2.
【用水路の中の別世界】
僕はどこにでもいるような、ごく普通の小学生だった。
特別なものはない。とりわけ勉強が出来るわけでも、工作が得意なわけでもない。人より少しだけ足が速いのが唯一の取り柄の、ただの小学生。これが僕だ。
あれは小学三年生の時だった。
子どもの頃は、毎日が新発見で、毎日がとても楽しかった。
目にするものはみな大きくて、知らない事ばかり。大人が素通りする出来事は、子どもにとっては大げさに映る。それはとても新鮮で刺激的で、キラキラと輝いて見えるのだ。
毎日毎日代わり映えしない通学路も、日々発見の連続だった。何もない時は、何もない事を全力で楽しんだ。
それは僕の友達も同じだった。
僕の小学校は、僕の住む団地から20分も歩いた所にある。
一つだけ車の通る信号を渡る。朝は毎日、警察官が立っている。信号の目の前が交番だからだ。
信号を渡ると、右手側は川だ。川を挟むコンクリートの塀は僕でも登れる高さだけれど、大人に見つかったらこっぴどく怒られる。
川の向こうにすでに学校は見えている。
通学路の途中に、二ヶ所小さな橋があって向こう側に渡れるけれど、踏切のない線路があるので、子どもは近づいてはいけない事になっている。
川に沿って遠回り。
左側に一戸建ての家がポツポツある。
しばらく進んで角の開いていない駄菓子屋を右に曲がると、大きな線路に出る。
そこは立派な踏切があるので、僕たちは右見て左見て、もう一回右見てから渡る。
踏切を越えると学校はすぐそこだ。
学校の周りは田んぼしかない。
その田んぼを囲むように、小さな川と用水路が張り巡らしてある。
排水溝のフタを足で蹴るとカンカンと音がする。僕はそれが楽しくて、フタを見つけるたびにカンカン鳴らしながら学校に着く。
学校の表玄関は来賓と先生専用。
僕たち生徒の靴箱は裏玄関だ。
小学校に通う1000人の生徒が一斉に使うので、朝はいつも揉みくちゃにされる。
せっかく整えた髪も絶対誰かにぐちゃぐちゃにされるのだ。この時間だけは苦手だけれど、3年も通えばすっかり慣れた。
田んぼと線路と川。
小学校の周りにはそれしかない。
とても静かで、時折踏切のカンカン鳴る音が遠くに聞こえるだけの、そんなのどかな学校に僕は通っていたのである。
「用水路の下に何かある」
そんな噂が教室で騒がれ始めたのは、夏休み間近の蒸し暑い日だった。
あと2週間ほどで夏休み。みんな浮き足立っていて、やれどこ行こう、いつ遊ぼう、自由研究は何するといった話題で教室は騒がしい。
僕にこの話が持ち込まれたのは、いつも一緒に遊んでいるオダくんからだった。
オダくんと僕は通学路が違うので、学校が終わると会う事はない。基本的に子ども達だけで通学路外に出る事はダメと言われている。
それも上級生になると解禁されるのだが、僕は三年生だったので、先生に見つかって怒られるのも嫌なので、黙って従っていた。
僕の友達で、いつも一緒にいるのはスポーツ万能で勉強もできるオダくんだ。あと、9棟のアパートに住んでるヤスくん、頭がとってもいいシマっくん、親が外国人のダニの3人がオダくんの取り巻きだ。
学校の休み時間はいつもオダくんが先頭に立って遊ぶ。
今日は珍しく教室にいるなと思ったら、こんな事を言い出した。
「六年生が言ってたんだ。学校の前の用水路の下に広場があるんだって」
「ええ?本当?」
日によく焼けたオダくんは、シュッとしていて女の子にもよくモテる。
するとヤスくん、ダニもやってきた。
「オダと喋っとったんやけどさ、学校の帰りに行かん?マジらしいぜ」
通学路が同じなのは、同じ市営住宅のヤスくんだけだ。
「全然暗くならんし、俺もいけるよ」
顔はどこから見ても外国人なのに、生まれた時から日本にいるダニは、日本語しか喋らない。
「夏休みになったらなかなか会えんやんか?試してみたいけど一人じゃ怖いけん、ユウを誘ったんやけどさ」
女の子にモテモテで、僕とは違ってカッコいいオダくんが、なぜ僕なんかにいつも構うのか分からなかったが、オダくんはこうやって僕を仲間に入れてくれるのだ。
用水路の中の事よりも僕はそれが嬉しくて、二言返事でオッケーした。
六年生がいうその噂とは、ひどく簡単なものだった。
小学校の周りに張り巡らされた用水路には、所々水を貯めるコンクリートの部屋があって、上からは真っ暗で何も見えないけど、実は小学校よりも広い場所があるのだという。
そこに行くには、学校に一番近い排水溝から中に入らなければいけないらしい。
用水路の広い部屋に何があるのかは、自分の目で確かめろと。
要はそういう事だった。
「探検しようぜ、ユウ!」
オダくんが言うならそれは本当にあるんだろう。
僕は暗いところがあまり好きではないけれど、そんな広い場所があるのなら、それはとってもワクワクするような事なんじゃないかと思った。
「いいよ、行こう」
決行は今日の帰りの時間。
何が起こると分からないからと、途中から話に入ってきたシマっくんが、給食のパンを取っておけと言ってきた。
僕は念のため、冷凍ミカンも食べずにランドセルの中に入れておいた。
お陰で学校が終わった時は、お腹が空いてたまらなかったのだけれど。
キンコンカンコン
学校の終わりのチャイムが鳴る。
本当は直ぐにでも飛び出したいのだけど、人の目を避けたい理由から少し待つ事にした。
1000人もやり過ごすのはどれだけ時間がかかるだろうか。
その間、教室で作戦会議を開く。
「目下、一番の問題は排水溝だ」
難しい言葉でシマっくんが言う。
そう。
僕たちが入る排水溝は、学校に一番近い所でないといけない。
排水溝のフタは、開けられるものと、びっちりハマってるものがある。
「開けられるのはここだ」
いつか探検したくて、オダくんは前もって調べていたらしい。
彼の指し示す場所、それを小さな頭が5つ、団子のようになって教室の窓から覗く。
「やばいねえ」
それはまさに僕たちの教室の真下にあった。
しかも、表玄関、職員室の真ん前だ。
ゴクリと喉がなる。
これは難しいミッションだ!
帰宅する生徒にも、先生にも見つからず、重い排水溝のフタを開けて、5人全員が中には入る。
排水溝の中はほふくぜんしんだ!
すぐに小さい川に出る。チロチロとしか流れてないから渡れる。
目的の用水路の部屋は、川をまっすぐ行ったすぐのところにある。
結局、ああだこうだと言っていても、実際に目で見て入って見ないことには何も分からない。
作戦を立てる途中から、みんなもう行きたくてたまらなくなったのが本音だったけれど。
僕たちは早速行動に移った。
時刻はまだ3時過ぎ。空は真っ青に晴れている。
下駄箱まで全力で走って、競うように靴を履く。
するとそんな僕たちの様子を見ていた女子が3人、何するの?と近づいてきた。
シバヤマさんと、ワタナベさん。もう一人の女の子は知らない。オダくんが、近所のユウカちゃんだと紹介してくれた。
僕の知ってる限り、2人はオダくんの事が好きな女子だ。
暫し、一緒に行く、女子は連れていかない、先生に言いつけるよと、不毛な言い争いになったが、主にヤスくんだったけど、一度言い出したら聞かないのが女子だ。2人はオダくんもいるから必死だ。
これ以上騒いでも仕方ないので、連れて行く事にした。
絶対先生に言わない事、排水溝に入って服が濡れても文句言わない事を条件に。
8人の大所帯になった僕たちは、列になって下駄箱を出て、先生に見つからないように足早に表に回る。
一応、曲がり角で2人残って見張り役をする。
僕たちが排水溝に入ったら、走って合流する作戦だ。
天気が良い。
少し、蒸し暑い。
いつもと違った帰り道の探検。
普段接しない女子が気さくに声を掛けてくる。
何もかもがワクワクする。
ランドセルは邪魔なので、排水溝前の田んぼに隠す。
女子がオダくんのランドセルの上にわざと荷物を置く。
きゃあきゃあ言うから、いつ先生に見つからないかヒヤヒヤする。
先頭はオダくん。
次に僕。
見張りはダニとシマっくんだ。
間に女子が入って、最後がヤスくん。
ファミコンのパーティみたいで楽しい。
オダくんと僕とで、排水溝の金網に手を掛ける。
少し力を入れただけで、僅かにフタが動く。
オダくんの言った通り、開くフタだ。
「いくぞ!」
「せえの!」
掛け声と一緒にフタを持ち上げる。
意外と軽い。
ヤスくんが中を覗いている。
「乾いてるな、やった」
排水溝の中はカラカラで、一滴も水が無かった。
乾いた砂と、濃い苔。
匂いは土臭い。
ユウカちゃんが少し嫌そうな顔をしている。
フタも田んぼに隠して、いざ突入!
まずオダくんが中に入る。
すごく狭いらしく、身動きが取れない。
「後ろから入って、後ろに進んだ方がいいかも」
確かにほふくぜんしんよりは力がいらない。
オダくんの姿は、完全に中に入るとコンクリートに覆われて見えなくなってしまう。
小さい川に出るまで、オダくんの無事は分からない。
「はやくいけよ!」
ヤスくんに乱暴に突かれた。
気づくと見張り役の2人が既に合流している。
何のための作戦なんだと思いながら、意を決して中に入る。
足を入れる。
中は少しひんやりしている。
砂を蹴る。コンクリートの端の苔を擦る。
オダくんは僕の靴が見えてるだろうか。
暗くて怖い。
もしこのまま動けなかったらどうしよう。
もし行き止まりだったら、こんな場所で方向転換なんかできない。
息が詰まりそうになりながら、なんとか排水溝から這い出る。
ホッと一息。
オダくんはもう、小さな川を進んでいる。
見上げると、すぐ近くにシマっくんがいる。
女の子の靴が見えてきた。
パンツを見たとか言われたくないので、オダくんの後を追う。
小さな川は、田んぼの水を均等に浸すのに使うらしい。
今は使ってないそれは、チロチロと水が流れるだけ。
周りがコンクリートに囲まれてるから、覗き込まない限り、僕たちがいることに誰も気づかないだろう。
滑らないように注意しながら進む。
遅かったのか、ワタナベさんが追いついてきた。僕の服を掴んでニコニコしている。
普段女子と喋らないからドキドキする。オダくんが好きなのに、何で僕にピッタリくっついてるんだろう。
川の終点まで辿り着いた。
「順調やな」
オダくんはコンクリートの小部屋の柵の中を凝視している。
暗くて中は全く見えない。
「これ、取れるんかな」
いつの間にか追い付いたシマっくんが顔を覗かせて言う。
柵は鉄製であちこち錆びていたけど、しっかりとした作りに見えた。
「大丈夫。ここにほら、開けれる」
見ると小さな蝶番。
鍵は掛かってない。
ギギギと柵の扉を開く。錆びた鉄がボロボロ落ちて川に落ちる。水流がないので落ちたままだ。
まだ中は暗いが、水はそこから下に落ちているようだ。
した?
「どれくらい下かな」
流石のオダくんも躊躇している。
飛び込むとは想定してなかった。
「怖いよー」
ついにユウカちゃんが泣き出す。
「今更後に引き返したくねえし」
「怪我したくない」
「そこになにがあると?」
みんな思ったこと、全部口に出ている。
僕はふと思い立って、足下にあった小さな石を拾い、上から落としてみた。
耳を澄まし、音を聞く。
すると、すぐにカツンという乾いた音が響いた。
「いけそうだよ」
「やるやん、ユウ!」
改めて僕たちは気合を入れ直す。
せっかくここまで来たのだ。今更何も確かめもせずに帰るのは勿体ない。
暗い穴に飛び込むのは本当に勇気が要った。
だけど、いち早く穴に飛び込んだのは、ヤスくんだった。
スタンと、靴が地面につく音。
ここからはヤスくんは見えない。
その時、ヤスくんの興奮した声がコンクリートの壁に反響して響きまくった。
「おい!はやく来てみろや!!すっげえ!すっげえぞ!」
僕とオダくんが顔を見合わせる。
シマっくん、ダニ、ワタナベさん、シバヤマさん、ユウカちゃん。
一人一人顔を見て、みんな同時にニイと笑った。
「行こう!!」
僕たちは、穴に消えた。