295.底
「――お前は、誰だ?」
俺の言葉に反応した〝それ〟は、ゆっくりと口を開いた。
「我が誰か、だと?」
ベリアの右目を覆っていた眼帯が、役目を終えたかのように、スルリと頬を伝って落ちていく。
遮るものが無くなった彼の右目にあったのは、――底なしの闇。
おとぎ話の時代に右目を喪ったベリアが、悪魔と戦うために精霊の瞳を埋め込んでいたことは幽世で《おとぎ話の勇者》から聞かされていたが、それは精霊の瞳だと思えないほど涅く濁っていた。
「我は、世界を蝕む人間を滅ぼさんとする者だ」
その声は、空気ごと歪ませながら、地を這うように響く。
言葉に含まれる意味も、感情も、あまりに異質だ。
俺は、足元から突き上げてくるような感覚に目を見開く。
間違いない。
目の前にいるのは――。
「――邪神、オベロン……!」
俺の呟きに、オベロンは無感情な視線を向けてくる。
「なるほど。〝人間の可能性を体現する力〟を受け継いだアウグストの末裔か。今は相手するべきではないな。フィリー、退くぞ」
「わかりました」
いつの間にか鎖による拘束から逃れていたフィリーが立ち上がった。
「逃がすかよ!」
オベロンが転移魔法を発動する前に、この辺り一帯を転移阻害の結界で覆う。
「…………面倒なことを」
オベロンが静かに呟いた瞬間、地面に影のような魔力がにじみ出した。
「失せろ」
瞬間、涅い魔力が槍のような形に変じ、四方八方から俺を貫こうと襲いかかる。
「――【終之型】」
再び魔剣と氣を掛け合わせ、新たに創り出した魔剣で迫りくる槍を斬り払う。
そのまま縮地でオベロンに迫り、魔剣を振るう。
オベロンが後退しようとするも、反応が鈍い。
完全に俺の間合いから逃れる前に魔剣が届いた。
「くっ!」
ベリアの異能である【永劫不変】は効果が失われているのか、魔剣がオベロンの身体を斬り裂く。
オベロンが血を流している自身の胸元へと視線を落とす。
魔剣がオベロンに触れたことで、今のあいつがどういう状況なのかが少し識れた。
【永劫不変】は今も行使されている。
しかし、それは内側――オベロンの意思を構築するための大量の邪神の魔力を抑えるために使われている。
つまりは外部からの攻撃に対しては、他の人と同じ状態ということだ。
だが、時間を掛ければそれだけ邪神の魔力がベリアの身体に馴染んでいくはず。
それに【終之型】を長い時間維持していれば、俺の身体が持たない。
とっとと決着を付ける!
「……今の状態では、接近戦は無理か」
オベロンが右手を掲げると、空間そのものが軋むような音を立て、涅い魔力が無数の矢のように降り注ぐ。
その一つ一つが、地形そのものを抉るほどの威力があった。
(鳥居から離れなければ!)
境内を出て、木々を縫うようにして迫りくる矢を躱す。
空から降り注ぐ矢の雨を凌ぎつつ、俺は反撃の機会を探っていた。
魔力の矢が地面に突き刺さるたび、爆ぜる衝撃で木々が軋み、次々と幹が裂け倒れていく。
遮蔽物だったはずの木々がなぎ倒されるたび、視界が徐々に開けていった。
そのとき、オベロンの周囲に魔力が集まり始める。
(大技が来る……!)
大技直後に生じる隙を狙い、意識を研ぎ澄ませていると、
「――もういいわ」
オベロンの首筋に鋭い軌跡が走った。
「――っ!?」
オベロンの首が宙を舞う。
予想外すぎる光景に動揺しながらも、それを仕掛けた張本人――フィリー・カーペンターの方へと視線を向ける。
彼女は涼しい顔で、宙を舞う首に向かって、魔術を放った。
「――【超爆発】」
飛んでいた頭部に巨大な爆発が直撃する。
空間が歪み、爆風が全てを呑み込んだ。
辺りが静けさを取り戻したとき、ベリアの身体は跡形もなく消し飛んでいた。
ただ、そこに一つだけ、何かが残っている。
地に転がる――涅く濁った精霊の瞳が。
フィリーが静かにそれを拾い上げる。
「……まさか、この程度だなんて。所詮はオベロン様の残滓をかき集めた贋物というわけね。はぁ……。わたくしのこれまでの労力を返してほしいものだわ」
彼女の声音には、失望の色が帯びていた。
そんな彼女を見て、俺は怒りと、どうしようもない悲しみが湧いてくる。
【終之型】を解除して、全身を焼くような激痛に耐えながら、絞るように口を開く。
「……フィリー、お前は、どこまで堕ちるつもりだ」
だが、フィリーは顔色一つ変えない。
つまみあげた涅く濁った精霊の瞳を眺めながら、彼女は言った。
「堕ちる? その認識は間違っているわよ。わたくしは最初から底辺に居るのだから、これ以上堕ちようが無いわ」
まるで当たり前のことを言うような声だった。
もう俺には彼女のことが解らない。
「本当は神降ろしが終わったら、あとは人間が滅びる様を見て最期を迎えようと思っていたのだけれど、気が変わったわ。――勝負といきましょう、オルン」
「……勝負?」
「そう。貴方が最後まで〝想い〟なんて下らないものを信じ続けることができるかどうか」
その声には、嘲笑も挑発もなかった。
「人間は、愚かで、醜くて、脆い。愛も希望も信頼も、都合の良い言い訳に過ぎないわ。わたくしは、それを何度も思い知らされた」
フィリーの持つ精霊の瞳から、涅い魔力が漏れ出る。
「でも、貴方は違うと思っているのでしょう? そんな詭弁をどこまでも信じようとしている。……だからわたくしは――そんな貴方の心を圧し折りたい。絶望で歪む顔が見てみたい」
フィリーの声音はあくまで静かだった。
怒りも興奮もない。
ただ、欲望の奥底をさらけ出すような、恍惚とした響きがあった。
いつの間にか、彼女の精霊の瞳を持つ手とは反対の手には、魔導具のようなものが握られていた。
フィリーがその魔導具を操作した瞬間だった。
精霊の瞳から溢れていた涅い魔力が、彼女の右目に向かって螺旋のように吸い込まれていく。
その異様な光景に、嫌な予感がした俺は、咄嗟に飛び込もうとした。
「っ……!?」
しかし、足を踏み出した瞬間、正面から吹きつける黒い突風のような魔力に、全身が押し返される。
魔力が風のように唸りを上げ、空間をねじ曲げていた。
踏み出そうとしても、まるで身体ごと後ろへ引き戻されるような感覚が付きまとう。
【終之型】の反動が、まだ全身を蝕んでいるせいか、上手く全身に力が入らない。
それでも、俺は歯を食いしばって前へ出ようとした。
だが、フィリーの周囲を渦巻く魔力の暴風が、まるでこちらを拒絶するようにさらに強まった。
そんな嵐の中心に居るフィリーの体がわずかに震えた。
けれどそれは拒絶や苦痛ではなく、悦びに身を浸すような震えだった。
「……ふふ。これが……、これがオベロン様の魔力……!」
その右目に魔法陣のような幾何学模様がゆっくりと浮かび上がる。
そこから滴る黒い魔力が、まるで涙のように彼女の頬を伝う。
突然嵐のような魔力が収まるも、周囲の空間は未だに揺らめいている。
異様な静けさが辺りを包む。
そんな空間の中心で、彼女が静かに笑った。
「なるほど……超越者は、こんな景色を見ていたのね」
吐き出すように言葉が漏れる。
「少しだけ……わかってしまった気がするわ、貴方が信じたいと思っている〝幻想〟が」
そう呟きながら、彼女はふっと目を細めた。
その瞳には、言葉にできないほど複雑な感情が宿っている。
「けれどやっぱり、わたくしには相容れない。――それでも、壊す価値のある幻想であることは、充分に理解できたわ」
シオンやオリヴァーと同じように、フィリーは精霊の瞳と自身の目を同化させた。
しかも、その魔力は邪神のモノだ。
フィリーの右目から滴る涅い魔力が、地面に落ちる。
その瞬間、地の底から咆哮のような轟音が響いた。
大地が大きく揺れる。
霊山の頂に濃密な瘴気が渦巻いた。
山頂にあり得ざる巨影が姿を現す。
雲よりも高く、幾重にももつれた巨大な蛇の体。
八つの首がうねり、天に咆哮を上げる。
「八匹の蛇……?」
「旧時代――キョクトウの前身に当たる国で語られていた神話の怪物――八咫蛇を再現してみたわ。どうかしら?」
「ヤタノヘビ……」
右目が痛むのか、フィリーが右目を抑えながらも、その表情はどこか恍惚とした笑みに染まっていた。
「貴方が信じているモノが、どれほど脆くて無力か――これから時間をかけて丁寧に教えてあげる」
そう言って、彼女は空を指差した。
ヤタノヘビの八つの首のうち一つが、ゆっくりと動いた。
その視線の先にあるのは――キョクトウの首都、ハネミヤ。
「まずは、人の命がどれだけあっけなく消え去るのか、それを知りなさい」
首が口を開き、魔力が凝縮し始める。
禍々しい魔力が空気を歪めていく。
「やめろっ!」
声を上げた瞬間には、もう身体が動いていた。
悲鳴を上げる身体を無視して、魔剣を握りしめる。
「――【伍之型】」
魔剣を魔盾へと変える。
次の瞬間、ヤタノヘビの口から災禍の塊が解き放たれた。
その直撃の軌道上に飛び込み、魔盾で受け止める。
「ぐっ……!」
盾にぶつかる魔力の奔流。
圧し潰されそうになる衝撃を必死で耐える。
やがて、魔力の奔流が霧散し、わずかな静寂が訪れた。
(はぁ……はぁ……。何とか、街への被害は防げた……)
眼下に広がる街を護れたことに安堵していると、
「流石ね」
山頂付近に漂う涅い魔力の中から、フィリーがこちらを見下ろしていた。
だが、邪神の魔力は負担が大きいようで、彼女は消耗しているように見える。
「だからこそ、圧し折り甲斐があるというものね」
言いながら、彼女の輪郭がゆっくりと薄れていく。
魔力に飲まれ、視界から消えていく。
「次に会うときは、貴方の歪んだ顔を見せてちょうだい」
その言葉を残して、フィリーの気配が消えた。
残されたヤタノヘビが、山の頂から咆哮を上げる。
「……面倒な置き土産を残しやがって――【壱之型】」
深く息を吸って、魔剣を握り直す。
【終之型】による反動はある程度回復している。
当初の目的の一つである、教団で一番厄介な相手をこの国から追い出すことは成功した。
でも、まだ何も終わっていない。
きちんと終わらせる。
それができて、ようやくこの国は、前に進むことができるだろうから。
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