005
我に返る、と表現するのはいささかしっくりこない状況だった。
覚えているのはナユカが運んできたコーヒーが自分の手元に届く直前に、彼女の手を離れそのまま落下したところまでだ。
とっさに手を伸ばしマグカップを掴もうとして、その動作が以前まで一緒に仕事をしていた三浦さんとのやりとりを思い出させた。その瞬間に手が止まってしまった。大した意味も持たないはずのワンシーン。なのに、なぜかそのワンシーンがとても鮮明に思い出されていた。
床に広がった黒いシミのような水たまり。その中に沈むように横倒しされたコーヒーカップ。ナユカは手にしたトレイをテーブルに置くと素早く厨房を行き来すると、手にしてきたモップで掃除を始めた。
「あ、手伝-」
「すみませんでした。すぐに新しいコーヒーお持ちします」
声を出したときにはもう遅く、床はきれいになっていた。
それどころか沖見の反応を確かめることもせずに厨房に消えていった。
今までの彼女の接客を見ていた沖見とって、その反応は少し違和感を覚えるものだったが、床に残されたほんの少し濡れた床を見て思い出した三浦さんのことがナユカに感じた違和感を上書きした。
どうしても仕事のことを考えずにはいられないのか。
今のこの瞬間の気持ちが一言零れ落ちる。
右手がそこにはないマグカップを掴む動作をしていることに気づいて思わず苦笑いが漏れた。
何かを考えるとき、一度考えを切り替えるとき、区切りを入れるしぐさが沖見にはある。それは「よし、これから始めるぞ」と頭に知らせるための必要動作だ。パソコン業務をしている傍ら一息入れるタイミングではいつでもコーヒーの入ったマグカップを持ち、二口飲んでから、疲労で乾いた目をギュッとつむる。いつの間にかお決まりになったこのしぐさは自然と定着し、今ではルーティンのように体が覚えている。その際に口にするのが冷たくなったコーヒーであることまで含めてお決まりだ。
そこまで思い出して、自分が最近仕事中にコーヒーを飲まなくなっていることに気がつく。
「って、自分に知らないふりしてるよ」
どうしようもないな、と沖見は自分に対して悪態をつく。
そのとおりだ。いつからなんて明確で、なんでかなんて理由は一つしかない。
三浦さんが北海道に発ってからだ。
それをきっかけに自分を取り巻く環境は変わった。それも悪い方向に。それは予想されていたことだった。仕事の量は変わらず、仕事をさばく人が減る。そのしわ寄せが起こるのは当然で、三浦さんの下にいた沖見にその役が回ってくるのは至極自然な流れだった。
そして、それを経験して自分と彼女の力量の差に愕然としたのだ。
「あの、、、」
視線がうつむきがちになった時、背後からナユカの声がした。その声は店で出迎えてくれた時のような明るさではなく、どこかぎこちなく控え目なものだった。
沖見は椅子を回転させて彼女を視界に入れる。
それとほぼ同じタイミングで、新しいマグカップがテーブルに置かれる。
振り向きざまに香ったコーヒー香りが沖見の鼻腔を刺激する。
「たいへん失礼しました」
トレイを両手で支えながら深々と頭を下げるナユカ。その必死さが沖見との温度差を表しているようで、なんと解したものかと反応に困ってしまう。しかし、何も答えないわけにもいかない。
沖見はできるだけやわらかい声を心がけながら話しかけた。
「うん。謝罪は受け取りました。だから、この話はこれでおしまいにしよう。というより、このコーヒーはナユカ…さんからの気持ちなんだし、そこまで気にしなくていいよ?」
「…沖見さんは怒鳴ったりしないんですか?」
「怒鳴る?服にかかったわけでも、何か迷惑したわけでもないからなぁ。あと、なにか勘違いしているみたいだから言うけど、運んできた飲み物をこぼしたからって怒鳴る人は稀だからね?」
「…そうなんですか?」
「少なくとも僕はしない…あ、おいしいなこれ」
答えながらコーヒーを一口含む。
いつも飲むコーヒーは少し苦みと酸味が強めのものだが、このコーヒーは苦味はいつも飲んでいるものと同じくらいだが、酸味が控え目でなにより香りが全く違う。
「よかった。挽きたての豆と口当たりがまろやかなで癖がない水を使っているので飲みやすいと思います。この豆は香りがとてもいいので」
うまく入れられてよかったです、とうれしそうにこぼす。
「これ、ナユカさんが入れたの?」
「ですです。もう、何度も練習しましたよ。全然うまく入れられなくて大変です」
「すごいな。香りが主役かと思ったけど、味もなんというか…濃いな」
今まで沖見が飲んできたコーヒーは、飲んだ時に目が覚めるようなものを中心に選んできた。それが飲みなれていたし、舌が味を覚えてからはたまに飲む香り高いコーヒーはあまり好みではなかった。どうしても舌がガツンとくる濃さを求めてしまい、物足りないのだ。香り高いコーヒーは軽い、とは偏見もいいところだが、沖見にとってそれは、おなかは膨れても満たされていない感覚を呼ぶものだった。
しかし、このコーヒーはどちらも両立している。沖見の舌に合う味だ。
「そうですね。おじいちゃん、香りで囲って味で掴む、なんてことよく言ってましたけど、どっちも忘れられない味でないとだめだ!なんてよく言ってました。豆も水も随分凝っていたみたいですよ。まだまだ、あの味には届かないんですけど」
「これよりうまくなるのか」
沖見にとっては、ナユカの淹れたコーヒーも十分に驚くべきものだったが、それより先があると言われると求めてしまうのは仕方のないことだ。
そこから沖見とナユカはコーヒー談義のような会話をし続け、沖見は今まで言ったカフェの話を、ナユカはコーヒーを店で出せるまでになるまでの道のりを語り、気付けば沖見の手元のコーヒーが空になっていた。
「あ、おかわりお持ちしますね」
「お願いしようかな。次からはちゃんと伝票につけてね」
「それは…」
言い淀むナユカ。どうやら二杯目以降もタダで提供するつもりらしかった。
それでは商売にならないし、この対応が通常通りだというなら、今のうちに指摘しておいた方がいいだろう。そう沖見は判断する。と、そこまで考えてそもそもここまでナユカを拘束していた自分自身に気づく。
「料理と飲み物を提供して、お金をもらう。仕事はきっちりしないと。…っていうか、すまないね。仕事のことを言っている僕がナユカさんをひきとめてるってことに今気がついた。はやく戻った方がいいんじゃないか?」
そう言って他の客がいた席の方を見る。そこにはすでに人の姿はなく、マグカップだけがぽつんと置かれているだけだった。
それだけであればあまり気にすることはない。しかし、それが先ほどいたはずのお客全員となると話は別だ。確か三組くらいいたはずだ。
「他のお客さんいなくなってるみたいだけど、まさかお金もらってないとか?」
「え?いえいえ。もらってますよ」
「にしても、いつの間に帰ったんだろう。話に集中してて気付かなかった」
「雨降ってきましたからね。みなさんお帰りになったんです」
「雨が降って雨宿りのために長居するんじゃないんだ」
ナユカの物言いに自分の感性とのギャップを感じる沖見。
彼女の言葉を聞いていると自分が見ているものや感じているものが本当に同じものなのか疑問に思ってくる。それは、とても新鮮で新しい。
そんなナユカの次の言葉もある意味では新鮮というものだった。
「じゃあ、コーヒー持ってきますね。あと、今日はもうお客さん来ないので約束の時間までご一緒させてくださいね」
「いやいや、店長さん。勝手にお客さん来ないって決めちゃだめでしょ...」
沖見の突っ込みには笑顔でスルーしつつ、再びナユカが厨房に向かう。
今日初めて会ったとは思えない気安さに沖見自身も影響を受けていることを自覚しつつも、次にナユカとともに現れるコーヒーを心待ちにしていた。
ナユカのように考えることができたら、ふとそんなことを考えた。
彼女のひたむきさと素直さと、努力を惜しまない姿勢は尊敬すべきものだと思う。自分も持っていたはずのその思いは、日々仕事に追われる生活の中で摩耗してしまったものだ。だからこそ、彼女の存在は自分の今のあり方を刺激する。自分のダメなところを浮き上がらせるように。
もうすぐ彼女はここにやってくる。
今の自分に足りないものが、彼女と話していれば何か分かるかもしれない。
そんな期待がふと身体を店内に向け、そして、今まで感じていた違和感の大本と言うべき存在に気づいてしまった。
店の入り口。沖見が入ってきた唯一のドア。そこに付けられた一つの鈴。
その存在を思い出した瞬間に、違和感は疑問になって現れる。
鈴の音も鳴らさず、知らぬ間に増えていた客たち。店で見かける店員が接客に不慣れなナユカ一人だけ。聞こえないお客同士の会話。ナユカが接客していた時を思い返しても、聞こえたのはナユカの声だけだった。考えすぎだろうか?なんでこんなに気になるのかわからない。
だけど、この短い時間の会話で分かったナユカの性格からしたら、いつの間にかお客がいなくなった状況がおかしいのだ。
接客のときに聞こえたナユカの声。会計をしていれば沖見の耳にナユカの声が届いていないわけがない。一つ一つのことを考えていくうちに疑問は募る。
この店は、なんなのだろうか。
『雨降ってきましたからね。みなさんお帰りになったんです』
断定した言葉はよどみなかった。
『今日はもうお客さん来ないので』
断定した言葉には疑いがなかった。
沖見は考えるより先に席を立つ。
ゆっくりと足を進め入口から席まで歩いた道を逆にたどる。
知らず喉を鳴らして行動している自分に気づきおかしくなるが、その手は店のドアノブに伸びていた。
入ってきたときとは逆にドアを引く。
そのドアは、どれだけ力を入れても開かなかった。