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 組合の展覧会に出かけた翌日、ディララは自室の寝台の上で惰眠を貪っていた。

 昨日は久々に外出したため疲れたし、神絵に化けるかもしれない絵を見つけたことで夜遅くまで興奮して眠れず寝不足だったし、普段から怠惰な性格を送っているためやる気が起きないときは布団に潜ったまま起きない。

 悠々自適の自堕落生活だ。

 女中のメルヴェが寝室のカーテンを開けて窓から暖かな春の陽射しが差し込むようにしてくれていたが、ディララは目を閉じてぼうっとしていた。

 こういうとき、瞼に神絵は映らない。


(そういえば庭の白木蓮の花が咲いていたけれど、あんな感じの柔らかい乳白色ってどういう顔料を混ぜたら良いのかしら。おしろいの色とは違って、なんか真珠を混ぜたようなきらきらした感じで、でもしっとりした感じの色がきれいだけど、わたしが色を混ぜると真珠色がなぜか牡蠣色になるのよね。まぁ、似たような色と言えば似たような色だけど、なんかこうねっとりした感じというか)


 真珠と牡蠣がいくら同じ貝とは言え、似たような色だと考えている時点でディララの認識には問題があるのだが、大雑把な性格の彼女には阿古屋貝と牡蠣の区別はあまりついていない。


(色を作るのはやっぱりナムークに任せた方が良いわよね。わたしが顔料を混ぜ出した瞬間から、摩訶不思議な化学反応が起きるわけだし)


 ぐうっと腹の虫が鳴ったので、さすがにそろそろ起きて軽くなにか食べようかとディララがもそもそと動いたときだった。


「ララ!」


 ばんっと勢いよく扉が開き、フィクレトが部屋に飛び込んできた。

 彼が断りもなくいきなり部屋に入ってくることはこれまでなかったため、ディララはかぶっていた毛布から顔だけ出して目を丸くした。

 いつもはひとつに結んだ髪を一筋たりとも乱さないフィクレトが、髪を振り乱している。

 玄関からディララの部屋まで一直線で走ってきたのか、外套を羽織ったままだ。


「フィクレト! 勝手に姉さんの部屋に入るなよ!」


 フィクレトの後を追って廊下を走ってきたナムークが抗議するが、見事に無視されている。


「ど、どうしたの?」


 肩で大きく息をしているフィクレトは顔面蒼白だ。


「商談、駄目だったの?」

「そ、それどころじゃなくなった……」

()()()()()?」


 ディララとナムークが声を揃えて聞き返す。

 フィクレトはディララの作品を正しく理解してくれる人に売ることが自分の使命なのだと常々言っている。その彼が、ディララの作品の商談について「それどころじゃない」と言ったのだ。

 ふたりが耳を疑うのも無理はない。


「ララに、国王陛下から依頼があって――」

「依頼? 今度は第二王妃様の肖像画?」


 前に描いた第一王妃の肖像画は好評だったと聞いていたディララは、毛布から這いだしながら尋ねた。


「いや……肖像画ではなく……」


 妙にフィクレトの説明は歯切れが悪かった。


「第二王子の……」

「第二王子の肖像画? 王太子殿下ではなく?」


 ナムークが尋ねたが、フィクレトは慌てて首を横に振った。


「肖像画じゃない。弟子だ」

「弟子?」


 ディララはナムークを指で示して尋ねる。


「第二王子のバルラス殿下を君の弟子として迎えてほしいと陛下がおっしゃっているそうだ!」


 フィクレトが一気に捲し立てた。


「弟子?」

「そう」

「誰が?」

「バルラス殿下だ」

()()って……王子様ってことよね?」


 ディララは第二王子を不敬にも「それ」呼ばわりしたが、フィクレトとナムークは聞かなかったことにした。


「なんで?」


 寝間着のままフィクレトに近寄ったディララは、首を傾げる。

 結んでいない長い黒髪がさらさらと音を立てて揺れた。


「よくわからないが、組合長のところに陛下の使いが来て、陛下からの手紙を持ってきたんだ。これなんだけどね」


 持っていた鞄からフィクレトは蜜蝋で封印が押された真っ白な封筒を差し出す。

 印象は国王を示す王冠と茉莉花の花をあしらったものだ。


「これ、本物?」


 ナムークが疑わしげに尋ねる。


「多分。僕もこれを組合長から渡されただけだから、国王陛下の使者には会ってないんだ。カフラマーン芸術家組合を通してララに依頼した方が断られないって考えたんだろうな」


 恐る恐る手紙を受け取ったディララは、慎重に封筒を開けた。

 取り出した上質の便箋には、丁寧な文字でディララ宛てに『第二王子バルラス・マダドを弟子として受け入れてほしい』と書いてある。


「…………無理」


 低い声でディララが答える。


「無理無理無理! 王子様とか、絶対に無理! わたし、人に絵の描き方を教えたりできないもの。ナムークは一応はわたしの弟子ってことになってるけど、はっきり言って絵の制作の手伝いをしてもらっているだけだもの。それにわたし毎日精力的に絵を描いているわけじゃないし、王子様とかお付きの人とかなんか知らない人が作業室にいたら気が散って絶対に描けないもの!」


 ぶんぶんと首を横に振ってディララは必死に言い訳を並べる。


「俺は、師匠の技は見て盗めって感じで勉強させてもらってるよ」


 ナムークは弟子として教わることもあるという顔で告げる。


「王子様にはわたしが絵を描いているときは別にどんな風に作業しているかとか見てもらってもいいけれど、わたしは絵を描いてないときの方が圧倒的に多いもの! ナムークならわたしが一日中顔料の瓶の並び替えをしていても気にしないでしょうけれど」

「姉さんの足下に顔料の瓶が散らばっているのはちょっと気になるけどな。蹴って倒したりしないかとか、蓋が緩んで色粉が零れたりしないかとかさ」


 ディララは絵を描く気分にならないときは、ひたすら画材の棚の整理整頓をしている。きれいに片付いた頃に、ディララの創作意欲が湧いてきて、絵を描き始めると自分の足下に画材を放り出すように並べるのだ。

 ナムークの弟子としての一番の仕事が、ディララが画材をすぐに手に取れるような距離に置きながらも顔料の瓶や膠などが入った瓶を蹴飛ばさない位置に移動させることだ。


「ま、そういうことを王子様にさせるわけにはいかないよな。それに、姉さんの作業時間って常に決まってないしさ」

「だよね……。そもそも、殿下が絵の基礎を学びたいって言うなら、美術学校に通うべきなんだよ。美術史や美学や絵画技術ってのは、美術学校でたくさん学べるからね。ララに師事すると、ララの絵の描き方だけを見て真似するってことになるわけだけど」


 フィクレトが最後は言葉を濁したのは、誰もディララの絵の技術を模倣できないからだ。


「もしかして王子は、姉さんの絵を真似たものを描きたいんじゃ……」


 指を鳴らしてナムークが声を上げるが、フィクレトが首を横に振る。


「ララの絵はもっとも贋作が作りづらいって言われているんだ。ララは色彩感覚が独特だし、絵の構成も個性的だから、真似をしようと思って真似できるものではないよ。それは弟子になったからって簡単に習得できるものでもない」


 フィクレトはディララの絵を褒めているのだが、素直に聞くことができなかった。


(物は言い様というか、超絶摩訶不思議な抽象画をそれっぽく良い感じに評価しているようにしか聞こえないこともないのよね)


 天才となんとかは紙一重と言うが、その薄皮一枚の差でディララは天才画家と呼ばれている。


「シェイマ妃の肖像画をララが描いたことがゼーラ妃の気に障ったのかもしれないけど、それこそこちらは断りようがないことだしね。組合長によると、王宮内では王妃ふたりが競い合っているらしく、ゼーラ妃はララに肖像画を依頼するとシェイマ妃の真似をしたってことになるから嫌でできないんだろうって言ってたよ」


 王妃ふたりの王宮内での覇権争いに巻き込まれるのはまっぴらごめんだという顔でフィクレトがぼやく。


「とりあえず、なんとか頑張ってこの依頼は断るってことで良いかな」


 フィクレトがディララに確認する。


「断れるの?」

「わからないけど」


 うーん、と首をひねりながらフィクレトが答えたときだった。


「明日、ひとまず顔見せのためにうちに王子様が訪ねてくるって書いてあるけど」


 ディララの手紙を隣で読んでいたナムークが指摘する。


「は?」


 珍しくフィクレトが素っ頓狂な声を上げながら、慌てて手紙を覗き込む。


「王子と会ってみて気に入ったら弟子にしてほしいって書いてある」

「気に入ったら!? 弟子にしなかったら、ララが殿下を()()()()()()()()ってことになるわけか!?」

「そういうことになるよな」


 頭を抱えるフィクレトと顔をしかめるナムークに挟まれたディララは、国王からの手紙を破り捨てたい気分だった。


「どこの世界に自国の王子が()()()()()()なんて不満を言える国民がいるんだ!? 王太子殿下や第一王妃様ならともかく、平民の我々にはそんなことは口が裂けても言えるわけないよ!」


 国王からの手紙は、あくまでも『依頼』という体裁をとった『命令』であると読んだフィクレトが騒ぐ。

 ディララは黙ってため息をつくしかなかった。


「つまり、第二王子様から断ってこない限り、姉さんに拒否権はないってことだよ」

「なんで弟子の方に選択権があるんだよ!? おかしいだろ!?」


 どうやらフィクレトは最初からこの話を断るつもりだったらしい。

 ただ、ディララに黙って断ると、後で彼女がなにかの機会に第二王子が弟子入りを希望していたという話を耳にして、自分はなにも聞いていないなどと答えてしまうとフィクレトの信頼に関わることのため、一応は報せておこうと思っただけのようだ。


「だったら、バルラス殿下から断っていただくのが一番波風が立たなくて良いんじゃないかしら」


 手紙を睨んだまま、ディララが告げる。


「この手紙を読む限り、バルラス殿下自身がわたしの弟子になりたいって言い出したのかどうかがわからないわ。そもそも、殿下が絵の勉強をされているってこともわたしは知らなかったわ」


 王族の趣味嗜好は国民に大々的に喧伝されるものではないが、特にディララは他人への興味が薄いため国王の家族構成くらいしか知らない。

 前に第一王妃の肖像画を描いた際は、シェイマ妃の下絵を描く間に多少の会話をしたが、王妃は自分についての話しかしなかった。第二王子であるバルラスはシェイマ妃の子供ではないため、彼女の話題に出てこなかったことは不思議でもなんでもないが、それでもバルラスが絵を描くことを趣味としていることが王宮内でよく知られていることであれば、一言くらい話が出ても良いはずだ。


「僕も初めて聞いたけど、組合長によれば定期的に画材を王宮に収めているから、王族の中に絵を描くことを趣味としている人がいることは間違いないそうだ。それが多分バルラス殿下ってことなんだろうけど……王子の方からララの弟子にはならないって言った場合、それはそれで僕としては面白くないな」

「面白くないって?」


 きょとんとした表情を浮かべて、ディララがフィクレトを見上げる。


「それはつまり、バルラス殿下はララが師事するに値しない画家だって判断したってことだろう?」


 フィクレトとしては、第二王子が弟子入りを断ってきた場合、天才画家ディララ・シファーアを否定したということに他ならないと考えているようだ。


「となると、ひとまず王子様を弟子として受け入れて、姉さんの画家としての才能があまりにも凄すぎることを王子様に見せつけて、相手の自信を喪失させるってこと? 王子様が、とてもじゃないけれど自分はディララ・シファーアの弟子にふさわしくないって自覚させて、王子様が自ら身を引くように仕向けるってこと?」

「それは悪くない計画だけど、そうなるとどうしても一度は王子様をララの弟子として受け入れなきゃいけなくなるよ」


 ナムークの計画は妥当なものではあるが、ただその場合はひとまず第二王子を弟子として迎える必要がある。さらに、王子がどのていどの画力の持ち主なのか、加えて自分の技量を自身が過大評価していないかによって、王子が自ら身を退くかどうかが変わってくるのだ。

 王子が自分は天才画家の弟子にふさわしい画家の卵を自認しているのであれば、彼の方から弟子入りを断ることはないからだ。


「それはそれで、厄介だよな」


 ナムークは腕組みをして唸る。


「…………とりあえず、明日王子様がいらっしゃるようだから、家中の大掃除でもしましょうか」


 あれこれ考えるのが面倒になったディララが提案する。

 こうして、シファーア家は半日かけて屋敷の隅々までできる限りの掃除をする羽目になった。

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