プロローグ 星街珈琲
地球にやってきた宇宙人──私が最初に心を震わせたのは、日本の小さな喫茶店だった。
店内にはドリッパーからしたたり落ちる珈琲の音が響いていた。
黙って一人、ドリッパーに湯を落とし、蒸らされた珈琲豆の粉がふわりと膨らむのをじっと見つめる。
白いシャツの袖をたくし上げ、左手で器具を支えるその所作は、まるで何かの儀式ともいえるだろう。
「どうだ、今日もいい出来だろう?」
カウンターの奥、誰もいない部屋に飾られた2つの遺影に向かって呟く。
少し人相の悪い、色の入ったメガネをした初老の男。
ここ星街珈琲の先代店主、星街譲二だ。
──そして、もう1つ。カウンターに立つ私と全く同じ姿の青年の遺影。
整った顔立ちだが、どこか眠たげな目元と、ゆるやかな髪の流れが力みを感じさせない。
柔らかい表情とその静けさは、不思議と人の心を和らげる。
まるで、人の感情を音もなく受け止める、波のない広い湖のような男という印象だ。
不慮の事故で5年前になくなった、譲二の息子──星街ダン。
いま、私が借りている姿でもある。
「譲二が亡くなって1年か……」
私が喫茶店でコーヒーを淹れるようになって、結構な時が経った。
豆を挽く音。湯がコーヒー豆を蒸らす匂い。
カップを受け皿に置くときの、あの澄んだ音。
誰も大きな声を出さず、誰も急かさない。
ここでは時間さえ、少しだけ遠慮してくれているような気がする。
人間は、こういう場所を「くつろぐ」と呼ぶのだろう。
誰も強くなくていい。何も証明しなくていい。
ただ、穏やかでいられる時間。それだけで、十分に価値がある。
この平穏をなんとしても護りたいと思えるほどに。
しかし。
『────』
もはや騒音と化した、無性にカンに障る音が耳に響く。
非常事態を知らせるサイレンが、つい先程からずっと鳴り止まない。
「まったく。この地球の現状と来たら……」
洗ったばかりのカップが揺れ、建物全体が大きく軋む。
身体の芯まで響くような鈍重な音と地響きが、段々と距離を縮めてくる。
サイレンの音が急げ、急げ、と騒ぎ立てる。
『──すぐに避難してくださいっ!!』
テレビをつければ、臨時速報ニュースがすべてのチャンネルで放映されている。
冷静を求められるはずのアナウンサーが、血相を変えて叫んでいた。
『出現した怪獣は現在、東京・新宿方面へ進行中です……国家覚醒者管理機構《NAO》はAランク覚醒者の派遣を決定。それにともない新宿区には避難勧告が発令されています』
──瞬間、身体が浮くほどに大きく揺れた。
鼓膜を破りかねない爆音と共に、建物がまた大きく軋む。
怪獣は思ったよりも近くにいるようだ。
そっと右手の指輪を撫でる。
銀色の文字が、淡く光って浮かんでいた。いつでもこの擬態は解除できる。
できれば、少しでも長くこの平穏を享受していたかった。
ささやかな私の願いは、この変身と共に終わるだろう。
「店が踏み荒らされる前に──」
その時、カランコロンと鈴が鳴って扉が開いた。
「──♪」
鼻歌交じりで店に入ってきたのは、私と同じ白いシャツに、黒いパンツ姿の女性だ。
──何度見ても、その美しさに目を奪われているのは内緒だ。
長い銀髪をひと房に束ねたポニーテール。褐色の肌に、金色の瞳──。
その姿はどこか浮世離れしていて、立っているだけで絵になるほど美しい。
本人が女神を名乗っているのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
「マスター、私はミルク珈琲が飲みたいぞ」
星街珈琲に居候中の自称女神様が、外の空気をまったく読まずにカウンターに座る。
「いや、もうそこに怪獣が……早く逃げないと」
その時、テレビからアナウンサーの焦ったような声が聞こえてきた。
『か、怪獣が倒されました……っ! と、突如空から降ってきた光に当てられた怪獣が死んでいますっ! 信じれません、これが覚醒者の力なのでしょうか!?』
映像では仰向けにひっくり返った怪獣の姿が写っている。
腹部に空いた大きな風穴が致命傷なのだろう。
ただ、残念ながら人類の覚醒者にあの怪獣を一撃で倒せる者はいない。
「……セフィ、君がやったのかい?」
「ふん、せっかくの隠れ家を壊されても面倒だからな」
いいから早く、と。
わがままな女神様はカウンターで頬杖をついて、トントンと木の机を指で叩きながら催促してくる。
「なあ、マスター。お前はただの人間だが、私の信徒だ。私に従う限り、今日みたいに守ってやろう」
「……それはどうも。じゃあ怪獣を倒してくれたんだから珈琲をご馳走しようか」
「ああ、ちゃんと砂糖を入れろよ! ケーキもつけろ!」
「はあ、仕方ない。ケーキは一個だけだからね」
カンに障るサイレンが止み、私の愛した静寂と平穏が戻って来る。
──いや、訂正しよう。平穏は戻っていない。
「ふふ、だいぶ力も戻ってきた。アストラゼノンめ……何処に隠れたか知らないが、次は息の根を止めてやる」
冷や汗でビショビショな内心を、表情には微塵も出さず。
念動力でそっと、星街ダンの遺影を隠す。
──私は星街ダン。そして本名をアストラゼノンという。
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