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第2話 異界

この世界に初めてきた、『あの日』のこと。

 寒さが身に染みる季節になっていた。


 どんよりとした曇り空はこの地方特有なものなのか、かなりの頻度で彼の頭上に出現する。


 ただ、爽やかに晴れているよりはいい。陽気な気候で周囲が活況であったなら、そのコントラストに耐えられる精神状態ではなかっただろう。


「宇賀神君。例の処理の進捗について、部長が気にされている。立場上しっかりしてもらわねば困るよ。どうなっているかね?」

 最悪に近しい精神状態だった。係が変わっただけであったが、業務内容も人間関係もがらりと変わった。大規模な人事異動で周囲の人間が大きく動いたのも影響した。

 部門のトップは独裁気質かつパワハラ気味であり、その顔色を伺う取り巻きどもは実情も知らぬくせに部下に上記のような圧力をかけてくる。


「あの書類ですか?この後作業予定です。明日は休みもらう予定なので、提出は週明けになると思いますね。」

 それでいて、新しく配属となったばかりの若手の部下は積極性なく、このようにのらりくらりといった感じだ。

 最近の就職・転職市場の活況を背景に、簡単に辞められるというバックがあるからかはわからないが、彼をいらつかせるには十二分のやる気のなさを見せている。(それでいて、「ハラスメントは~」と言うことは言ってくる。)


「ああ、あの書類間違っていたの?あれわかりづらいんだよね。作り直し?いるかな?言われてからでいいんじゃない?」

 極めつけは、宇賀神とペアを組むこの発言主である中年職員の存在であった。仕事が絶望的にできないのはこの際些末な問題として、開き直りと言い訳、そして仕事を放置しての逃亡(休暇)といたれりつくせりだ。

 今日もその尻ぬぐいで上司に詰められ、残業する羽目になった次第である。


 結果として、哀れ宇賀神のような中堅職員が全てのしわ寄せの中継拠点となっている。


 特に本日は来客した得意先の担当に怒鳴られ、電話でもクレーマーに捕まり、自分の仕事はまったく進まないまま体調不良(にはまったく見えないが)で早退したペアの担当業務をこなしつつ、空気を読まない優先順位低めの雑務を飛ばしてくる上層部に対応し、全く助け舟を出さず定時で上がる若手を見送った彼が会社を出たのは、22時の手前であった。


 働き方改革が叫ばれる中、あまりに退社時間が遅いと翌日嫌味を言われるため、彼はある程度の業務の完結を諦めて家路についた。

 

 最悪の雰囲気もストレスも、4月以降ずっと受けているとある意味慣れてくる。それに加え、この日の彼は気を散らせたかったので、高ストレス環境もある意味利用させてもらっていた。


 今日は彼が最重要視している大型の国家資格の発表日であった。その結果はとうにネットで公表されているが、それを日中確認することなく、彼は帰宅を急ぐ。


 早く確認したい気もするし、見たくないという気持ちも併存している。夏の試験では手ごたえを感じていたし、専門学校の解答速報でも合格ラインをある程度超えていた。

 食事も調達せず、自宅のドアを開ける。荷物を放り出し、パソコンを起動した。

 永遠より長く感じる起動時間を終えると、彼は合格発表サイトを開いた。




 画面を見てからの記憶は曖昧だ。気づくと、地元の交通の大動脈であるバイパスを愛車で走っていた。

 恐らく、外食をとる場所とスーパー銭湯を目指していたのだと思うが、いずれもチャンスがあったのをスルーし、左車線を流している。


「あれでダメなのか。」


 独り言が車内に響く。彼の番号を表示しなかったディスプレイを思い出す。衝動的に出かけたはいいものの、どこかの施設に入ることすら面倒で、惰性で運転を続けた。


 それに受かったからといって、その先には転職活動が待っている。できるかどうか、いつになるのかもわからない。

 ただ、一定の年齢を重ねてしまった彼にとっては、現状を打破したくてもがいている自分の目の前に垂れてきた『蜘蛛の糸』であることは確かだった。


 明日も平日。仕事で疲れているはずなのだ。明日も吐き気を催す会社が待っている。早めに体と心を癒し、英気を養い、態勢を整え、来年の受験に向けて専門学校の資料を確認し、申し込みを行い、勉強を再開し・・・


 冷静な現状分析が脳内で高速処理されるが、それを覆いつくすような問いに襲われる。「いつまでこんな状況が続くのか。」


 今の状況は良くない。ただ、これも数年以内に変わる。人も仕事もだ。次は良くなるかもしれないし、もっと悪くなるかもしれない。


 ならどうすべきか。今のままで良いのか。そもそもこの努力は正しいベクトルの代物なのか。

 

 思考がまとまらない。一つの問いを解決する前に、別の問いが生じる。

 今回の件とは関係ないはずなのに、少し前に親と親戚から強引に設定されかけた、「お見合いとは言っていないが、誰がどう見てもお見合い」みたいな紹介のことも考えた。(そんな気はないと断ったところ、親と随分もめた。それ以来、以前はたまに顔を出していた実家にはよりついていない。)


 要は、この閉塞感をなんとかしたいだけなのだ。ただ、何をすれば良いかわからないから、暗闇でもがいている状態なのだ。強引だが、真理をついた結論を無理やりつけた。


 とにかく帰ろう。気を取りなおす。前を見ていたはずだったが、ほぼ認識していなかったため、情報の処理が遅れた。


 前を走っていた、そして十分に車間を空けていたはずの黒いバンが、急ブレーキをかけた。急速に距離が縮む。間に合わないととっさの判断、後続車はなかったとの記憶を瞬時に処理して、右車線へ車をかわした。


 なぜバンが急ブレーキをかけたのか理解した。風景が不自然に歪んでいる。先に見えるはずの街灯、店舗の明かりが遮断され、道路上の2車線を塞ぐように完全な『闇』がそこにあった。


(ブラックホールみたいだ。ブラックホール見たことないけど。)


 仮に彼に『死』が訪れるとしたら、あまりにも締まらない感想を抱きつつ、彼は闇の中に落ちていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 気が付くとどこかに寝転がっていた。ストレスから最近良く眠れていなかった彼は、久しぶりの熟睡感を抱きつつ、まだ本格的に起きてはいない脳の感覚を楽しんでいた。


 ただ、少しずつ覚醒していくにつれ、直前の記憶がよみがえってくる。暗闇に飲まれた彼は、今までの人生で感じたことのない感覚を全身に受けた。痛みでもなければ気持ちよくもない、例えようもないが、無理やり言語化するなら『歪み』を感じた。


 自分自身がねじれ、分裂し、収縮し、最後は上も下もわからなくなり漂ったような記憶が少しある。そしてそのような中で、光を見つけた。感覚としてその光に向かい、そしてつつまれたのだ。


 一気に目が覚めた。そこは野外だった。


 草原のど真ん中に彼は寝ころんでいた。自分が住んでいたところは確かに片田舎ではあるが、こんな場所はないはず。乗っていた車もない。

 焦って体に触れる。服装は直前の状態であることを確認した。着替えもせず、衝動的に家を飛び出したままの恰好、つまり会社でいつも着ているくたびれたスーツである。ただ、車に乗せていたはずのバッグは見当たらなかった。


「どうなっているんだ・・・」


 立ち上がり、周囲を見渡す。周囲の土地に比べて、少しだけ高い丘の上であることがわかった。遠くには山が見えるが、違和感があった。全て『感覚より低い』のだ。

 日本国で比較的内陸であれば、大体高い山が見えるはずであり、彼の居た県でも、どこに行っても山が見えた。それがない。


 混乱したが、わずかな時間で落ち着いた。爽やかな風が吹いていたのもあるが、何より、何かから解放されたことを感じたからだ。

 仮にここがどのような場所であったとしても、少なくとも自分は事故にあい、何らかのトラブルによりこの場所にいる。そしてここは自分の居た場所からは大きく離れており、手の打ちようがないのだ。

 今やれることは状況を受け入れ、整理し、そして対応することだけ。何より、あの会社、環境、そして閉塞感に支配された世界から一時的にでも解放されているという状態が心地よかった。


「人は居ないのかな。」


 少し喉が渇いてきた。とりあえず周囲を探索してみようとしたときだった。風の音に混じって、異音が聞こえた。

 振り向くと、4名の人間がこちらに向かっていた。これが、落ち着いていたはずの彼を再び混乱させる。


 まずその見た目である。髪の色は様々であるが、2名は金髪、1名は赤みがかっており、1名は黒ではあるが質感が異なっている。そして全員が見た目からして日本人ではないことが明らかであり、さらに1名は馬に乗っていた。女性だった。その馬に乗っている者と目が合うと、彼女らは一気にこちらに向かってきた。


 従者らしきこれまた若い女性(腰に剣を携えており、兵士なのであろう。)2名を従えた彼女は、案内役らしき中年の男性の先導を受けつつ、宇賀神との距離を縮めた。とりあえず動かない方が良いだろうと待っていると、一定の距離で馬を降りた彼女は、馬を従者に預け、宇賀神の前に到達した。


「旅の方ですかね。急な質問で申し訳ありませんが、通報を受けて参りました。私は都市国家ライツの内務局所属、アリッサ・ハインツと申します。いずこからいらっしゃったのか、身分の確認を行います。」

 

 一般的に見て、美しい女性であった。肩より長い金髪の髪を後ろで一つにまとめている。背格好の一部は鎧で隠されているが、良く鍛えられているのか、細見かつ筋肉質、健康的な美を連想させる。切れ長な目は緑と青が調和したような色をしており、白い肌の上で存在感を際立たせていた。20代の中盤から後半くらいか、年齢がいまいち読み切れない。


 宇賀神が事の重大さに気づいたのはこのときだった。何かが起きている。

 外国人と見受けられ、かつ美しい女性が目の前に現れたことではない。彼女の話した明らかな外国語、耳で聞こえる音では全く日本語と異なるその言葉を、なぜか自分が完全に理解していることに驚愕したのだ。


 普通なら黙り込んでしまうところだが、習慣が勝った。

「すいません。実は何か事故にあってしまったようです。本来なら名前や出身を名乗りたいのですが、事故により記憶が混乱してしまっているようです。少し整理してお話したいので、お時間をいただけますか?」


 ここでも宇賀神は驚いた。自らの習慣として、どのような形であれ質問には即答するようにしていた。何かの書籍か記事で読んだ記憶がある。質問に対し反応が遅いと、相手から下に見られたり、不審がられたりする。よって、内容はどうでもよいし、相槌でもなんでもいいので、まず返す。返してから会話は組み立てればよいというメソッドだ。


 ただ、ここでは相手が外国語(なぜか理解できるが)なのだ。さすがに慎重に対応すべきだが、口に出てしまった。そしてそれが、宇賀神が全く知らぬ言語に変換されて口から出ていることに驚いたのだ。


(なにか良くわからない。異常事態ではある。ただ、コミュニケーション上は問題ないようだな。)

 宇賀神は高速で状況を処理する。相手がまた話しかけてきた。


「そうなのですね。実はこの周辺に住むこの者から、見かけない方がこちらで寝ているとの通報を受けたのです。服装もだいぶ異様・・・失礼、特徴的とのことだったので、異国からの方かと考え、確認に参りました。」


 丁寧な人であることはわかった。少なくとも話は通じる。宇賀神は答える。

「ありがとうございます。名前は思い出せました。宇賀神圭斗と申します。」

「ウガジイン?ウガージン?珍しい名前ですね。」

「すいません。実は思い出そうとしているのですが、記憶があまり戻っていません。この名前も頭に浮かんできたものなので、発音とかが曖昧かもしれません。記憶が戻るまでは、あなた様の呼びやすい呼び方で呼んでいただいて結構です。出身や、どこから来たのか、何が起きたのかは、申し訳ありませんが今は思い出せません。」

「わかりました。呼びやすいので、ケイトの方で呼んでいいですか?」


 とりあえず受け入れる。とにかく怪しい人物ではないことを証明することが優先だ。拘束されでもしたら自由がきかなくなる。


「ありがとうございます。そちらで結構です。怪しいと思われてしまうのは重々承知ですが、私も大変困っています。ご指示をいただければ、それに従います。」

「いえいえ。しっかりされていらっしゃる方であるのは今のやり取りでわかりました。私も職務上、怪しい人物にはそれなりの対応をしなければならないのです。ただ、信頼の置けそうな方なので、当局で保護いたします。私どもの街にご案内いたしますので、ついてきてください。歩けますか?」

「ええ。なんとか歩けそうです。ついていきますので、先導願います。」


 成功したようだ。

 よくよく考えれば、宇賀神は真実を何も語っていない。正直に話すのなら、自分は日本という国から来た宇賀神圭斗という者で、車に乗っていたら謎の黒い空間に吸い込まれ、ここで目を覚ましたと言うべきだろう。


 ただ、それは確かに真実かもしれないが、この場にふさわしいだろうか?それを話して目の前にいる人々を納得させられただろうか?答えは否である。


 学生時代に同じ状況なら大パニックだったかもな。社会人も長くやってみるものだ・・・

前を歩く彼らの背中を眺めつつ、妙に年寄りくさい考えが頭に浮かんだ。


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