291.【sideフウカ】後の先
◇ ◇ ◇
オルンと別れたフウカは分岐路を左に進み、門をくぐって屋敷の敷地内へと入っていく。
目の前に広がる前庭は、彼女の記憶の中とほとんど変わっていなかった。
白く整えられた石畳がまっすぐ主屋へと続き、両脇には低木が規則正しく植えられている。
夏の日差しに照らされた葉の緑が眩しく、所々に咲いた季節の花々が、静かな彩りを添えていた。
ここはかつて、自分も何度となく通った場所だ。
だが、もうあの頃とは全く違う。
視線を正面に向ける。
そこには一人の男が静かに立っていた。
キリュウ・テンドウ。
白い髪が増えたようだが、どこか懐かしさがある。
だが今の彼女にとって、それは目の前に立ちふさがる壁のように見えた。
風が吹く。
彼女の好きだった夏の風が。
けれど今は、それを感じている余裕すらない。
フウカが歩みを止めた。
この庭はかつてキリュウに剣術を教わっていた場所だ。
その記憶の残る場所で――今、弟子は師に刃を向けようとしていた。
「こちらに来てしまいましたか」
「先生の教えの通り、力を付けてきたから。今の私には頼りになる仲間がたくさんいる。だから私は、私にできることをやるだけ」
「そのようですな。刀を交えなくとも、姫が強くなられたことは充分に伝わってきます 」
「……そこを、退く気はある?」
「ありませんな。これこそが儂に残された唯一の役目でして」
「そう。だったら、――無理やりにでも、押し通る」
フウカは左腰に着けている収納魔道具から鞘に納まった妖刀を出現させると、それを左手で静かに握った。
「はは……何故そのような大口が叩けますかな。――刀を握り始めて十年そこらの小娘が、半世紀以上を刀に捧げている儂に勝てると、本気でお思いか?」
キリュウの声が低く、静かに熱を帯びる。
その雰囲気が、穏やかだったものから、じわじわと剣呑なものへと変わっていく。
だが、フウカは怯まない。
鯉口を切ると同時に、縮地で一気に間合いを詰めた。
迷いはない。
刃を交える覚悟はとうにできている。
しかし――キリュウが一向に動かない。
今だけでなく、【未来視】にも、その姿に変化はない。
ただ静かに立ち、こちらを見据えていた。
その光景にフウカの中で疑念が生まれる。
(……動かない? なら、このまま――)
だが一瞬でも躊躇すれば、こちらが斬られる。
フウカが振り払うように踏み込んだ。
そのまま刀を振るう。
その瞬間。
キリュウが動いた。
【未来視】がフウカに視せる。
――キリュウに斬られる未来の光景を。
だが、視えたのが遅かった。
既にフウカは刀を振り始めている。
キリュウの刀が、フウカの太刀筋を逸らす。
そして、躊躇いなく放たれる二の太刀が、彼女へと迫る。
「――っ!!」
どうにか身を逸らす。
が、完全には間に合わない。
頬を鋭い軌跡がかすめ、浅い切り傷と共に熱が走った。
フウカは地を蹴り、間合いを取り直す。
「……ふむ。これでも動き出しが早かったようですな。あと一拍待てていれば、確実に斬れていましたね」
キリュウがそう呟く。
声は穏やかなままだが、その眼差しは冷静に状況を見極めていた。
「…………」
「昔教えたはずですよ、姫。その眼に頼りすぎていると、足元を掬われると」
次の瞬間、またしても、フウカが斬られる未来が視えた。
「――っ!?」
とっさにその場を離れ、キリュウの間合いから逃れる。
……だが、キリュウは一歩たりとも動いていなかった。
その事実に、フウカの切っ先がわずかに震える。
「視えすぎるというのも、考えものですな」
静かに告げるキリュウの声に、フウカの胸がざわめいた。
――【未来視】。
それは【自己治癒】と同様、本人の意思に関係なく常に発動されている。
フウカの視界には、常に二つの光景――『現在』と『少し先の未来』――が重なるようにして映っている。
通常、視えた未来の光景はそのまま現実になる。
しかし例外がある。
それが、未来を識る者が行動を変えた時だ。
彼女が行動を変えれば、それに連動して周囲の行動も変化する。
そして、新たな未来が視界に映り込む。
昨年の武術大会でオルンはその特性を逆手に取った。
フウカが対処に動いた瞬間に、攻め方を変える、という戦法を高速で繰り返した。
その結果、彼女は一瞬のうちに無数の未来を視る羽目になり、脳にかかる負荷が限界を超えてしまった。
思考停止に近い状態となったその隙を突かれて、勝負は決した。
――今のやり取りも、それと同じ理屈だ。
キリュウがフウカに斬りかかろうとした。
その未来を視て、フウカは回避をした。
彼女の回避行動に反応し、キリュウが攻撃を止めた。
だからこそ、【未来視】で視た光景と、現実が食い違った。
当然、こんなことが誰にでもできるわけではない。
だが、目の前の相手は違う。
武芸でも駆け引きでも、フウカを上回っている。
そして、何より【未来視】の対処法を熟知している相手だ。
「しかし、驚きました。ここまで強くなっておられるとは。儂以外が相手であれば、そうそう負けやしないでしょう。ですが残念ながら、この戦いに於いては、このままでは姫に勝ち目はありません」
「まだ、勝敗が決したわけじゃない」
そう言うフウカが握る刀に変化が現れる。
刀身の根元から切っ先にかけて赤味を帯び始め、最終的に刀身が赤銅色に染まった。
「……赤銅色の刀身、ですか。なるほど……」
「行くよ、先生」
「えぇ。姫の全てを見せてください」
その会話を皮切りに、再び両者が接近する。
◇
頬を伝う汗が、傷口に入り込んでヒリついた。
肩で息をしながら、フウカは切っ先をわずかに下げる。
服のあちこちが裂け、肌には新たな切り傷がいくつも走っていた。
攻めているのは自分のはずなのに、徐々に削られ、次第に太刀筋が鈍る。
一合、一合と、打ち合うたびに、まるで自分の動きだけが読み切られているようだった。
キリュウは静かに間合いを保ったまま、構えすら崩していない。
「この結果に落ち着くのも、当然ですな」
ようやく口を開いたキリュウの声は、嘲笑でも哀れみでもなく、淡々と事実を告げるものだった。
「我々の扱う剣術の神髄は〝後の先〟。儂を退けるために先に動かざるを得ない今の姫では、返り討ちに遭うのが道理というものでしょう」
フウカは唇を噛んだ。
だが、キリュウの言葉はまだ続く。
「もっとも、それ以外にもいくつか敗因はございますが」
「それ以外の、敗因……?」
問い返すフウカに、キリュウは一拍置いて答えた。
「まずは、姫が異能者であることです。異能者は他者が真似できない唯一無二の能力を扱えますが、それが魔力由来であるが故に、自身の氣を十全に扱うことができません」
キリュウが静かに語り始める。
「姫は、ご自身の氣の九割九分九厘まで操れています。ですが、――儂は十割を操っています」
たった一厘の差。
しかし、武の極致に手を伸ばしている二人にとって、この差は致命的なものだ。
「そして、何よりも大きいのが、――姫に覚悟が足りていないことです」
「覚悟? それなら……」
「いいえ。足りておりません。その証拠に……」
キリュウがフウカの刀に視線を落とした。
「その刀身は、赤銅色でしょう?」
「どういう、意味……?」
フウカの瞳が揺れる。
「そのままの意味です。本当は気づいておられるはずです。気づいていて見ぬふりをしている。それこそが貴女の覚悟の無さを物語っています」
キリュウの瞳に、初めてかすかな翳りが宿る。
「――もう良いでしょう。姫では儂に勝てなかった。これが結果です」
言い終えるや否や、キリュウの姿がブレた。
「――っ!?」
直後、【未来視】がフウカに無数の未来を叩きつける。
フウカは視界に映る未来の光景を無視して、現在のキリュウが握る刀に集中して迎撃を試みる。
しかし、キリュウの方が上手だった。
彼は刀を囮にして、蹴りをフウカに叩き込む。
「あぐっ!?」
腹部に重たい衝撃を受けたフウカが宙を舞う。
そのまま主屋二階の壁を突き破り、砕けた木片や飛び散ったガラス片とともに床を転がった。
呻き声を漏らしながら、フウカは動けずにうつ伏せに倒れ込む。
意識は手放していないものの、ただ、呼吸を整えるだけで精一杯だった。
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