第2話 唯一好きな人
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オペラグラスを覗いて、鍛錬する騎士ロジェを眺めてニヤニヤしているクロエ。隣でクロエを見ていた執事ゲルトが悲しそうに泣いている。
「どうして伯爵令嬢のクロエ様がこそこそと鍛錬の覗きなんてしているんですか。お父様の権限で堂々とご覧になればいいものを」
確かにクロエの父である伯爵の権力は偉大で、騎士団の団長とは旧知の仲だ。しかしクロエは首を横に振った。
「ロジェは権力が嫌いなんだから、そんなの使ったら嫌われちゃうじゃない!」
クロエは再びオペラグラスを覗き、彼をうっとりと見つめる。今まで出会った人間にはどうもピンと来なかったが、ロジェに対してだけは何か違った。
思えば、言い寄ってフられた時は自尊心がズタズタになった。他の男が同じ態度を取ればクロエは即刻ぶちのめしていただろう。しかしクロエは本当に悲しかった。悲しいだけで、何か仕返そうとは思わなかった。
心臓は張り裂けそうなくらい辛くて、腹いせにリリアーナを陥れようとまでした。彼女を傷付けようとしたことに後悔はなかったが、その為にロジェを使おうとして、彼に嫌われた時に、自分の過ちに気付いた。一時の感情で多くの人を巻き込んでしまった。
当時クロエとリリアーナが学院に在籍していた時、ユーグ王子は三年生、クロエは二年生、リリアーナは一年生。それから三年の月日が経って三人とも卒業した。色々あったが、一応諸問題を解決し、リリアーナとは出会ったら挨拶出来る程度の関係で別れられたのが救いだ。
リリアーナは未来の妃なので、すでに王宮に移り住んでいる。問題のロジェは城の騎士団に所属を変え、今は王子の婚約者の護衛騎士として仕えていた。彼とはそれ以降まともに取り合って貰えていない。クロエの過去の行為を考えれば当然のことだ。だからクロエはこうして地道に城に通い、こっそりと会いに来るのだ。
「誰かに取り持って貰ったらどうですか?」
ゲルトはそう言うが、クロエは首を横に振った。
「そうじゃないのよ。私は、私の力であの人に好きになって貰いたいの」
「正直お嬢に言い寄られて断る男だなんて、本当は男として不能なんじゃないのか?」
「ちょっと下品なこと言わないでよ!?・・・・・・って、あれ?ヘクター!?」
突然ゲルトらしからぬ発言になったと思って振り向けば、全然別人ではないか。
ヘクターは国王の年の離れた弟で、三十五歳、公爵、独身だ。髭がダンディだとかで一定の層には人気者だが、クロエはこの男がとても苦手だった。
いつも上から目線で話しかけてくる上に、何故か小さい頃から妹に接するように絡んでくるし、イジメてくる。そんな彼には公爵としての威厳も何もない。
(思えば、ヘクターだけはリリアーナに簡単に惚れたりしなかったわね)
どうしてかしら?と首を捻っていると、ヘクターはクロエのオペラグラスを見てニヤニヤした。
「なんだよお嬢、こんなところでコソコソして」
「実は───」
「言わなくていい、興味無い」
「何よ聞きなさいよ!今絶賛ロジェの鍛錬を覗いていたところよ!」
「堂々とストーカーみたいなこと言うな」
クロエは頬を膨らませた。
「だって、何度も交際を断られたんだから、次は慎重にいかないと」
「マジメかよ。いや何度も断られてるのは問題発言だが。つーかロジェが女々しいの嫌いだからって髪まで切っちゃってさ」
するりと髪に触れてくるヘクターの手をクロエは払いのけた。
「気安く触らないで下さる?」
するとヘクターは軽く目を見張って、余計に嬉しそうな顔をした。
「お嬢こういうの、前まではスルーしてくれたのに、今では俺を虫けらを見る目で見てきやがる」
睨みを鋭くしたクロエに変わって、ゲルトが間に入った。
「ヘクター様、あまりクロエ様をからかわないで下さい」
「なんだよゲルト、嫉妬か?器の小さな男は嫌われるぞ」
「ヘクター、あなた本当に帰りなさい。今すぐ私の前から消えないとその口二度と利けないようにするわよ」
「おや言い過ぎたかな。お嬢の前でゲルトの悪口はご法度だったな。酒の席の戯言だと思って聞き逃してくれ」
そう言ってクロエの手の甲にキスを落として、どこかに消え去った。クロエはため息をついた。
「やけに絡んでくると思ったら、やっぱりお酒飲んでたのね。まだ太陽は真上じゃないの、あのダメ人間。・・・・・・ゲルト」
「はい」
ゲルトはサッとクロエにハンカチを取り出して渡した。クロエはゴシゴシと念入りに手の甲を拭く。本当は水で流したいくらいだ。
「さあ気を取り直して、ロジェの観察に戻るわ、よ・・・・・・」
振り返ると仏頂面のロジェが無言の圧力をかけながら立っていた。これならオペラグラスも必要ないわね!ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・あら!ロジェ、こんな所で会うなんて偶然ね!」
「さっきからここに居ましたよね。ヘクター様も一緒に」
ギクーッという効果音がうるさい。取り繕ったのは無意味だったようだ。流石一流の騎士、視線は敏感に感じ取っているらしい。
(ええい、こうなったら開き直るしかない!)
右手を差し出してガバッと頭を下げた。
「ロジェ、私と結婚してくだ───」
「お断りします」
「最後まで聞きなさいよ!」
誤魔化すのにもプロポーズにも失敗した。ロジェは首を横に振る。
「何度言われても無理です。俺にはリリアーナ様以外を愛することはありません」
あまりにハッキリ過ぎる言葉に、横に居たゲルトが思わずたじろいだ。
(リリアーナ以外愛さない、か)
確かロジェは一度、リリアーナに想いを告げているはずだ。しかし結局彼女の心はユーグ王子にあった。それでも彼のリリアーナへの忠誠は揺らがず、今もなお、心変わりは無い。
けれどこんな所でめげるクロエではない。正直結婚を断られるのは日常茶飯事なのだ。まともに取り合ってもらえないなら、自分から押しかけるしかない。
「あら〜強情ね。そのリリアーナを助けたのはこの私だというのに?」
「それはリリアーナ様ではなく、ユーグ王子を助けたんですよね」
「そこ重要なの?」
「重要です」
「あらそう。でもまあ、今日は本当に求婚するつもりで来た訳じゃないから、素直に諦めて帰るわ」
クロエはワンピースの裾をつまんで「ごきげんよう」と、余裕の笑顔でニッコリ笑って踵を返した。