四、雨の中の絵馬 現地取材を挙行せよ
迎えた当日、二人は七条から祇園を回り、西洞院の御金神社へと向かった。現場は規制線もとれて、狭いながらも立派な境内は、すっかり日常を取り戻している。
「こんな具合じゃ、気配も何もないと思うんですけどねぇ」
「そうブーたれるな由香ちゃん。キャップの見立てでは、警察が見落としてるような、何かがあるはずなんだ……」
傘をさすほどではないものの、うっすらと霧雨がこぼれる境内をかれこれ三十分、二人は当てもなくさまよっていた。
「肝心の吉倉さんは目を覚まさない……残された紐からは指紋が出ない……八方ふさがりですよ、これは」
由香の言葉通り、事件はまさに八方ふさがりの局面に差し掛かっていた。証拠が見つからないという報道に、名士たる彼女の父親と祖父が怒る――それを聞いた警察の上層部が現場へ檄を入れる――却って空回りをする――。
ほんの一週間弱の間で、事件はどんどんと泥沼化が進んでいたのだ。
「――電話もメールも、SNSの履歴にも、怪しい人間の形跡はなかったそうですからねえ。行きずりの犯行か、はたまた……」
「こらこら、あまり先入観を持ってはいけないよ。――虚心坦懐、シンプルイズベスト、いつもデスクやキャップが言っておるじゃないかね」
雨脚の大きくなるのに耐え兼ねて、涼は持っていた大きな傘へ後輩を招き入れた。通り雨のような気配は微塵もなく、化繊の生地を叩く音が、刻一刻と激しくなっていく。
「――このままやり過ごすの、ちょっと無理そうですよ」
「そんな気がするねぇ。少し、軒先で雨宿りをさせてもらおうかな」
普段はおみくじなどを売っている、小さな社務所の軒先へ入ると、涼は傘をすぼめ、雨露を払った。
「にしてもまあ、すごい量ですね……」
「ん?」
由香の言葉に、傘をたたんでいた涼はふいと目線をあげ、ああ……と同意してみせる。ご神木のイチョウの葉を模した絵馬には、様々な願い事――もっぱら、看板になっている金運上昇に絡んだものなのだが――が書きつけてある。
「人間の欲望は果てるところを知らないとは、よく言ったものだねえ」
「ほんとうですねえ。なんて書いてあるんだろ?」
「あ、こら――」
呼び止める涼をよそに、由香は傘もささずに絵馬のところへ走り出した。そして、しばらく申し訳程度の屋根の下で絵馬を覗いていたかと思うと、
「――お、おリョウさんちょっと!」
「なんだい由香ちゃん――」
急にあがった呼びかけに、涼は軒下から飛び出し、ブレザーを湿らせた由香の元へ駆け寄った。見ると、由香は一枚の絵馬を持って、左の指でしきりにさしている。
「こらこら、風邪ひくじゃないか……いったいどうしたね」
「今、なんとなくめくったやつにこんなのがありまして……」
「――やっ」
わななくような声の由香に、つられて涼も目を見開いた。長らくほかの絵馬の下にあったおかげで、日にも焼けずに真っ白な色味を保っていた絵馬には、次のようなことが書いてあった。
瀬戸コーチのお給料が上がりますように。私に振り向いてくれますように。
吉倉和美
「おリョウさん、どう思います。同じ場所に、同じ名前が出そろうっていうのは……」
「あんまりにも出来過ぎてるねえ。だが……」
そこまで言いかけて、涼はため息をつく。
「起きてしまっている以上、これは放っておく手立てはあるまい。キャップと、編集部の写真班へ連絡をして動きを考えようか。これは念のため、フィルムで撮っておいた方がいいだろう」
「わかりました! なんだか、すごいことになってきましたね……」
思わぬ進展に胸を弾ませる後輩を、涼はどこかのどかな目で見つめていた。
七女通信の編集部には、掲載する写真の扱いに一つだけルールがある。それは、何かしらの重大事項――この場合は犯罪の証拠になりそうなもの、ということになる――に関しては、改ざんが不可能な銀塩写真で撮影をすること、というものだった。
「――へーへー、現像オッケー。で、これから焼き付け……じゃ、明日にはもらえんのね。了解了解、そいじゃよろしく……」
編集部からのガリ電を切ると、登和子は椅子ごとくるりと向いて
「今しがた、写真班の連中から連絡があったよ。ピントの狂いなし、見事なネガがあがったそうです。二人とも、お手柄でした」
と、安心した表情を涼と由香にのぞかせた。雨の中の御金神社を出てから二時間。とうに日も暮れて、止んだ雨空からはきれいな夕日がにじんでいる。
「――いやはや、今度ばかりは私は関係ないよ。ほめるなら、由香ちゃんだけにしておいてくれるかい」
謙遜する涼に、由香はそ、そんなあ……と顔を赤らめる。いずれにしても、これは捜査上にも、大きなポイントを占めているのは確かだった。
「しかし、同時にこれは厄介な問題でもあるな。なぜ、吉倉和美は恋愛成就の絵馬があるところではなく、金運成就の絵馬にあんなことを書いたのか……」
「でもって、その相手は同じ部活のコーチと来てる。これからの進展次第では、ドロリとした絵解きが待ち受けていそうだねぇ、キャップ」
「――あれ、でも瀬戸コーチって、あの日私たちが取材に行った先にいましたよね? ほら、空回りしてた人をなだめてた……」
由香の指摘に、涼はおや……と首をかしげる。
「そういや、そんなような二枚目がいたような気もするね。キャップ、SDカードは……」
「まだ編集部には下げ渡ししてないですよ。引き出しにあるから、ちょっと見てみましょうか」
記事本文や写真の送信以外でめったに使うことのないノートパソコンを開くと、登和子は名刺入れほどの大きさのアルミケースに収まったSDカードをうやうやしく取り出し、リーダーの口へと差し込んだ。
「あったあった、この辺りじゃないですか?」
サムネイルであたりをつけた登和子は、ものの見事に瀬戸コーチの写真を引き当てた。細面の精悍な顔立ちをした、余分な肉などついていない、はつらつたる二十代の青年の横顔がそこにありありと写っている。
「やっぱりそうだったか。ポロシャツのネームにも『SETO』とある。我々のいた時間と犯行時刻が見事にかぶるから、瀬戸コーチはやはりシロということになるが……」
写真を拡大し、胸元に躍る縫い取りの名前を指さしながら、涼は当日のメモを引っ張り出し、それぞれの滞在時間と犯行推定時刻をすり合わせた。ものの見事に、両者は被っている。こうなれば当然、瀬戸コーチに凶行は不可能である。
「キャップ、これはひとまず、外堀から埋めた方がいいんじゃないかな。瀬戸コーチは現段階では、まごうことなきシロだと思うがねぇ」
「全くです。ひとまず、コーチより先に吉倉和美本人の周辺事情を探った方がいいかもしれないな。明日さっそく、ヒトミンにでも鹿鳴館に飛んでもらおうじゃない」
受話器を抑えたままガリ電のハンドルを回すと、登和子は編集部で誰かが電話を取るのをやや興奮気味に待ち構えるのだった。