301.帰る場所
◇
天霊神社の境内は、厳かな空気に包まれていた。
整然と敷き詰められた石畳の先、灯籠の火が風に揺れ、拝殿が静かに佇んでいる。
人々のざわめきはあっても、どこか声をひそめるような響きだった。
本殿の脇に設置されている櫓の前にはすでに多くの人が集まっていた。
俺たちもその輪の外に立ち、りんご飴を手に、始まりの時を待つ。
「……すごいですね。こんなに人が集まってるなんて」
ルーナがそっと呟く。
彼女の声に、オリヴァーもまた、目を細めて応えた。
「それだけ、この国の人たちにとって、大切な催しってことだな」
その時だった。
人混みの向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おーい、オルン達!」
振り返ると、手を挙げながらこちらへ向かってくるハルトさんの姿があった。
その後ろにはカティーナさんとヒューイさんも続いている。
三人とも動きやすい軽装のままだが、表情は晴れやかだった。
「三人ともここに居たんだ。てっきり関係者として向こうにいると思ってた」
「今の俺たちは微妙な立場だからな。ま、今日はここから静かに眺めるとしますよ」
「そうか。あ、そうだ。りんご飴食べる? カティーナさんとヒューイさんも」
「お、さんきゅ。懐かしいな~」
りんご飴を受け取ったハルトさんの表情が緩む。
「フウカにおすすめされて買ってみた。美味しいな、これ」
「これはあいつの好物だったからな。俺も昔何度か買いに行かされたな」
そう言うハルトさんの表情はすごく優しいものだった。
気づけば、周囲の人々も皆、櫓へと意識を集中し始めていた。
篝火が一斉に焚かれ、櫓に淡い光が差す。
神楽鈴の音が響き、ゆっくりと人の波が静まり返っていく。
櫓の奥から巫女服を身に着けた二人の少女が現れる。
一人はこの国の現在の姫――ナギサ・アサギリ。
もう一人は狐面をした――フウカ・シノノメ。
それを見た人たちが少しざわめく。
彼らの声を聞いていると、どうやらいつもはナギサ一人が立っている場所に、知らない誰かが一緒にいるため戸惑っているようだ。
ナギサが更に一歩、前に出る。
背筋を伸ばし、はっきりとした声で口を開いた。
「皆さん――本日は、お集まりいただきありがとうございます。今から、この国を清め、再び歩き出すための舞を捧げます」
その声に、ざわめきは徐々に静まっていった。
「ですが、舞を奉納する前に、少し話をさせてください。今年の霊舞祭には、例年と違うことがありました。それは、祭りの初日、このハネミヤの街に怪物が現れたということです」
ナギサの言葉に、境内の空気がぴんと張り詰める。
あの悪夢のような出来事を、誰もが思い出していた。
「街を襲った幻魔、そして神話に語られる大蛇――ヤタノヘビ。それらは封じきれなかった瘴気から生まれたものです。そして……その理由もまた、私たちの過去にあります」
ナギサは一瞬だけ目を伏せ、そしてもう一度、顔を上げた。
「数年前、この国は大きな転換を迎えました。私の父が、当時の主家――シノノメ家の圧政に抗い、謀反を起こしたのです」
人々の表情が固くなる。誰もが知っている、あるいはそう知らされてきた歴史だ。
「その戦いの末、シノノメ家は討たれ、父も命を落としました。私は、父の意志を継ぐ形で姫としてこの国を背負ってきました」
ナギサの声には震えがなかった。ただ静かに、事実として語られていく。
「……けれど、私が姫になってから行ってきた霊舞祭の儀式は不完全なものでした。私は姫ではありません。あくまで舞を奉納する巫女に過ぎないのです」
そこまで聞いて、人々の視線が再び、隣に立つ狐面の少女に向けられた。
そしてナギサは、まっすぐに言った。
「そして、この者こそ、本来の姫――フウカ・シノノメです」
一瞬の沈黙ののち、ざわりと空気が揺れた。
『シノノメだって!?』
『姫……?』
『本物なのか?』
動揺と困惑、戸惑いが境内を駆け巡る。
ナギサとフウカは一歩も引かず、全ての視線を受け止めた。
「彼女は、あの謀反によりこの国から追われた身でありながら、再び現れ、怪物と戦い――この街を、国を、救ってくれました。私は、今もはっきりと覚えています。誰もが恐怖に震える中、彼女は一歩も退かず、桜のような刀を振るい、ヤタノヘビを打ち倒すところを! 皆さんもあの日見たはずです!」
俺はその場面を思い出していた。
誰よりも前に立ち、誰よりも真剣に、この国を守ろうとした少女の背を。
「……皆さんがシノノメの人間をどう思おうと、その気持ちを否定するつもりはありません。ですが、今ここに立つ彼女は、私が見た限り、誰よりもこの国のために戦ってくれた人です!」
ナギサの声が、強く、はっきりと響く。
「過去に、シノノメ家がしてきたことは――」
ナギサは一瞬、言葉を切って、観衆の視線をまっすぐに受け止めた。
「……それが正しかったのか、間違っていたのか、私には分かりません」
嘘を語っている。
そのことに気づいている者は、きっとほとんどいない。
けれど、ナギサのその声は、どこまでも真剣だった。
「けれど――フウカ姉さまは違う!」
彼女の声が少しだけ大きくなる。胸にある想いが、そのまま言葉に乗った。
「姉さまは、誰の敵でもなく、この国のために……刀を振るってくれました」
ナギサの視線が、そっと隣の狐面へと向けられる。
「それは、変えようのない事実です」
観衆の誰かが、小さく息を呑む音が聞こえた。
夜風が、篝火の火を揺らす。
静寂の中で、ナギサの声が再び響く。
「どうか皆さん、どうか……彼女を受け入れてください」
その言葉には、迷いがなかった。
決意に満ちた声が、夜空に吸い込まれていく。
――ナギサは、真実を語っていない。
東雲家による圧政など、そもそも無かった。
謀反は、歪められた情報と【認識改変】によって正当化されたものだ。
彼女の父は、きっと真実を知らぬまま刀を取った。
けれどナギサは、それを覆そうとはしなかった。
嘘の上に立ったまま、真実よりも〝今〟を選んだ。
それが、混乱を生まずにフウカを受け入れてもらう最善の道だと、彼女は信じている。
『で、でも、シノノメ家は過去に……』
『また圧政が敷かれるんじゃ……』
ざわつきが再び広がる。
人々の間に、不安と疑念が波紋のように揺れ始める。
その時だった。
櫓の上で、白い狐面をそっと外した少女が、一歩前へと進んだ。
――フウカ・シノノメ。
彼女の黒の瞳が、灯籠の明かりに照らされ、舞台の上から群衆を見渡していた。
表情は静かで、けれど強さを秘めていた。
「……私は、姫の座に戻るつもりはない」
その声は、決して大きくはなかった。
けれど、不思議とよく通り、ざわめきは次第に収まっていく。
「皆は、正義を掲げて戦って、シノノメ家を打ち倒し、今の国を築いた。その行動には意味があったと、私は思う」
フウカは一度、わずかに俯く。
けれど、すぐに視線を上げ、真っすぐに続けた。
「……そんな今の国に私が戻れば、混乱が生まれ、分断が起きることはわかってる。だから私は、そこに割って入るつもりはない」
その言葉には、明確な覚悟があった。
「私が願うのは、たった一つ。この国が、安寧で在り続けてくれること」
人々の表情が、少しずつ変わっていく。
「そして、叶うなら――」
フウカの瞳が、一段と静かに、強く輝いた。
「――ここを、私の帰る場所として、皆に認めてもらえたら、嬉しい」
言葉を終えたあと、風が静かに吹いた。
夜空に舞う桜の花びらのように、彼女の髪がさらりと揺れた。
誰もが、その姿を見つめていた。
嘘ではない。飾りもない。
ただ、まっすぐに〝想い〟だけを語った少女の姿を。
その場にいた誰もが、すぐには声を発せなかった。
そんな沈黙を破ったのは、一人の老人だった。
「……あの時、ワシは戦に加わった。仲間も、家も、たくさん失った。だから今でも、あの夜を許せてはいない。だが……」
彼は、ゆっくりとフウカを見上げた。
「それでも、今の貴女を責めるつもりはない。あの怪物から、孫を守ってくれたのは、貴女だったから」
その言葉が発端になったように、ぽつり、ぽつりと声が続いた。
声が重なり、少しずつ、観衆の雰囲気が変わっていく。
拒絶の気配は、次第にほどけていった。
子どもが親の手を引いてフウカの方を指差し、小さく手を振る。
やがて、どこからともなく――拍手が起きた。
一人、また一人。
ためらいがちだった手のひらが、確かに音を奏で始める。
その音は次第に力を帯び、境内全体へと広がっていく。
それは、歓迎でも、賞賛でもなく、ただ『共に在ることを認める』という、静かな拍手だった。
櫓の上で、フウカは動かなかった。
けれど、その瞳がわずかに揺れる。
彼女の唇が、そっとかすかに、笑みにほころんだ。
俺の隣で鼻をすする音が聞こえたが、聞こえないふりをした。
そして、ナギサが再び前へと出る。
「これより――舞を奉納します」
ナギサがそう告げると、境内に静寂が戻った。
焚かれた篝火が櫓を照らし、神聖な空気が満ちていく。
「実は……謀反が起こった、あの日、自分の舞に、自信がなかった私は……」
フウカの方へ、ほんのわずかに視線を向ける。
言葉を選ぶように、丁寧に口を動かした。
「フウカ姉さまと一緒に舞を奉納すると、そう約束していたのです」
静かな告白だった。
観衆の誰もが息を呑んで聞き入っていた。
「けれど、その約束は果たされることなく、私は一人、残されました」
ナギサはそっと胸元に手を当てた。
そこには、まだ少女だった彼女が抱え続けてきた後悔が宿っている。
「それが、ずっと……私の心残りの一つでした」
目を閉じて、そして再び、観衆へと向き直る。
「だからこれは、私の――ただの我儘です」
その言葉に、フウカが少し目を伏せる。
ナギサは、はっきりとした声で言い切った。
「どうか、今日だけは……フウカ姉さまと二人で舞を奉納することを、どうか許してください」
夜風が、ふっと二人の間を撫でるように通り過ぎた。
あの日に結べなかった約束が、今ようやく結び直されようとしている。
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