09.お兄様の書斎
その後は何も起こらず、村を後にして城へ戻ってきた。
それまで一度も口を開かなかったアルトスが私に声をかける。
「姫様、お部屋まではお戻りになれますか?」
「大丈夫よ」
城がいくら広くても、朝来た道を戻ればいいだけだし、大丈夫なはず。
階段を下りた時に風景のあった絵があったから、そこにある階段を上ればいいんだよね。確かこっちの方角から来たような……。
「お送りします」
アルトスが私の隣に並んだ。
「部屋に帰る前に魔王様に書類をお持ちしましょう」
「あ……、そうよね」
魔王の間は一階にあった。
その場所だけ扉が石で出来ていて、装飾も独特なので、すぐに昨日訪れた場所だと分かった。
アルトスが扉を叩く。
お兄様の返事の後で扉を開け、一歩部屋に入ってから私を促した。
「私は廊下で待っておりますので」
「分かったわ」
重い扉が音を立てて閉じる。この部屋は外よりも随分薄暗い。
「ただいま戻りました。お兄様」
「ああ、ご苦労だったな」
アルトスが廊下で待っているからだろうか。話し方は威厳がある方になっている。
お兄様の目の前まで歩き、書類を手渡した。受け取りながら私の耳元でつぶやいた。
「僕の書斎に移動しよう」
書斎?
彼が椅子を後ろに押すとその場所には下へと通じる穴があり、手すりも見えた。
お兄様に手招きされて、後に続く。
階段と、その下の廊下には等間隔で蝋燭が並び、辺りを照らしている。私の二、三倍は身長があるお兄様が立ったまま歩いているので、天井が高いようだ。廊下を歩いた先に装飾が一切ない、ただの一枚のドアがあった。
「よいしょっと」
かなり重いようで、お兄様が全身を使ってドアを押す。
ドアは辞書三冊分の厚みがありそうなほど、分厚かった。
部屋の中は広く、やはり天井が高かった。言っていた通り書斎のようで、奥に本棚、手前にデスク。さらにその前には机とソファが向い合せに二つ並んでいる。
「さあ、入って」
私が部屋に入ると、彼は再び全身の力を込めてドアを閉めていた。
「お疲れ様、まぁ座ってよ。元に戻ったら茶入れるから」
元に戻る?
頭の中に疑問符を浮かべながら眺めていると、お兄様は小声で何か言っていた。
すると、空気が抜けるような音と共にお兄様の体が縮んだ。
え……。
角も小さくなり、肌に描かれていた模様が消え、割れていた腹筋や腕の筋肉も見えなくなった。
背は高いがかなり細身だった。
その後、彼はデスクの上に置いてあった眼鏡をかける。
とても優しそうな風貌だった。
どうしいうこと?
聞くことも出来ないので推測するが、おそらく魔法のようなもので魔王っぽい姿に変わって魔王として勤めているのだろう。
「今日の場所、被害が酷かったでしょ。ごめんね、嫌な場所に行かせて。油みたいなの撒かれて、一気に焼けちゃってね」
お湯を沸かしたり、茶葉をポットに入れたりしながらお兄様が話す。
魔王が、自分でお茶入れたりするんだ。
そもそも、今の見た目からは、魔王をやっているようには見えないのだが。
「建物を燃やす名目だと『神の啓示』も効かないからね。結果的にたくさん死んじゃって、僕らを恨んでいる人もいたみたいなんだ」
神の啓示?
考えを巡らせていると、目の前にソーサーとカップが置かれた。
「その怪我、襲われたの?」
「あ……」
反射的に首を押さえる。
「アルトスがついていたから、大丈夫だと思ったんだけど」
と、顔を曇らせる。
「違うの。アルトスは守ろうとしてくれたんだけど、私が勝手なことをしたから……」
慌てて説明する私を見て、お兄様はくすくすと笑った。
「また無茶したのかな? ダメだよ、危ないことしちゃ」
「ごめんなさい」
「いや、君はよくやってくれているよ。ディルクが他の国に行っているから城から出る仕事は全て君に任せてしまっているから。本当に申し訳ないよ」
口ぶりからすると、おそらくすでに両親は他界しているのだろう。ディルクは名前からして男性だろうか、他にも兄弟がいるらしい。
それに理由は分からないが、お兄様は外に自由に出られないらしい。
少し重い空気になってしまったが、お兄様がポンと両手を合わせ弾んだ声で言う。
「そうだ、西の国の従者が美味しいチョコレートを持ってきたんだ。君の分ももらっておいたよ。今出すから待っていてね」
そう言って、戸棚の引き出しをあさり始める。
魔王への献上品がチョコレートって。
ふふっと笑いがこぼれた。
皿に乗せて出してもらったチョコレートは、色とりどりで可愛らしかった。口に含むと、外のチョコレートがパリっと割れて中の濃厚なソースがあふれ出す。
デパ地下で売ってる高級チョコレートみたい。
「美味しい」
入れてくれた紅茶を口に含んで、小さく息を漏らす。
紅茶もとても美味しかった。
「疲れていたら、ソファに横になってもいいよ」
「ありがとう」
優しいな。
お兄様もきっとセリアのこと大切に思っているんだ。
そう思うと、騙している罪悪感から胸の奥がチクチクと痛んだ。
「紅茶、飲み終わったら出るね。アルトスが部屋の外で待っているから」
「そうか。また、いつでも遊びにおいで」
「うん、そうする」
ドアの開閉はお兄様がやってくれた。
彼はまだ書斎に残るということなので、椅子は元の状態に戻してから、魔王の間の扉を開ける。