322.月見
それから数日が経ち、九月二十五日を迎えた。
今日は旧暦で言えば八月十五日。
いわゆる十五夜だ。
旧時代、キョクトウの前身に当たる国では、昔から『中秋の名月』として月を眺める習わしがあったという。
その風習は今も生きていて、街のあちこちで月見の宴が開かれているらしい。
俺たちも東雲家の屋敷の大きな庭に席を設け、ルーナやナギサたちが賑やかに準備を進めていた。
焚き火の赤い光と笑い声が入り混じり、そこかしこに湯気の立つ料理や団子が並んでいる。
香ばしい匂いが風に乗り、耳に届く笑い声には温かさを伴っていた。
賑やかで、楽しげな空気だ。
――だが、俺とシオンはそこから少し離れた場所へと足を運んでいた。
自然と繋がれた手は、ほどよい温もりを伝えてくる。
互いに言葉は少なかったが、沈黙が気まずいわけではない。
むしろ、その静けさ自体が特別な時間を彩っているように思えた。
夜空には雲一つなく、澄んだ満月が煌々と暗闇を照らしていた。
見上げれば、白銀の光が世界をやわらかく包み込んでいる。
街の灯よりも遥かに強く放たれている光が、心の奥を静かに鎮めていくような気がした。
「……綺麗だね」
シオンが、月を仰いだままぽつりと漏らす。
「そうだな」
短く返すと、彼女はふふっと笑って俺の手を握り直した。
そのまま俺たちは草地に腰を下ろした。
夜風が頬を撫で、火照った体温を静かに奪っていく。
虫の音が一斉に鳴き始めた。
けれどここは、不思議なくらいに静かだった。
まるで二人きりの世界に取り残されたみたいに。
「こうしてのんびりと空を見上げるの、久しぶりかも」
「俺もだ。忙しさにかまけて、景色を楽しむことなんてなかったからな。……だけど」
「……?」
「シオンが隣に居てくれるだけで……、この景色も特別以上のものになってる」
自分でも気恥ずかしくなるような言葉だった。
けれど嘘じゃない。
シオンは少し驚いたように目を瞬かせ、それから照れ隠しのように顔を伏せた。
「そういうこと言うの、ずるい」
「……悪い。つい本音が」
「もぅ……。でも、すごく嬉しい!」
彼女はそう言って、俺の肩に頭を預けてきた。
さらりとした銀髪が頬をかすめ、月光を反射して淡く輝く。
胸の奥がじんわり熱を帯びていく。
拒む理由なんてあるはずがなかった。
むしろ、この瞬間を永遠に留めておきたいとすら思った。
「……たまには、こうして独り占めしてもいいでしょ?」
小さく囁くシオンの声は、夜風よりも温かかった。
しばらくのあいだ、虫の声と夜風の音だけが耳に届いていた。
その沈黙を破るように、シオンが再び声を落とす。
「……少しは近づけてる、かな」
「近づく?」
思わず問い返すと、シオンは月を見上げたまま、言葉を続けた。
「小さいころに約束したでしょ? 『オルンを一人にしない』って。『オルンの隣に立てるくらい強くなる』って。……あの頃に比べたら、今の私は、物理的な距離も……心の距離も、近づけてると思う」
俺は黙って耳を傾ける。
彼女は少し間を置いてから、表情を曇らせた。
「でもね……本当の意味では、まだ肩を並べられてない気がするんだ。オルンは私たち以上に、たくさんのものを視て、識って……もっと先の未来を鮮明に見据えてる。私は、オルンに言われずとも、それを共有できるようにならなきゃって思ってる」
そこまで言ったシオンは一度口を閉ざし、視線を落とした。
月明かりに照らされた横顔には迷いと、それを押しのけようとする決意の色が混じっている。
やがて彼女は俺の肩に預けていた頭をゆっくりと上げ、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「――貴方の背中をただ追いかけるんじゃなくて……隣で同じ景色を見たいから」
「シオン……」
「オルンって、気づくと一人でどんどん先に行っちゃうでしょ? だから私は、これからも必死に追いかけて、隣を歩き続けたいの」
そこまで言ったシオンは、握っていた俺の手にさらに力を込める。
真剣な眼差しが夜の静けさを突き抜けるように俺を射抜き、その想いの強さを雄弁に物語っていた。
「――もう絶対に、この手は離さない」
その声音は、月明かりの下でも真剣さが伝わってくるほどに揺るぎなかった。
「……俺に、置いていかれないために?」
「ううん。違うよ」
彼女はかぶりを振り、真っ直ぐに俺を見た。
「オルンを独りにさせないように、ずっと隣で歩いていたいの」
胸の奥が熱くなる。
そんなふうに言ってもらえることが、ただ嬉しかった。
「……ありがとう、シオン」
「え?」
「俺は前に進まなきゃって思うあまり、一人で突っ走っている自覚はある。でも……決して独りじゃないんだって、改めて分かったよ」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら、俺は彼女を見つめる。
「もし俺が間違った道に進もうとしても、シオンが手を引っ張って、連れ戻してくれるんだろ? 幽世の時みたいに、俺が足を止めようとしたら……立ち上がらせてくれるんだろ?」
そう言うと、彼女は目を丸くしたあと、頬をほんのり赤く染めて、けれど真っ直ぐに頷いた。
「うん。絶対に。……何度でも、ね」
その瞬間、言葉はいらなかった。
月光に照らされる横顔があまりにも愛おしくて、気づけば顔を近づけていた。
シオンもそっと目を閉じる。
――唇が触れ合う。
ひんやりとした夜風の中で、彼女の温もりだけが鮮烈に伝わってくる。
短い、けれど確かな口づけ。
「……俺が間違えそうになったら、ちゃんと引っ張ってくれよ」
「うん。私の力を全部使ってでも」
そんな冗談めいたやり取りさえ、今はかけがえのない約束のように思えた。
そして俺は、その温もりを胸に刻み込み、これからも隣を歩き続けたいと強く願った。
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