305.失われた足跡
「――ティターニアって、誰ですか?」
ルーナが首をかしげながら問いかけてくる。
それは、思いもよらぬ問いだった。
胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚が走り、思考に空白が生まれる。
俺がティターニアと言葉を交わしたのは一度だけ。
昨年、エディントン伯爵から迷宮調査を依頼されて向かったレグリフ領でだ。
その時も突発的な接触に過ぎない。
だから、俺の知るティターニアの気質や性質は、ルーナから聞いた話を基にした推察がほとんどだ。
彼女がティターニアについて語るときは、いつも嬉しそうに笑っていた。
――そんな彼女が、今は目を伏せ、悲しげな表情をしている。
「どうして……。私は知らないはずなのに……、その名前を聞いて、……どうしてこんなにも、胸が苦しくなるのでしょうか……」
ルーナが胸を押さえるようにして、今にも泣きだしそうな声を漏らす。
『ピクシー、これは、どういうことだ……?』
【精霊支配】を再現して、いつもルーナの傍に在る妖精に問いかける。
『……オルンは、……知ってると思ってた。……女王様の足跡が失われていることに』
ピクシーの小さな声には、わずかに震えがありながらも、静かに俺を責める色が滲んでいた。
「……足跡が、失われている……?」
思わず言葉を返した俺に、ピクシーが搾り出すように続けた。
『……カヴァデールは、……この世界の時間を巻き戻すために、……自身の異能である【等価交換】を行使した』
「それは、知っている」
時間の巻き戻りとは、俺がツトライルで《シクラメン教団》に敗北した際に、じいちゃん――カヴァデール・エヴァンスが自身の存在を引き換えに起こしたあの一件のことだ。
『……カヴァデールは、……自身の存在と、十年分の足跡を、……代価として差し出した。……だから、……みんな、彼のことを……〝十年前に死んだ人〟だと認識している』
そこまでは分かっている。
じいちゃんは、天才魔導具師の名を欲しいままにしていた。
だけど、そんなじいちゃんを快く思わない人たちも居て、じいちゃんは迫害を受けて孤立してしまった。
そんな環境に耐え切れず自死を選んだ――と表向きはされている。
しかし、実際は死んでおらず、じいちゃんはツトライルへとやってきて、細々と雑貨屋を営みながら俺を見守ってくれていた。
時間が巻き戻る前は、じいちゃんが本当は生きていることを知っていた人が少ないながらも存在した。
だけど、時間が巻き戻った後は、元々じいちゃんの生存を知っていた人たちも、十年前に自死したと認識していて、それが時間を巻き戻した代価だったのだと、俺は思っていた。
『……でも、……それだけじゃ足りなかった。……だから……女王様も……ずっとずっと前からの足跡を、……自分を構成する魔力ごと、差し出した……』
そういう、ことか。
じいちゃんは自分の存在だけでなく、過去の足跡も代価として支払った。
ティターニアも代価を支払っているのであれば、その代価は同じものであるはずだ。
『……ルーナがまだ小さい頃に出会った事実も、……それから交わした言葉も、……ぜんぶ……女王様は、代価として支払った……』
ルーナが、はっと顔を上げる。
「……私は……ティターニアと……会っていたんですか……?」
『……うん。……だから、ルーナは……今こうして、理由も分からないまま……悲しい気持ちになっている……』
「……っ」
ルーナが胸を押さえて俯いた。
そんな彼女にかける言葉を探していると、ルーナが顔をこちらに向けてくる。
悲しげな瞳に、けれどどこか決意のような光が宿っていた。
「……オルンさん。もしよろしければ……教えてくれませんか? …………ティターニアとは、どんな方だったのですか……?」
その問いに、一瞬だけ息を飲む。
彼女の声はまだ震えていたが、それでも前を向こうとしていた。
「……わかった」
俺が答えなければならない。──そう思った。
「……俺の知っているティターニアは、ほとんどがルーナから聞いたものなんだけど、俺も、一度だけ彼女と会ったことがあるんだ。覚えてるか? エディントン伯爵の依頼で俺とルーナと弟子たちでレグリフ領に行った時なんだけど――」
ルーナは頷きや相槌を打ちながらも、俺の話を最後まで口を挟まずに静かに聞いていた。
俺の言葉を、ひとつ残らず受け止めようとしてくれていたことが伝わってくる。
ひと通り話し終えたところで、ルーナが口を開いた。
「……ありがとう、ございます」
ぽつりと、そんな声が落ちた。
言葉とは裏腹に、彼女の表情にはまだ戸惑いの色が浮かんでいる。
無理もない。
俺が話したことは、過去にルーナから聞いた内容ではあるが、今の彼女にとっては、〝実感の伴わない思い出〟でしかない。
失われたものの輪郭を、言葉だけで取り戻せるはずもなかった。
それでも――彼女は、自分の中に残された何かを手繰ろうとしていた。
「……やはり、どこか変ですね。聞けば聞くほど、なぜだか、心がざわつくんです。全然実感が湧かないというのに……」
ルーナがそう呟きながら、胸元にそっと手を添える。
目を伏せ、何かを確かめるように。
「でも……話を聞けて、良かったです。今の私にとって、幼い頃の記憶は辛いものばかりでした。ですが、本当はティターニアと過ごした幸せな時間もあったということですよね。それが分かっただけでも、充分です……」
そう言って微笑んだ彼女に、俺はうまく返せなかった。
この笑顔の裏にある喪失と痛みを思うと、どんな言葉も薄っぺらく感じた。
──本当は、この未来が始まる前に守るべきだった。
そう思わなかったと言えば嘘になる。
でも、それを言葉にすれば、ただの言い訳になる気がした。
「……ルーナ」
俺は少しだけ視線を外し、空を仰いだ。
記憶を取り戻した今でも、あのときの無力さは消えていない。
ただ、あのときと違うのは――。
「……ルーナが今抱えている感情は偽物じゃないはずだ。悲しいとか、寂しいとか……その気持ちがあるなら、きっと、全部を喪ったわけじゃない。ルーナの中にまだ残っているものがあるはずだ。……俺も、昔は記憶を失っててさ。自分じゃ気づいてなかったけど……今思うと、ちゃんと残っていたものはあった気がするから」
俺の言葉に、ルーナが目を見開く。
「……無理に思い出す必要はないさ。少しずつでも、自分の歩幅で、思い出のかたちを見つけていけばいいと思う」
ルーナは、小さく息を吸い込み、そっと頷いた。
その横顔には、確かに迷いが残っていたけれど、それ以上に、〝向き合おう〟とする意志が滲んでいた。
たとえ記憶がなくても、想いはどこかに残っている。
そしてそれは、きっと……誰かと分かち合うことで、また芽を出すはずだ。
だからこそ、俺は彼女と一緒に、それを探していきたいと思った。
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