ミディアム戦線・1
今回のお話は視点が変わりますのでご了承ください。
ノルテ自治区戦況図
プルーセン共和国領ノルテ自治区ミディアム戦線の朝は早い。まだ太陽が地平線から生まれる寸前の澄んだ空気を一発の砲弾が切り裂く事で一日が訪れるのだ。
エリュシオンがもたらした「おはよう!」の挨拶を聞いたシャルロット・ハフナー上級軍曹は「退避!」とあらん限りの警報を発し、塹壕の中に身を沈めた。
するとほどなくして大地を穿つ轟音が響き、革製のヘルメットの上にパラパラとしたゴミを降らす。
彼女は無意識にヘルメットから零れた金色の髪についた誇りを払い落とし、使い古されたツンナール銃を抱き抱えて自然と漏れそうになる溜息を押し殺した。
そのまま何気なしにツンナール銃を握る手を見つめると指と言わず爪の中まで泥で汚れ、真っ黒になっている事に気が付いた。そう言えば何日風呂に入っていなかったっけ? と記憶を手探るも、中々思い出せない。
もっとも風呂に入れないのは前線の常。一日洗面器一杯の真水がもらえるだけありがたいと四十年に及ぶ軍隊生活で身に染みているにも関わらずそれでも落胆を覚えずにはいられなかった。
だが気を落とすその横顔からは長い軍隊生活を思わせない端整な顔立ちをしており、まだ二十そこらのような若さが際立っていた。
と、言うのも彼女はハーフエルフなのだ。ただでさえ長寿種であるエルフは人間の三、四倍ほどの寿命を誇る。その血が流れているが故に彼女の年齢は見かけには全く現れておらず、エルフの父から引き継いだ金髪と整った顔立ちが戦場の中でも輝いていたが、その濁ったような茶色の瞳がいくらか足を引っ張っている残念な女性であった。
「もうダメだ! お終いだ!」
「嫌だ! 死にたくなーいッ!!」
「お母ちゃん! お母ちゃん!」
濁った瞳が砲撃の合間に恐怖を叫ぶ部下達を捕らえ、溜息を我慢する堤防が早速瓦解しそうになった。そもそも軍隊において士気を下げるような事を平然と口に出すなど憚られて当然。
なんと言っても軍隊とは一人はみんなのために。みんなは勝利のためにと言う組織である。
個人の悲観など軍においてはゴミよりも価値のない物だ。むしろ害悪と言える。故にその考えを矯正しなくてはならず、それを行うのが戦場慣れしたベテラン下士官――小隊先任下士官たるハフナーの仕事であった。
だが彼女は他の先任下士官と違って決して声を荒げる事無く彼女は淡々と部下を叱咤する癖があり、本来なら拳の二、三発叩き込む事で軍人精神を注入してやる教育を施す所を彼女は行わないと一風変わった小隊先任下士官であった。
もっとも彼女としては暴力による教育を否定しているのではなく殴ると自分の拳も痛めてしまうからやりたくないだけなのだが、誰もそれを知らないので物静かなハーフエルフと言う印象を持たれていた。
「おいゴブリン共。ぎゃあぎゃあ騒ぐな。耳障りだ」
ゴブリン族。それは灰緑ががった皮膚にしわくちゃの顔し、美麗と言う言葉を忘れ、醜悪一色に塗られた顔立ちをした種族である。
その美の星から見放された種族はヘルメットからだらしない長耳をこぼし、軍服も一様に乱れた着方をしており、見ているだけで嫌悪感を抱く種族だった。
それこそ「うるさい!」と一発殴りつけて黙らせたくなるそれをハフナーは細い声で叱りつけると、ゴブリン達はそれに縋るように先任下士官の下に駆け寄って来た。
「で、ですが上級軍曹殿! 我らは昨日も敵の攻撃を耐えました!」
「そうです上級軍曹殿! 我らは一昨日も敵の攻撃を耐えました!」
「そもそも上級軍曹殿! 我らは一昨々日も敵の攻撃を耐えました! いつまで耐えれば良いんですか!?」
「バカ野郎。長耳共を皆殺しにするまでに決まっているだろ。お前らはその日まで銃を握ってれば良いんだ。分かったら黙れ」
とは言え……。
彼女は職場にして住居となっている塹壕を見渡せば泥の海に浸かりながら懸命に敵の攻撃から身を低くしてそれをやり過ごそうとする疲れたゴブリン達ばかり溢れていた。
だがその数も十五に届くか届かないかであり、軍の規定に基づいて彼女の小隊は全滅判定を受けて後方で再編成されるべき被害を被っていた。もっと言うなれば彼女の所属する大隊は定員六百名なのにすでに兵員は四百五十名を切ろうとしており、早急な後退を誰もが望んでいた。
(二割以上お損害出してるんだぞ。普通なら全滅扱いで再編しなきゃ戦線復帰出来ない損耗だ……。上は玉砕させるつもりか?)
その上からは待てど暮らせど後退命令がやって来ない。ついでに弾薬や食料と言った補給物資も中々来ない。無い無い尽くしの戦場にハフナーは己が身の不幸を呪った。ハーフエルフじゃなければこんな所に居なかったのに――と。
「上級軍曹殿! なぜ我らは後退できないのですか!?」
「上級軍曹殿! 我らはこれほど共和国のために戦っているではありませんか!?」
「上級軍曹殿! このままでは我らは帝国の連中にすり潰されてしまうではありませんか!?」
黙れと言ったのに仲の良いゴブリンだなと彼女は呆れつつ、言葉を選ぶ。
まず周囲を確認。上官の姿なし。もう一度黙るよう言っても良いが、その原因を言わねばこいつらは納得しないだろうと彼女は根本的な解決を図る事にした。
「良いかゴブリン共。その通りだ。あたし等は共和国にすり潰されるためにある」
「ど、どうしてですか!? 我らが何をしたと言うのです!?」
「はぁ。そんな事も知らないとは救いようの無い奴らだな。お前達の御先祖様は共和国や帝国、国家群に戦争をふっかけて負けたんだ。戦争に負けた国は賠償金を払ったり領土を失ったりするだろ。それと同じで偉大な共和国はお前達を酷使するんだ」
ここは北魔王領――ノルテ自治区のちょうど中間地点のミディアム地方。エリュシオン帝国の主攻勢正面であり、一日の戦死者は二千人前後の大激戦地。鉄条網と塹壕の連なる地獄だ。
そんな所に魔族と共に放り込まれたハフナーはこれが婉曲した死刑宣言であるとさえ思っていた。
「ご先祖様の事は分かりましたが、我々は――」
「お前達が忠実に軍務に励んでいるのは誰よりも知っている。だが世間の目は三百年前から変わっちゃいないのさ。だから汚名を返上するためにこうして共和国に奉仕を強要されているんだ」
魔王戦争から三百年の月日が経っても魔族と蔑称される種族は減る事が無い。
特に見た目が醜悪なゴブリンやオークはその筆頭であり、他にも魔王軍へ協力したとされる種族も差別の対象となっている。
「ま、いくら民主主義と言っても人間族が一番多い国だからな。人間国家にとっちゃあたし等亜人は駒同然なんだろ」
もっとも魔族はそれ以下なのだが――。そうした言葉を飲み込む。ハーフエルフであるハフナーの境遇からすれば人の事は言えないのだから。
なんと言ってもエルフの国であるエリュシオン帝国との関係悪化が起こるたびに嫌エルフ感情が高まるプルーセンにおいて彼の種族は非常に肩身の狭い生活をして来た。そして両国の友好関係が破綻して戦争が始まればエルフを国外追放にすべしと言う論調まで堂々と議論されたほどだ。
その上、嫌にプライドの高いエルフと人間の婚姻など両種族から受け入れられるものでは無い。
エルフからは不純物と罵られ、人間からはエルフに利する売国奴と見られる。特にハフナーの場合、母が貧民街の娼婦であった事もあり、他人に言えない過去を持ち合わせていたがために怒鳴ったり殴ったりするのが好きでは無かったのだ。
(さて……。これでこいつらも満足したろう)
これ以上の事を言ってしまうとただでさえ低い士気をより下げてしまう恐れがある。
そして彼女は腕時計に目をやり、自然とため息を尽きそうになった。
「もう少しで時間だ」
そう、彼女達はこれより敵が占有する塹壕陣地への攻撃命令を受けていた。
それは昨日の四日前の戦闘で奪われた友軍の第一線陣地を奪還するというもの。
「ですが上級軍曹殿、友軍の法兵や特科兵はどうしたのですか? 友軍の支援攻撃は無いようですが?」
「そんな攻撃をしたら敵はこちらの攻撃を察知して防御を固めるだろう。気づかれずに一気に攻めるためにわざわざ支援攻撃を取りやめてるんだ」
「なるほど! さすがです上級軍曹殿!」
ハフナーは思わずキラキラとした瞳を向けて来るゴブリンから目をそらす。
同じ説明を彼女の上官から聞かされた時は長い耳を疑ったとはどうしても言えなかったのだ。
そもそも支援攻撃が無いと言う事は無ダメージの敵と戦う事であり、こちらに甚大な損害が生じてしまうのではという懸念があった。
それでも作戦が了承されたのは軍上層部が彼女の部隊をすでに損害として計上しているからだ。無邪気に目を輝かすゴブリンにその真実を言えるはずがないハフナーはすでに痛まないと思っていた薄い胸がズキリと痛んだ。
だがゴブリンのうち一人が不安そうに目を伏せる。
「あの、上級軍曹殿。奇襲作戦と言うのは分かるのですが、本当に大丈夫なのでしょうか?」
「兵隊風情が知った口を聞くな。お前達は黙って攻撃しろと言われた目標を攻撃してりゃ良いんだよ。それを繰り返してたらいつか戦争は終わって“勇者”と呼ばれながら故郷に帰れる。ステキだろ?」
話は終わりだと言うようにハフナーは割り当てられた塹壕に散らばる同小隊員達を一か所に呼び集めるようゴブリン達に命令する。
間もなく気乗りしない総攻撃が、始まる。
盛大な誤爆をしてしまうと言う。申し訳ありませんでした。
また、本日夜にはミディウム戦線・2と共に戦火の猟兵も更新するのでよろしくお願いします。




