130.乗馬
海で遊んだあの日からまたしばらく経過した八月のとある休日、俺はまたアベルさんの研究部屋でのんびりと本を読んでいた。
休日は街を何気なく巡ることもあるが、この部屋で読書することが最近の休日の日課になりつつある。
急いで読んでいるわけではないが、蔵書されている本も休日をあと数回使えば読み切れるだろう。
「あ、やっぱりここに居た」
部屋に入ってきたアベルさんが俺を視界に捉えると、人懐っこい笑みを浮かべながら呟いた。
「アベル様、おはようございます。本日も部屋をお借りしています」
読み途中の本を閉じてから立ち上がり、アベルさんに声を掛ける。
「うん、おはよう、オルン君。ここを気に入ってもらえたようで嬉しいよ。それとごめんね、読書の邪魔をしちゃったね」
読書は俺にとって憩いの時間でもあるから、正直に言えば『邪魔をされた』になるが、流石にこれを言うことはできない。
アベルさんは貴族である上に《夜天の銀兎》の筆頭スポンサーの関係者だ。無下にできる相手ではない。
「とんでもありません。私を探していたようですが、何かありましたか?」
「大した用事じゃないんだけどさ、オルン君は乗馬できる?」
「乗馬ですか? いえ、経験はありませんね」
いきなり予想だにしていなかった問いかけに疑問符を浮かべながらも、表情に出さないよう努めながら返答する。
「そっか。それならさ、是非乗馬を体験してみない? 乗馬は読書に次ぐ僕の趣味でね。すごくおすすめだよ!」
乗馬か……。
今日は一日読書に充てるつもりだったが、アベルさんの誘いに乗るのも一興かな。
乗馬自体には興味あるし。
「では、せっかくのお誘いなので、体験させていただきます」
「本当かい!? ありがとう! それじゃあ十三時に正面玄関まで来てくれるかな?
今が午前十時前後。
二時間あればのんびりでも今読み途中の本は確実に読み終わるな。
「承知しました。それでは十三時に屋敷の正面玄関へ行きますね」
「うん。それじゃあよろしくね!」
そう言うとアベルさんはすぐさま部屋を出ていった。
それを見送った俺は、再び椅子に腰かけ読み途中だった本の読書を再開した。
◇
屋敷の正面玄関へと足を運ぶと、既にアベルさんの姿があった。
「アベル様、申し訳ありません。お待たせしました」
「いやいや、まだ約束の時間までしばらくあるんだし大丈夫だよ。それじゃあ、行こうか」
メイドや執事たちの「行ってらっしゃいませ」という声を背に受けながらアベルさんの後ろを付いて行く。
玄関から外に出てそのまま敷地内の厩舎へとやってきた。
厩舎の中には十頭近くの馬がいるような気配がする。
アベルさんに待機するよう指示を受けてその場でしばらく待っていると、アベルさんと老人がそれぞれ一頭ずつリードで繋いだ馬を連れてきた。
どうやらこの老人は厩務員のようで、馬と接する際の心構えや基本的なことをレクチャーしてくれた。
それから老人の指示に従って馬の首付近を中心に撫でてみる。
馬の毛並みはツヤツヤとしていて、とても撫で心地が良かった。
きちんと手入れされていることがすぐにわかる。
しばらく馬の毛並みを堪能してから、実際に馬に乗ってみる。
一気に視界の高さが変わり普段よりも遠くを見渡せた。
馬もきちんと調教されているためか、不慣れな俺が乗っても身じろぎ一つしなかった。
「それでは軽く歩きますよ。先ほどお伝えした通り、姿勢を正しく、重心は常に中心に置くよう心掛けてくださいね」
老人の声掛けと共に馬がゆっくりと歩き出す。
「おぉ……」
普段自分が歩いている時とも、馬車に乗る時とも全く違う感覚だ。
「どう? 馬に初めて乗った感想は?」
隣で馬に乗りながら俺と同じペースを合わせてくれているアベルさんから声を掛けられる。
「月並みな感想ですが、すごいですね。今までに体験したことのない感覚です」
それから数十分、老人やアベルさんからアドバイスをもらいながら並歩を続けた結果、老人の先導が無くても難なく乗りこなせるようになった。
馬は頭が良いと聞いたことがあるがそれは本当だったようだ。
乗りこなしたと言ったが、実際は馬が俺の気持ちを汲み取ってその通りに動いてくれている節がある。
老人の調教故かとも思うが、それ以上にコイツとは〝馬が合う〟そんな気がする。
それから軽速歩や速歩も体験し、どちらも問題無しと老人からお墨付きをもらった。
それから俺とアベルさんは敷地を出て、街から少し離れた海岸沿いの道をのんびりと移動しながら景色を楽しんでいた。
「それにしても、こんなに早く習得するなんて、オルン君は噂通りの天才だね。こうして並んで歩くのはしばらく先になると思ってたよ」
「恐縮です。『コツを掴むのが早い』というのが私の取柄ですので。それにアベル様という素晴らしいお手本もありましたしね」
「あはは、僕は下手な方だけどね。それでも役に立てたなら嬉しいよ」
アベルさんは本当に嬉しそうに微笑んでいる。
午前中に声を掛けられたときは『読書の時間を貴族相手に使わないといけないのか』という気持ちが少なからずあったが、結果的には良かった。
乗馬なんて普段なら絶対に体験できなかったことだしな。
「それにしても風が気持ちよいですね」
海から流れてくる冷たい風を受けながら、つい口から零れてしまった。
照りつける太陽の日差しを海風が軽減してくれているようだ。
「本当にね」
◇
休憩を挟みつつ、自然の景色を堪能した俺はアベルさんの誘導に従って緩やかな坂をしばらく登る。
坂道を登り終えると、そこは今俺たちが暮らしている都市であるロイルスが見下ろせる丘の上だった。
「オルン君がこの街にやってきて一か月以上が経つけど、きみから見てこの街はどうかな?」
アベルさんから突然質問を投げかけられる。
彼の方を向くと真剣な表情をしていた。
「素敵な街だと思います。多くの観光客が訪れていて活気づいていますし、ここに住む人たちも良い人ばかりで俺たちにも良くしてくれて、この街に来れてよかったと思っています」
これは嘘でなく俺の正直な気持ちだ。
ツトライル以外、長期滞在したことのある街はここくらいなものだから比較対象は少ないけど、ここは過ごしやすい街だと思う。
街の人が俺たちに良くしてくれるのは、俺たちが伯爵家の客人に近い扱いであるからというのはわかっているけどね。
「ありがとう。嬉しいよ。僕はこの街が大好きなんだ。エディントン伯爵家の次期当主という肩書を抜きにしても僕はこの街の発展に寄与していきたいと思っている」
アベルさんの今の言葉にはある種の覚悟が伺えた。
「立派なお考えだと思います。アベル様のような素晴らしいお考えを持っている方が次期当主であられるということは、ロイルス、延いてはレグリフ領は安泰ですね」
「安泰、か。オルン君、きみに一つ質問したい」
「……なんでしょうか?」
「守りたいと思っているものが、近い将来壊されるかもしれないとわかったら、きみはどうする?」
またしても真剣な表情で問いかけてくる。
もしかしたらこの話がしたくてアベルさんは俺を連れ出したのかもしれない。
「その守りたいものが壊されないように必死に抗います」
「うん、そうだよね。それじゃあ必死に抗ってもその大切なものの全てを守り切れないことが既にわかっていたら?」
「その場合は……、優先順位を決めます。守りたいものの中でも特に守りたい、譲れないものを決めてそれを含めて可能な限り多くのものを守れる手段を講じます」
「その選択の結果、他者に迷惑を掛けたとしても、きみはその選択を選べるの?」
「本当に守りたいものが守れるのなら、その選択によって生じたことは甘んじて受け止めるべき、と私は考えます」
「……そっか。きみは強い人だね」
「そんなことありませんよ。今の私の言葉はあくまでも私のスタンスです。実際にアベル様がおっしゃった事態に陥った時、私がそのように行動できるのかはわかりません。大切なものを失うというのは怖いですから。もしかしたら冷静に優先順位を決めるなんてことできずに、がむしゃらに突っ込んでいくかもしれませんね」
そうならないように常に冷静に物事を考えられるように務めているが、大切なものが理不尽に晒されたとき冷静でいられるかわからない。
口だけにならないように肝に銘じておかないとな。
「ありがとう。オルン君の考えはわかった。変な質問に答えてくれてありがとう。――それとごめんね」
「いえ、アベル様のお役に立てたのであれば光栄です」
「それじゃあ、日も沈んできたし帰ろうか」
「はい」
◇
九月になった。
早いもので俺たちがレグリフ領にやってきてもうすぐ二カ月だ。
迷宮調査の方もかなり順調で、進捗状況的には全体の七〇パーセントは消化した。
進捗具合はウィルたちの方も同様なようで、年越しはこっちで過ごすことになるかと思っていたが、どうやらその前には帰れそうだ。
弟子たちが迷宮調査に慣れてきたため、先日から《黄昏の月虹》とは別行動を取っている。
そのおかげで更に迷宮調査が捗っている。
俺が居なくとも、あいつらにはルーナが付いているし、命の危険に晒されることはまずないだろう。
俺個人は迷宮調査と並行して氣の鍛錬をしているわけだが、まだ全開戦闘時に氣を絡めるのには抵抗がある。
少しずつマシになってきているが、それでもトータルで見ればまだ【重ね掛け】の方が強い。
早く【重ね掛け】から氣にシフトしたいものだ。
そんなことを考えながら、今日の迷宮調査を終えた俺は迷宮の入り口へと帰ってきた。
どうやら《黄昏の月虹》の方が先に今日の迷宮調査を終えていたようで、四人が伯爵家の馬車の近くで俺を待っていた。
「悪い。待たせたな」
「あ、オルンさん、お疲れ様です」
「あぁ。そっちもお疲れ様」
四人に近づいてから声を掛けると、ソフィーが最初に反応を示した。
いつもは俺が声を発するよりも先にキャロルが声を掛けてくるのに、今日はそれが無かった。
キャロルの方に視線を向けるとどこか落ち込んでいるような、怯えているような、そんな印象を受けた。
ログも何やら普段とは違う雰囲気だし、これは何かあったと考えて良いだろう。
何があったかはなんとなく予想が付くが、事実確認が先だな。
俺はみんなに声をかけてから、五人で伯爵家の馬車に乗り込み屋敷へと帰った。
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