その七
夕闇の彼方から迷い込んだ暗黒雲が、教室を異界に変えた。微動だにしない二人の間に、かつてないほどの殺気と異形の混沌が漂い始める。
「ほぉ。……お前も結界が張れるのか、面白い。――――出でよっ! 現実逃避!!」
竜ヶ崎雅人が呪文を唱えると、四本の鉤爪を携えた魔器が顕現する。
「右腕っ!!」
それは魔法陣や包帯のある左腕ではなく、パーカーの右袖と結合した。
「驚いたか。この魔法陣や包帯は、魔器を強化するためのものではないのだ!!」
「なんだとっ!? ……だがこちらの部器に敵うかな? 帰宅命令!!」
智之が振るった左腕から漆黒の砂嵐が巻き起こったかと思うと、砂塵が凝縮して細身の大剣が現れた。尚も晴れない砂嵐が、竜ヶ崎雅人を苦しめる。
「くっ! ……何と言う部力。黒魔術防壁!!」
怪しげに光る防護壁が竜ヶ崎を囲むようにして展開され、砂嵐は分断される。
「帰宅帰路(ゴ―ホーム・スラッシュ)!!」
帰宅命令が横なぎに振るわれ、竜ヶ崎雅人はそれを上体を反らすことですれすれで躱す。直後にその鼻先で嘲笑うかのように漆黒の砂塵が迸った。
「ぐぁっ!!」
さすがに体勢を崩し仰向けに倒れ込む竜ヶ崎雅人。しかしすぐに立て直し、智之に向けて現実逃避を突き出し飛びかかった。
「隠居暮らし(リアル・ハイド)!!」
智之はそれを即座に切りつける。しかし空を切るように手ごたえが無かった。
「かかったな」
斜めに両断されたままの竜ヶ崎が喋る。その声は、智之の前後双方で響いた。
「……? そこかっ!」
振り返りざまに切りかかる智之。現実逃避の四爪がそれを受け止め、二人の頬を臙脂色の火花が飛び交う。
「中々やるようだな。生徒A」
「引くなら今のうちだぞ。竜ヶ崎雅人!」
智之がその名を口にした途端、竜ヶ崎の眉間に皺が寄る。
「俺の名前は、ダーク・エンペラーだっ!!」
バッと背後に飛び去って距離を取ると、竜ヶ崎雅人は頭上に展開させた魔法陣に叫ぶ。
「狂喜の群衆!!」
「なっ」
瞬間紫の歪が教室全体を包み込み、時空間にずれが生じた。
「時計の針が……」
一秒が永遠にも感じられるのは、気のせいではないだろう。今にも沈みそうだった夕陽も、すんでのところで立ち止まったまま変化が無い。
「その通りだっ! これこそが狂喜の群衆の効果。今、お前の時間は俺の一千倍にまで引き延ばされている。お前の負けだ生徒A!! 俺をその名で呼んだことを後悔するがいい」
じわじわと距離を詰めてくる竜ヶ崎雅人。隙だらけのその足取りを、智之はどうすることもできない。諦めかけたその時、智之の眼前を一粒の黒砂が平然と横切った。
「はっ、そうか! 帰宅急行!!」
智之がのそのそのたうつ指で何とか帰宅命令を正面に持ち直すと、俄かにその周囲を黒き砂塵が砂嵐となって旋回し始め、帰宅命令は黒光りするドリルへと姿を変えた。
「無駄だ。今となってはお前の攻撃など通用しない」
「……それはどうだろうな」
せせら笑う智之。
「帰宅開始!!」
「何!?」
帰宅命令からドリルの部分、すなわち先端の砂塵だけが飛び出し、平常時の高スピードで竜ヶ崎に迫る。
「隠居暮らし(リアル・ハイド)」
口ずさまれたそれによってまたしても躱されたかに思えた。――――が、帰宅命令は確かに竜ヶ崎雅人を捉え、その腹部を貫いていた。ドリルがではなく、本体が。
「あああぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぁぁっ!! な、何故だぁっ!?」
狂喜の群衆の効果によって、帰宅命令はまだ先程とさして変わらない位置にあった。竜ヶ崎雅人は、あろうことかそこへ顕現してしまったのである。
「貴様のその隠居暮らし(リアル・ハイド)はあくまで緊急回避。前方近辺への直線的移動しかできない。違うか?」
「どこで、それを……」
血反吐を吐きながら竜ヶ崎が肯定する。
「背後を取られて俺が振り返ったとき、お前も同じような体勢だった。それで確信したのさ」
「なん、だと……?」
竜ヶ崎雅人は帰宅命令に串刺しとなったまま四肢を投げ出し、力尽きたようにぐったりと脱力した。
「帰宅完了」