した部下によると、砦内の大半の者から酒の臭いがしたそうだ。どうやら、兵の補充に伴う歓迎会を開いていたらしい。運が良かったと言えるだろう。


 さらに複数の集落を攻略したイルジェン軍は、次々と嬉しい報告をあげてきた。


 国境線を突破して数日がたっていた。全てが順調と言えた。


 イルジェン軍総司令官、ノエラ・バスケスは、まだ真新しい鎧を磨く。次は剣の手入れをしなければならない。軍議に備え、身だしなみは整えておかなければならない。


 男ばかりの戦場にあっての女性ということを差し引いても、その存在感は強烈である。


 鋭い目つきと整った鼻筋。透き通るような白い肌と相まって、普段は冷静で凛とした雰囲気を漂わせる彼女であったが、戦場という高揚感からその頬は少々紅潮していた。

 かつては背中の中頃まであった銀髪の髪は、耳程度の長さでバッサリ切り落とされている。


 ただ、女性としては長身の部類であり、骨格もしっかりしているが、その若さは隠せていない。まだ17歳になったばかりの彼女は、自らの初陣が最高の出だしとなったことを喜んでいた。


(父上も私の初陣に最高の舞台を用意してくれたものです。ライツ相手なら、まず負けることはないでしょうしね。)


 彼女の父、ハイス・バスケスはイルジェンの王である。


 土地は広いが耕作に適した土地が少ないイルジェン国は、周辺の国家との争いを繰り返しながら、その領土を徐々に拡大してきた。

 今や地域でも有数の軍事国家だ。特にハイスが王に即位してからは、積極的な軍事活動を行っている。


 そして、満を持しての自分の登場である。父も度重なる戦争で、古傷も多く、最近は体調を崩しがちである。そろそろ第一線を退いて、後進に道を譲る可能性もある。


 女系の後継者が軍事国家で家臣たちを納得させるには、戦場で戦果を挙げることが最短かつ最善の方法であることは、政治に疎い彼女でも十分に理解できた。


 このノエラが完全なる正統後継者と内外にアピールするのだ。そのためにも、このライツ相手の戦いで、手ぶらで帰るわけにはいかない。


 支度を整え、陣地内に設置された軍議の場に向かう。既に古参の家臣たちが座っている。全員が立ち上がって自分を迎え入れたのは、気分が良かった。


 軍議に先立ち、情報担当が状況報告を読み上げた。


「別動隊第一より伝令有り。ここより北方のタタ村を制圧。敵の抵抗軽微。別動隊第二より伝令有り。ここより南方のシラワ集落を制圧。敵抵抗無し。」


 順調と言えた。後は、相手がどう出てくるかだ。声を意識して低くし、話し出す。


「敵本体の動きはどうなっているか?」

「はっ!偵察隊の情報によると、敵は全面動員をかけているようです。近日中に態勢を整えると考えられます。なお、現在打って出てくる様子は無いそうです。」

「籠城の可能性が高いだろうな。メルクス城に立てこもりというわけだ。我々も嫌われたものですな。」


 古参の武官が軽口を叩く。皆が一斉に笑う。良い雰囲気だ。


「それはそうだろう。何せ例のでかい会議のため、相当ご立派な隊列で出発したらしい。今残っているのは、残りかすみたいなものだ。我々の敵ではない。」


 また別の武官が言う。さすがにドニエル・ハインツと各軍区の精鋭が残っているときに攻撃していたら、これ程の余裕はない。


 軍議が始まる。今後の侵攻ルートを決めていく。メルクス城に敵主力が籠城するとしたら、あと数日でライツの主要街区に侵入できるはずだ。後は『仕上げ』ていくだけである。


 いくつかの事項を決定し、有意義な時間となった軍議は、それが終わる寸前に中断された。


 別の情報担当が駆け込んできた。急ぎの報告らしい。


「緊急伝令です。最前線に出ていた先遣隊が、敵ライツ軍と遭遇。大きな被害を出したとのことです。」

「移動中の敵軍と遭遇か。運が悪かったな。」


 誰かがつぶやく。大した悲壮感はない。先遣隊の兵力などたかが知れているのだ。


 ただ、その後の報告は軍議の参加者の予想と異なっていた。


「いえ、先遣隊の生存者からの報告によると、敵は軍旗を掲げ東方に向け進軍していたとのこと。未確認ですが、領主代行であるヘイル・ハインツも出陣しているようです。状況を勘案すると、ライツ軍主力が前線に向けて進軍中であり、我が方に対し野戦をしかけてくる可能性が高いです。」


 皆驚いた様子であった。まさか打って出てくるとは。ただ、予想は外れたが悲壮感はない。


 ノエラが口を開く。


「なかなか向こうの領主代行様は肝が据わっているようだ。まあいい。もし本当に来るなら。お相手してやればいい。野戦があってもいいように、兵に準備を整えさせておけ。」


 最近意識して使い始めた男言葉も板についてきた。私が指揮官である。この戦場は、私のための舞台なのだ。


 あと数日で会敵となりそうだ。これはこれで良いのだと、ノエラは考えていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「第五陣地より報告!イルジェン軍の攻撃を撃退!敵兵20名以上撃破確実とのこと。また、確認された損害は6名の死傷とのことです。」

「第三陣地、敵軍の大規模攻撃、敵兵50名以上の撃破と推定、戦果確認中。被害報告、陣地死守するも死傷20名以上とのこと。至急救援求むとのことです。」


 ヘイルは報告を受け、指示を出す。


「第五陣地には弓矢と弾薬を輸送しろ。第三陣地については、守備隊の損耗が激しい。本日夜間に後方待機部隊と交代させる。準備を急げ。」


 指示を受けた将校らが退出する。ヘイルは本陣の隅で記録をつけている男に目線を送る。その男、ウガジンは目線も上げず、次々と入ってくる報告を記録し、何かを計算しているようだ。


 報告の波が落ち着く。ヘイルはため息をつきながら、設置された椅子に座った。


(ここまでは順調だ。こちらの想定どおりに動いている。まだ心のどこかで疑っていたが、この男は本物かもしれない。)


 ヘイルは、最終軍議前、ウガジンとの会話を思い出していた。




 ソファーに座ったウガジンを問い詰めた。


「負ける要素はないと言ったな。敵は大軍、こちらは寡兵。野戦は不利と見るが、お前はどのように勝とうと考えているのだ?」


 自らの面子を保つため、言葉を選んだつもりだったが、結局ただの質問になってしまっていた。ウガジンが答える。


「はい。お答えします。最初にですが、敵の数です。敵兵の数ですが、我が方と大差はありません。現在さらに絞り込むために計算をしているところですが、最大でも5,000人程度でしょう。これは、我が方と差はほとんどありません。」

「どういうことだ。前線の情報からも、少なくとも1万以上との報告があがってきている。それに、イルジェン王が出陣しているなら、相当な兵力が動員されているはずだ。」


 ヘイルは面食らった。たかが5,000程度で、地域屈指の軍事国家であるイルジェンの王が出陣するはずがないのだ。


「はい。イルジェン王は今回出陣しておりません。そもそもイルジェンは直近でも複数回小規模ながら戦争を行っており、兵の消耗が激しく、財政状態も悪化しています。これは情報部の見立て通りです。

 また、私はイルジェンで商売を行っている商人たちと繋がりがあり、独自に調査を行いました。結論から言うと、彼らは今回の侵攻のためにかなり無理をしています。兵力回復中のため、主力は動けていないようです。王を含め有力な武官が多数イルジェンの首都に残っており、今回の侵攻は安い賃金で雇われた雇い兵がかなりの人数参加しているようです。

 最近、雇い兵の募集が行われていたこと、それらの者に配るため、質の低い大量生産品の武器が買い集められていたことの確認がとれました。

 あわせて、出陣の際は簡易ながら出陣式が行われたようです。その際、王の娘、ノエラが総指揮官として任命されたとのことです。これは、出陣式の準備を受注したイルジェンの商人から確認がとれました。

 1万というのは、奇襲を受けたことと、タイリェス砦があっけなく陥落したことから、敵を過大評価してしまったゆえの誤認と考えられます。また、彼らの情報管理はだいぶ杜撰でした。武器や兵糧の発注の際に、人数見合いで発注しているケースが多々ありました。それらを積み上げた結果の分析です。」


ヘイルは自らの表情が緩むのを感じた。兵数が互角ならば勝機は十分ある。ただ、疑問も湧く。


「互角であれば、野戦ではどちらが勝つかは五分五分であろう?籠城で守りを固めればまず負けない。圧倒的有利になる籠城戦を選択しない理由はなんだ?」

「ご質問に答える前に、実は今回の侵攻は、非常に政治的な思惑で行われていると推察されます。

 そもそも傷ついたイルジェンは当分戦争をする気はなかったでしょう。しかし、数か月前に正統後継者である長男が落馬により死亡し、王の唯一の実子であるノエラが正統後継者に指名されました。

 ただ、男系後継者が伝統であるかの国では、これに納得しない家臣も多く、親族との水面下での対立が生じているようです。現在のイルジェン王はかなりの高齢です。早いうちに国内の結束を固め、内外に自らの正統後継者として娘を認めさせるため、戦果を挙げさせることが必要だった。

 軍事的空白が生じている我がライツは絶好の相手と考えたのでしょう。これらは、昨今の情勢からの分析です。」

「なめられたものだな。」


 ヘイルはいまいましげに相槌を打つ。

 戦争の理由は領土か資源かと単純に考えていた彼には、ショッキングな内容であった。同時に、平時から周辺国の情勢を俯瞰しているウガジンに感心した。ウガジンが続ける。


「今回の敵の目標は、次代のイルジェン王の初陣を飾ることです。

 我々を籠城に追い込めば、ライツの次期後継者を城に逃げ込ませ、街を破壊し、戦利品を獲得したとして大勝利を宣言するでしょう。橋や道路を破壊し撤退されれば、追撃も困難です。

 我々の籠城は、敵にとって願ったりかなったりというわけです。むざむざ敵の狙いに乗る必要はありません。」


 ヘイルは唸る。自らも、家臣たちも危うく踊らされるところであったわけだ。


「ただ、我々がイルジェン側の兵力を誤認していなければ、野戦となる可能性もあったというわけだ。敵はそれでもよかったのだろうか?」

「それはそれで構わないということでしょう。兵力がほぼ同数、両軍とも精鋭を欠く状態。まともにぶつかれば決定的な結果になる可能性は低く、どちらもそれなりの戦果をあげるでしょう。

 追撃が困難な程度まで我々に被害を与えたら、堂々と帰ればいいのです。そして、新後継者が勇猛に戦い、大勝利をあげたと戦果のみを強調すればよいのですから。」


 完全にヘイルは前のめりとなっていた。食い入るようにウガジンの話を聞く。


 そして、次のウガジンの言葉が、ヘイルの中の意思を決定づけた。


「最初に申し上げたとおり、敵は大変な財政難です。そのため、長期間活動可能な兵糧等物資を確保できていないことが確認できています。商人たちは利にさといですからね。安値では売りません。

 臨時徴税も季節的に難しかったようです。結果として、以前の戦争で消耗した備蓄分も回復できていないようです。

 しかし、我々を籠城戦に追い込めば彼ら自身が撤退のタイミングを選べる上、城下の略奪である程度の物資を補給できる。一方、正面衝突の野戦であれば短期間で決着がつく。つまり資源をいずれにしろ節約できると考えた。

 一見財政的に不可能と思えるこの侵攻を、頭を捻って行ってきたわけです。ですので、我々は野戦に出ます。野戦には出ますが、短期決戦にはお付き合いしません。陣地の守りを固め、時間を稼ぎ、相手方に出血を強いる。

 補給線は我々の方が間違いなく強いです。相手の物資が干上がり、撤退せざるを得なくなるまで追い込みましょう。本格的な戦いは、そこからになります。」


 ヘイルは感服した。手元の紙に殴り書きされたメモを見つつ、精一杯の威厳をこめたつもりで、目の前の『参謀』に語りかける。


「ウガジンさん。ぜひ、戦場でも私の傍に居てくれ。あなたの頭脳が、私には必要だ。」


 無意識に敬称をつけていたことに、そのときは気づいていなかった。




 そして、今現在の戦場の状況に至るのである。

 急造ながら、柵等の簡易陣地を設営し、弓兵を分厚く配置した。貴重品の銃もかき集め、少数ながら狙撃兵も配置することができた。

 奇襲による乱戦を避けるため、視界のひらけた場所に陣を構えた。各陣地には積極攻撃を厳に禁じ、徹底的な損失低減を命じた。

 一定以上の損害を受けた部隊をローテーションで交代し、場合によっては無茶をさせず陣地を放棄させる。相手方の損害の方が大きいのだ。折を見て、夜襲で取り返す。これを繰り返し、一進一退の小規模な攻防が、既に5日も続いていた。


(結局一番大変だったのはデーサンの説得だったな。)


 ヘイルは一人笑った。野戦と聞いて大喜びしていた部下の猛将を、どうにかしてこちらから攻撃させないように説得するかが最大の問題だったのだ。


 結局、ウガジンに説明してもらった。


「本当に重要な局面で、我が方最強戦力のあなたの力を最大限にぶつけてもらいたいのです。ヘイル様の秘策を成就するための、直々のお願い事であります。

 最初から戦えないのは辛いと思いますが、最も大役を任ぜられたことの責任だと思ってほしいのです。 

 今回の戦、デーサン殿の双肩にかかっていると言っても過言ではありません。必ず出撃命令を下すので、それまで待機してください。」


 凄まじい持ち上げ方だったが、デーサンは涙を流して喜んでいた。


(猛獣使いもできるというわけだ。)


 ヘイルはまた思い出し笑いをした。

 初めての戦場なのに、心の余裕が生まれつつあった。相変わらず何かの計算を続けるウガジンを見る。


 その視線からはかつての敵意は消え、畏怖の念さえ含んでいた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 あれほど憧れた戦場は、思っていたものとまったく異なっていた。


 ノエラにとって、兄の死は衝撃だった。嘆き悲しむ父を見て、自らが兄の代わりとなろうと決意した。


 自慢の長い髪を切り、言葉遣いも変えた。この戦争で名を挙げ、様々なたくらみをしている親族の鼻をあかしてやるつもりであった。


 弓矢と銃弾が飛び交う戦場を疾走し、剣を交え、敵を打ち倒す。そのつもりで来たはずなのに・・・


 既に会敵してからとうに1週間以上経過していた。ただ、いつも同じである。こちらの攻撃は決定打とならず、損失が膨らむ。やっと陣地を奪取しても、夜襲によりいくつかが奪い返される。攻撃されては反発され、さらに押し込むと波のように引かれる。

 こちらの損失は相当なものであるとわかっているはずなのに、相手からはまともに反攻されない。


「ノエラ様。第三軍団の負傷兵の後送を開始しました。残存する第三軍団につき、今後の作戦指示を願います。」


 報告を受ける。第三軍団はイルジェン軍左翼を構成する中枢部隊だ。会敵してからの攻撃の中心であり、最大の被害を受けている。ただ、撤退させるわけにはいかなかった。


「第三軍団については、引き続き敵右翼を圧迫しろ。敵狙撃部隊の拠点を一刻も早く奪取するのだ。」


 命令は出すが、申し訳ないという感情を抱く。敵右翼は多数の陣地が設営されており、各方向から狙撃を受けている。傷ついた第三軍団で全てを攻略するには相当な損害を覚悟しなければならない。


「ノエラ様、報告です。第四軍団で大規模な脱走が発生しました。50人を超える雇い兵が、偵察任務中に姿をくらましました。備蓄物資を相当持ち逃げしたようです。現在調査中です。」


 悲壮な表情の武官が報告する。既に各軍団の兵糧や弾薬は底をつきつつある。

 負傷兵を治療する医薬品に至っては、既に2日前に使い果たした。物資不足と戦況悪化を敏感に感じ取った雇い兵は、じわじわとその姿を消している。負け戦で命を失うのはごめんということだ。 


 ノエラは頬の内側を噛む。


(どうしてこうなってしまったのだ。なぜ敵は攻撃してこない。守るだけなら籠城するはずであろう。)

 

 兵糧と武器弾薬の追加補給を要請しているが、色よい返事は帰ってこない。

 そもそも国内の備蓄物資さえ怪しい状況で始めた戦争である。

 その上、ライツ国内に深く侵入したイルジェン軍の補給線は伸び切り、仮に輸送されてくるにしても妨害を受けるであろう。彼女たちの手元にそれらが届くまで、この軍を維持できるとは思えなかった。


「マースを呼んで。」


 武官に指示を出す。彼女が最も信頼する男である。彼女が小さなときから武芸を教わってきた師匠というべき男、忙しい父とよりも過ごした時間は長いかもしれない。既に50歳を超えているが、戦場ではいまだ現役である。


 ほどなくして、マースがやってきた。連日の戦闘のせいか、疲れ切った顔をしている。目の下のクマは、夜襲に連日対応していることの現れだろう。


「ノエラ様。いかがなされましたか?」


 その姿を見て、緊張の糸が少し緩むのを感じた。慌てて気を引き締めなおすと、人払いをさせた。


 2人きりとなり、ノエラが切り出した。


「マース、今回の戦い、何か変。」


 口調が素になっているのも気にせず、素直な質問をする。マースは気にも留めず答えた。


「はい。明らかにおかしいです。領主代行を総大将として打って出てきたときは、短期の決戦となると思われましたが、敵は徹底した防衛戦を展開している。これは想定外ですな。まるでこちらの弱点をわかっているかのようです。」

「こちらが物資不足なのがばれているってこと?もう兵力が1,000人以上減っているわ。これ以上戦うのは厳しくなってきている。」


 マースは少し考え込む。慎重に言葉を選ぶ関係性ではないが、多少は気をつかっているのだろうか。


「ノエラ様、これ以上の損失を出すと戦線が崩壊します。相手方に大きな損害を与えられていない状態での撤退戦は危険極まりないですが、このままだと手遅れになる。早急に撤退準備を進めるべきです。」

「・・・そう思う。次の軍議にかけるわ。」


 ある意味、彼女の中では結論は決まっていたのだ。ただ、背中を押してほしかっただけであった。


 その夜、緊急で招集された軍議で、撤退はあっさり決まった。


 ただ、ひらけた戦場で戦力を維持している敵軍の正面から撤退するのは大変な危険を伴う。

 そのため、撤退戦を悟らせないために、翌日に大規模な攻撃を実施、その後の夜間に撤退することが決まった。

 最も危険な任務である最後尾、殿軍は最精鋭のマースの部隊が務めることとなった。ノエラは反対したが、本人たっての希望であった。


 翌日、この戦場に着いてからの最大規模の攻撃を行った。いくつかのライツ軍陣地がこれに耐えきれず陥落したが、彼らは今までと同じく程よいところで撤退していく。イルジェン軍はかなりの被害を出したが、まずまずの成果をあげた。


 その日の夜は、残存兵糧をほぼ全て放出した。荷物を減らし、体力をつけさせる。


 完全に暗くなったところで、いくつかの部隊が当初の計画どおり動き出した。闇夜にまぎれ、それなりの精鋭部隊が先頭を進む予定である。万が一への備えとして、危険を除去させるための布陣であった。


(マース、どうか御無事で。)


 心の中でつぶやきつつ、日付が変わる頃には、ノエラ率いる本隊も移動を開始した。緊張の時間がこれから数時間はじまる、はずであった。


 突然だった。遠く後方から何かの音が聞こえた。

 振り返る。闇の向こうに小さな光が見えた。暗闇ゆえ距離感がつかめなかったが、数十秒後、状況を把握する。火矢だった。無数の松明も着火されたのか、おびただしい数の光を視認した。今まで気をつかって大声を出すものがいなかったが、飛び込んできた伝令がそれを完全に打ち破った。


「伝令!敵ライツ軍から強襲を受けています!マース隊奮闘中も完全に足止めはできず!敵の大部隊がこちらに向かって突進してきています!」


 大混乱となった。ただでさえ状況が把握できない闇夜である。その上、目立たぬため少数ずつ出発したイルジェン軍の隊列は伸びきっており、有効な迎撃隊形をとるのは不可能であった。


 ノエラは、大声で指示を出した。


「各隊に伝令!各隊の判断で敵を迎撃しろ!その後この先のひらけた平原に順次集結し、態勢を整え反撃にうつる!」


 それらしく聞こえる指示であったが、完全な悪手であった。完全に崩壊した隊列で組織的攻撃をしかけてくる相手を迎撃できるはずもなかった。


 彼女がやるべきことはただ一つ、一時の恥をさらしてでも、遮二無二逃げることであった。


 統制が崩壊していたとしても、闇夜の乱戦なら完全殲滅は回避できたかもしれない。大損害を受けるだろうが、なんとか指令機能を維持して祖国に帰ることができる可能性も十分にあった。


 ただ、冷徹な『損切り』の判断をするには、彼女はまだ若すぎた。


 金で雇われた兵は持ち場を放棄して散り散りに逃走した。

 なんとか踏みとどまった各部隊は、次々と各個撃破された。


 それからどれくらいの時間が経過したか、ノエラに感覚はなかった。ただ、乱戦を行っていた彼女の部隊が完全に包囲されたことに気づいたとき、空は少し白み始めていた。


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