第1話 回想
ふとしたときに思い出す、以前過ごした世界の記憶。
「陛下、お茶をお持ちいたしました。」
侍女からの問いかけに対し、無視・・・というか聞こえていなかったため無反応となってしまった男は、間を空けて返事をする。
「ああ、ありがとう。そこのテーブルに置いておいてくれたまえ。」
侍女が一礼後、お茶の準備が整う。部屋からその存在が消え、再び一人となった彼は、書類を机の上に放り出す。予備も含め、複数の武器庫への備蓄が完了したとのその報告書は、彼を満足させるに足るものであった。
目をこする。あくびが出る。最近睡眠時間が足りていない気がする。
ただ、明日予定されている会合は重要である。それに向けて、仕事は片付けておかねばなるまい。
お茶を手に取り、部屋の窓から街並みを見下ろす。
美しい街だった。
おびただしい数のレンガ造りの建物が整然と並ぶ街並み。それらの合間を区切るように、舗装された大通りが放射状に伸びている。
それらは街の中心そびえ立つ巨大な城・・・つまり『ここ』に繋がっている。黒に近いグレーで統一されたその構造物は、外周にいくつもの塔と外壁を従え、計画的に整備された街をその守護者のごとく見下ろしている。
街の北側は、この街の力の源泉である巨大市場だ。大小様々な商店が立ち並ぶ。
この街の生産物に加え、街の外からもたらされた各種商品を受け入れるこの場所は、それを消費せんとする者と、それを財貨に変えようとする者でごった返している。
この街の交易網の要として、普段は内外の交流の役割を果たす場所だ。
「この美しい街を、この国を守らなければならない。のか・・・」
独り言を呟く。誰にも聞かれない分、本心からの言葉である。
大きな戦いが始まるかもしれない。それに、この国はたくさんの問題を抱えている。
それにどう対応していくか、毎日考え続けている。
ただ、同時にやるしかないのだ。
昔からの持論である。人生において結果は大切であるが、それを完全にコントロールすることはできない。人にできることは、あくまでプロセスを全力でこなすことだけである。
(色々凄いことになってきたぞ。一体どうなることやら。)
第三者からは想像もつかぬような、下手をすれば軽くも聞こえかねない考えが頭をよぎる。同時に、これまた凡庸に聞こえる発言が口から洩れた。
「ここまで来てしまったら、やるしかないか。」
誰に届くでもない独り言だったが、それは確かに誰かに向けたものであった。
なぜ自分がここにいるのか、そして何をなすべきか。その因果を考えることは、決して不愉快な時間ではなかった。
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「うがちゃん、聞いたか。タニー辞めるんだってよ!」
相変わらずうるさい男だ。発言主は同期の佐々木。がっしりした体形で短く刈り込まれた髪型、無駄に日焼けした顔は、これまた無駄に白い歯を強調するキャンバスとなっている。
地方の国立大を出ている彼は、アメフトだったかラグビーだったか(自分はスポーツの話題にあまり深入りしないようにしているため詳細不明。以前飲み会で聞いた気がするが忘れた。)の部活出身であり、典型的な【体育会系】と言えるだろう。
「ああ。谷口本人から前に聞いた。あいつ辞めたがっていたもんな。確か親の事務所を継ぐんだろう?」
この俺、宇賀神と佐々木、そして話題の中心となっている谷口は同期だ。
同期といっても年齢はバラバラ。転職組の多いうちの会社では珍しくない。大学を出て15年、働き始めてからとっくに干支が一周してしまった我々は腐れ縁だ。
ただ、佐々木は大学を出て東京の保険会社に就職後、数年後に地元に帰ってきたUターン組。俺は大卒後ストレートで就職、谷口は東京の私立の大学院を出て就職しているので、年齢的には佐々木>谷口>俺(宇賀神)となる。
「司法書士だっけか?あいつ仕事終わってからオンラインで専門学校の講座受けているとか言ってたよな。親の事務所継げるとか羨ましいぜ。俺なんかこの前の内示でガチへこみよ。営業第一課とか家に帰れない部署筆頭じゃねえか!」
お前が花形(と上の世代からは言われる)部署とは世も末だな・・・という言葉は飲み込んだ。
こいつは入社以来、どの職場でもなんだかんだ評判が良い。体力に物を言わせて残業し、休日出勤もいとわず。たまに早く帰れる日は先輩方と飲み歩き、休日は上司とゴルフときた。転職組なのに、出世が早い理由はそんなところから来ているのだろう。
「まあエリート部署は嫌いじゃないだろ。うちの依頼のときは頼む。同期のよしみでな。」
「あれ、うがちゃんは残留なの?今の部署長すぎない?残留希望したの?」
怒涛の質問タイムが始まりそうだったので、残留である旨だけ伝えエスケープした。体育会系の相手は疲れる。今日は早く帰りたいのに、トイレの前でたまたま会っただけで拘束されては残業するはめになる。
今は3月。人事異動が発表されてから、各部署バタバタしている。異動者は特に忙しそうだ。自分は内部で係が変わるだけなので、動く人よりは余裕がある。17時少し前には今日の仕事の締めにとりかかる。
「宇賀神さん、ちょっと質問よろしいですか?」
17時を過ぎ、後輩から声を掛けられる。良くないタイミングだが、20代前半の女性社員からの質問に対し、露骨に嫌な顔をするほどのメンタルの強さはない。
「はいよ。どういった?」
「経理ソフトで計算したら数字がうまく合わないんですけど・・・」
この質問主、湯浅涼香は今年度の新規採用社員だ。小柄な体系。肩くらいまでの髪を少し明るめにしている。いつもつけているマスクが逆に、その上に覗く大きな目の印象を強めている。(佐々木からは「可愛い子と同じ部署で羨ましいぞ」と散々いじられた。)
「ああこれか。去年税制改正が入ったところだから、ソフトの方で調整しているんだと思う。いったん出力して、新制度に対応しているか確認した方が良いね。」
「改正って先日共有回覧されたあれですか?」
やばい。完全に捕まった。この子は勉強熱心と評判であるが、定時少し前に捕まると一番長引くタイプの社員だ。空気を読むには、まだ社会人経験が浅すぎる。
結局、根拠法令の説明まで終わり、明日の作業内容の細部を詰めていたら、会社から出られたのは18時30分過ぎだった。
駐車場の端にある濃緑の古い軽自動車が自分の愛車だ。こちらで就職の際に購入した一台目の中古車が数年前に限界に達した。
そいつをお見送りした後、これまた中古でこいつを迎え入れた。決して立派な装備とはいわないが、これで充分である。エンジンをかけ、音楽を流す。色々聞いてきたが、最近は脳に良いということでクラシックを流している。
「買い物を済ませていくか・・・」
混みはじめた道路を走りながら、自宅への最速ルートではなくスーパーマーケットに行先を決める。郊外によくある典型的な大型店。弁当のセールが始まる時間にはまだ少し早いが、値下げシールを待つのが面倒な日もある。
総菜コーナーで幸いにも(半額とはいかなかったが)30パーセント引きの弁当を確保し、それ以外の日用雑貨をかごに放り込んだところで、酒類のコーナーに目がいった。『例の趣味』に目覚めるまでは、毎日のように飲んでいたものだ。
今でも別に酒は嫌いになっていない。久々にチューハイくらいなら・・・
「まあいいか。」
恐らく誰にも伝わらないであろう程度の声量で呟くと、酒類コーナーはスルー、そのまま会計を終え帰路についた。
自宅に着いたのは19時30分頃だった。オンボロではないが高級とは言い難い3階建てのアパート。その2階の1室に入る。1LDKと独り身だとある程度持て余す広さだが、都心でないため高額な家賃は要求されていない。荷物を放り出す。
一人暮らしを始めた当初は様々なルーティンを試したが、「例の趣味」に没頭するようになってからは効率性を重視した動きが確立されている。
部屋着に着替えると落ち着いてしまうので、仕事着のまま低いテーブルとソファーで買ってきた弁当を食す。食後即座に着替えを持ってバスルームへ。入浴と歯磨きを済ませ、部屋に戻った。時計を見てもまだ20時半にはなっていなかった。
「だるくなる前にノルマをこなすか・・・」
食事をしたテーブルとは異なる、ビジネスサイズのデスクに向かう。パソコンを立ち上げ、いつものサイトに向かう。併せて、机のサイドに立てかけてある『教材』を広げた。
画面の向こうからは、恐らく知らぬ人間が聞いたら『聞き取れるけど意味が全くわからない』言葉の羅列が流れ出す。それを少なくとも『意味がわかる』自分に酔いつつ、時間が過ぎていった。
謎の閉塞感を覚え始めたのは社会人になって数年が経過したころからだった。
大学に入り3年、周りが就職活動にあけくれる頃、波に乗り切れなかった自分の出足は遅れに遅れた。
周囲には大学院進学と思われたようであるが、今と比べて就職難が叫ばれていた時代でもある。インターンの話を耳にするたびに焦燥感ばかりがつのる。大学院も検討したが、理系でなかったため周囲に大学院に進む者は少なく、自分の中の選択肢として無意識のうちに消していた。
東京での就職活動にいそしまなかった自分は、出身県にUターン就職することとした。かといって、何かやりたい仕事も思いつかなかった。
周囲には公務員試験講座を受けるものも多かったが、大量の受験科目に目がくらみ、講座代も高かったので踏み切れなかった。昔から勉強はそれなりに真面目にやってきた自負はあるが、大学生を続けていくうちに習慣は抜けてしまっていた。
幸運にも、大企業とは言えないが、地元にある比較的経営のしっかりしているメーカーの内定を得ることができた。友人たちの中には、誰もが知る大企業や官公庁から内定が出ているという話も聞こえてきたが、あえてシャットダウンした。自分と東京の縁はこれで終わりだと感じていた。
結果として、就職難だった時期にも関わらず、大学卒業後切れ目なく働くことができた。
ただ、実家からは多少距離があったので、会社にそこそこ近い場所で改めて一人暮らしをすることとした。
最初の配属は総務部門だった。雑務や覚えることは多いが、ブラックという程でもなかった。(色々洗礼は浴びたが)
新卒1年目は初の社会人ということもあり、それなりに(他の新卒社会人と同じような)苦労を重ねた。想像していたよりは残業も多かったが、なんとか乗り切った。
2年目、3年目と過ごす。この会社は比較的異動が多い。2年目には自分に仕事を教えてくれた先輩が異動し、別の部署からきた業務が初めての係長に『仕事を教える』担当になった。ある意味恐ろしいことだが、悪い人ではなかったのでなんとかなった。
そして業務を覚え、色々落ち着いた3年目が終わると、自分が異動となる。この因果というか、輪廻転生を繰り返していくことになるのだ。
なんだかんだ気に入っていた最初の部署から動かされ、一応面談で伝えていた希望の部署とは程遠い部署に異動になったあたりで、前述の閉塞感が生まれた。
「自分は一生これを繰り返していくだけなのか?」
そこでの仕事はつらいものであった。会社内外問わずのやりとりが多く、精神的にも、肉体的にもダメージの大きい内容だった。何より、『何のためにやっているのか』が見えにくい性質の仕事だった。
口には出さないが、大学時代に有していた焦燥感とはまた違った感情が芽生えた。転職サイトを眺める日々。ただ、どうすれば良いかわからなかった。何がやりたいのか(目的)と何をすべきか(手段)がごっちゃになり。動けないまま時間だけが過ぎていく。ある意味メンタルが一番きつかったのはこの時期である。
ストレスが頂点に達する直前、後から考えると心に一番直撃するタイミングで、前の部署での知識を生かした資格試験を受験した。先輩から受験を勧められ、ネットで購入したテキストで独学しただけであったが、とにかく職場と家を往復するだけの日々の刺激になればと受けてみたのである。
結果はネットで見た。合格であった。その時点ではまあ良かったといった程度であったが、後日賞状のような合格通知が届くと別の感情が湧いてきた。達成感、充実感を超える謎の感情。快楽物質を脳に直接ぶちこまれたような、とてつもなく甘美なものであった。
「転職するには資格があった方が良いし、まずは色々勉強してみるか。無駄にはならないだろう。」
正直なところ、様々な情報から資格だけではどうにもならないことはわかっていた。資格を前提とした実務経験、さらに言ってしまえば「若さ」が転職市場においては有利な要素であることは情報として理解している。ただ、不安を前に立ち止まってしまった大学時代とは異なり、少なくとも彼は動いた。社会人をしながら様々な勉強を始めたのである。
人生どんなきっかけで転ぶかわからないものである。そして優先順位が逆転してしまうこともよくあることである。この勉強という『趣味』に目覚めてから、彼は変わった。
夜に資格の勉強をするためには残業は少ない方が良い。そのためには日中効率的に動きつつ、ドライに切り上げることが必要となる。
おりしも働き方改革が叫ばれはじめた頃であり、残業が比較的少ないことは彼の評価を上げることはあれど下げることはなかった。
また、業務の性質的に、資格試験の知識は業務にも生かすことができた。人事面談でも「プライベートで業務関連の勉強をしている。」といって評価が下がることはない。
そして何より、自分の中で『軸』ができたことにより、精神の安定に繋がった。知識があると自信がつく。その自信をバックボーンとし、他人との会話能力も上がった。
(本来彼はそこまで社交的な人間ではなかった。グループから完全に排除されるほどではないが、居なくても成立してしまうタイプの人間。つまり、『居たら居たで良いが、居なくても問題は生じない。』というタイプだ。自分でもわかっていたが、人の性質はそう変わらなかった。少なくとも『今までは』)
勉強習慣は他にも影響した。今まで人並みにサブカルをたしなんできた彼だったが、変わって、いわゆる意識高い系や教養本を読み漁った。組織論、マネジメント論、経営論、戦略論等々・・・元々歴史好きではあったが、大人になって改めて学ぶのは楽しかった。
『それ(勉強という趣味)』が目的に対しては微妙に方向のずれた努力であったとしても、彼のキャラクターは過去とは異なるものになっていった。
そして、複数回の異動をはさみ、今自室でオンライン講座を受けている彼の状況に繋がるのである。
法律、会計、保険、金融等・・・多数の資格を取得してきた彼は、今かなり大きな国家資格の勉強をしている。書棚には教養本がギッシリ並べられている。果たしてこれが自分の求めていた状況かはわからない。
ただ、習得してきた知識、教養と複数部署での経験から、宇賀神は『少し理屈っぽいが、特に事務系の仕事に強く、口も達者でそれなりにやる男』という、ある意味本人的には満足な評価を得ている。
ただ、果たしてこれでいいのかという自問自答をしない日々はない。肝心の転職活動はしないまま年齢は重なっていく。たまに実家に顔を出せば、田舎特有のものなのか、それとも世の親はみなそうなのかわからないが、「結婚はいつ~」というテンプレどおりの話となる。
確かにおおかたの同級生は結婚し、ほとんど飲み会は開かれなくなった。(仮に今飲み会が開催されたとしても、家庭の話題が中心となることを彼は経験則から知っているため、参加はしないであろう。)
そのような状況を頭から追い出すために、彼は講義に集中した。今日の内容が終わる。時刻は22時30分を過ぎていた。
「疲れた。」
誰も聞いていない言葉が部屋に響く。ノルマをこなした彼は、敷きっぱなしのヨガマットで体を伸ばすと、動画サイトで脳が疲れない動画を視聴し、『普通に』プライベートな時間を過ごした。日付が変わる頃にベッドに体を滑り込ませ、暗くした部屋で眠りにつく。
友人にこのルーティンを話すと信じられないといった反応をされるが、別に慣れてしまえばどうということはない。
逆に宇賀神からすれば、仕事が終わった後ジムで体を鍛えたり、走りにいったり、休日に山に登ったり、デートに行ったり、家族サービスをしたり、そもそも遅くまで残業したり・・・といったことと使う時間は同じであろうと反論したい。むしろ自己完結できるのでこちらの方が気楽である。
夏頃の試験まで、追い込みやらないとな・・・
そんなことを考えつつ、彼は眠りの世界へ旅立っていった。