泡沫
「おはよう、アルド」
「おう、朝飯できてるぞ」
現在俺が暮らしている宿は『止まり木亭』……ではなく、王都の一等地である北区にある一軒家だ。
ここは俺とエヴァの愛の巣……というのは冗談。
遠征に行ったり、場合によっては海外に長期滞在することになることも多い彼女に合わせて、物件は賃貸で借りることがほとんどだ。
もちろん差し引きで考えて得の方が多い場合は、買ってしまうことも多い。
そんなことができるくらいには、エヴァの稼ぎはえげつなかった。
「だし巻き卵と焼き魚、それに海藻の味噌汁……私、アルドの故郷の料理好きなのよね」
「そうかい、そりゃ良かったよ」
当然ながら彼女には前世のことも話している。
精一杯の前世知識を活用し金に糸目をつけずに頑張ったことで、俺は和食をこのマジキン世界に再現してみせた。
納豆のような癖の強い素材はウケが良くなかったが、今のところ大抵の料理は気に入ってもらえている。
「あーぶ! だーだー!!」
「こらこらウィリス、危ないぞ」
背中の方から伸びてくる手を遮ってから、くるりと後ろを向く。
そこにはどこか俺に似た仏頂面と、エヴァに似たかわいらしい顔をした天使の姿があった。
彼女はウィリス、つい先日産まれた……俺とエヴァの子だ。
「かわいいわね」
エヴァはウィリスに手を伸ばすと、その鼻をつまんだ。
「あう……」
するとみるみるうちに母親譲りの黒目に涙が溜まっていき……ダムが決壊する。
「あんぎゃあああああああああっっ!」
「ああもう、お前が馬鹿なことするせいで泣き出したじゃないか!」
「べ、別に馬鹿なことなんて……」
「とにかくさっさとご飯食べて仕事に行く!」
「わ、わかったわ……」
世間的な立場と家庭の中の立場というものは、案外異なることが多い。
世界中から『迅雷』の二つ名でもてはやされている彼女も、家庭の中では俺に頭が上がらない。
軽く跳ねながらトントンと背中を叩いてやると、徐々にウィリスの調子が戻ってきた。
「い、行ってきます!」
エヴァは時計を見て忙いで準備をすると、家を後にしようとする。
彼女のプロポーションは、経産婦であることが信じられないくらいに以前とそっくり同じだった。
きっと俺の見えないところで、色々と気を遣っているに違いない。
「行ってらっしゃい」
そんな彼女を見送ってから、少し冷めた朝ご飯を食べる。
規則的にゆすっていると、ウィリスはあっという間に眠ってしまった。
完全に寝入ってしまった彼女を赤ちゃん用のベッドに横たえると、一杯の紅茶を入れる。
「ふぅ……」
あの時、俺はエヴァに泣いて縋って許しを請うた。
俺のことが好きだったエヴァにそれを振り払うことはできず……結局俺達は付き合い続けることになる。
けどそんな関係が続いていれば、エヴァの風評に傷がついてしまう。
そのために俺は、一つの選択をした。
――冒険者として大成する夢を諦め、エヴァと結婚したのだ。
気持ちに整理がつけてしまえば、後はするすると流れるように進んでいった。
彼女は順調に冒険者の階段を駆け上がり、俺は彼女を支える裏方として家事手伝いや諸々の手続きなど、できる範囲で彼女の支えになっている。
ある日前世の記憶が戻ってからは一気に、家事と事務のスキルも上がり、おかげで子育てをする時間的な余裕もできた。
正直なところ、最初の頃は心中複雑なことも多かった。
けれど……こうしてウィリスの顔を見ていれば、全てが正しかったことがわかる。
俺とエヴァの特徴をそのまま引き継いでいる彼女は、何より大切な宝物だ。
今はウィリスが何よりも大切だ。
俺の人生はきっと、この子と出会うためにあったに違いない。
そんなことを大真面目で考えてしまうくらいに。
「かわいいなぁ……」
ぷくぷくのほっぺを優しくつつくと、ウィリスがわずかに顔をしかめる。
これ以上やると泣き出してしまうことを知っている俺は、それ以上は触れずにジッと我が子を見つめていた……。
仕事が終わり帰ってくるエヴァを迎える時には、既に夜ご飯は作っている。
仕事の都合で遅くなることも多いが、なるべく食事は一緒に摂るというのが我が家のルールだ。
食事を終えてウィリスを寝かしつけたら、そこから先は二人の時間だ。
薄暗い部屋の中で、今日あったことや過去のことを掘り返してああでもないこうでもないと話し合う。
こういう時間を毎日きちんと設けることが、夫婦円満の秘訣だと、俺は思っている。
「ねぇアルド」
「なんだいエヴァ」
「後悔……してる?」
後ろからエヴァを抱きしめる形で話をしていると、ふと彼女は顔を上げてこちらを見つめてきた。
後悔……か。
「してないと言えば嘘になる。けど……」
「けど?」
「あの時君の手を取っていなければ、俺は二度と君と一緒にいることはできなかったはずだ。自分で言うのもなんだけど……俺は本当にギリギリにならないと、覚悟を決められない男だから」
あの時ちっぽけなプライドを捨て去り、号泣しながらエヴァに縋ったのは英断だった。
今だからこそそんな風に思う。
もしあの時、意地を張って別れていたら……今の俺は、どうなっていただろう。
エヴァとも別れ、前世の記憶が戻るまではただ死んでいないだけの人生を送っていたに違いない。
そんな人生と比べれば、今の方が何十倍も幸せ……な、はずだ。
ズキン。
なぜだか、胸が疼いた。
するとそんな俺の心の痛みを見抜いたエヴァが、そっと胸に手を当ててくれる。
「私は今……幸せよ」
「ああ……俺も、幸せだよ」
俺はエヴァと抱き合い、互いの体温を確かめ合った。
けれどなぜだっか、胸の奥に感じる熱さがどんどんと強くなっていく。
今や熱さは胸だけではなく、全身を駆け巡っていた。
とろんとした目が開き、意識が覚醒していく。
俺はこちらを不安げな顔で見つめるエヴァの手を握り……そっと離した。
「俺は今、たしかに幸せだ……。そしてだからこそ……君とは、一緒にいられない」
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