004
マグカップがお気に入りのコースターに置かれた。
立ち上る湯気を見て、それが入れたてであることがわかる。
そっと視線から外れる細い腕。それを追って顔だけをその相手に向けた。
「ありがとうございます。三浦さん」
一つ笑みを浮かべ、手に持ったもう一つのマグカップに口をつけるのは、今のプロジェクトの先輩だ。
深夜帯に入ったフロアは、自分と三浦さん以外の人影はいない。フロアの電気もここ一帯を除いて消されている。
このプロジェクトに入ってからはもう珍しくなくなった光景だ。
「すみません。今日もこんな時間まで付き合わせてしまって」
「いいのよ。私が抜けることも原因なんだし」
朝から2時間を超える会議、客先への資料作成、問い合わせを回答し、それでいて降られる仕事の量は日に日に増していく。
しかし、そんなことを三浦さんに伝えてもどうにもならないことも分かっている。
「来月までに引き継ぎ、ですよね」
「うん。伸ばせてもそこまで」
「全国回るんでしたっけ」
「うん。新規開拓ってやつね」
来月から始まる新規事業。すでにほかのメンバーは最初の現場である北海道に入っている。
三浦さんはこの引き継ぎのために、無理をして残っているのだ。
一日遅れればそれだけ、自分の作業が積みあがるのを知っていても、彼女は投げ出さなかった。
「あと5日でなんとかしますから」
月末まではあと10日。しかし、そこに甘えるわけにはいかない。
三浦さんは人の能力に合わせて期限を切る。それができる人だ。
「ふふ、じゃあ頼りにしようかな」
あと三年すれば、今目の前で自分を見守ってくれている、この頼りがいのある先輩と同じ位置に建てるのだろうか。
「今日はここまででおっけーです。確か通勤2時間近くかかるって言ってましたよね」
「そう、じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
マグカップを手に自分の席に戻り始めた三浦さんから意識を目の前の仕事に向けなおす。
キーボードのホームポジションに手を運ぶと、少し離れた位置から三浦さんが声をかける。
「あと、これは私からのアドバイス」
デスクチェアーを足で操り三浦さんのほうへ向き直る。
「慣れてきた時ほど、言葉遣いに気を付けること。相手に好印象を与える行動の中で言葉選びを間違えると、余計に目立つことになるわ」
「はい。肝に銘じます」
彼女が助言をするときは、必要なことで必要な時だと判断した場合だけ、というのは自分の持論だ。
だからこそ、もっと上司の言葉以上に心に刻むようにしている。
そして、この助言ももう聞けなくなると思うと、言い表せぬ思いが沸き上がった。
「よろしい。それじゃあ、お疲れ様」
三浦さんがフロアを出ると、意識を切り替えて残りの仕事をこなしにかかる。
作業できる時間はあと2時間弱。
今日も、家に着くのは深夜になる、と疲れた思考がその事実にいきつき、誰もいないフロアに小さなため息が響いた。
湯気の勢いが弱まったマグカップに手を伸ばす。
つかむ前にモニタに視線を戻し、空いた左手でエンターキーをたたこうとして、その前に右手に固い感触が広がった。
「あっ」
とっさに近くに雑に積まれた印刷物を持ち上げる。
勢いのあまり立ち上がったタイミングで、デスクから零れ落ちたコーヒーが地面に落ちるのを見た。