003
雨が目の前のガラス窓を叩き始めたのは手元のハンバーグが半分ほどになったときだ。
コツ、コツ
音がかすれるほどの弱い雨は徐々に窓を叩く感覚を短くし、程なくして強くなった。決して邪魔をされたわけではないが、手に持っていたナイフとフォークを置く。口の中に残った肉の欠片をしっかり味わいながら、雨の町並みを眺めた。
「あー、この雨止むのは夕方頃ですね」
唐突に背後から声がして、振り返る。そこには料理の載ったお盆を手にしたナユカが立っていた。相変わらず、唐突に現れる子だ。
「わかるの?」
「ですです。いつも降っていますから。雲の色と雨粒の大きさそれとさっき外出たんですけど、空気の感じで。あと、隣失礼座っていいです?休憩なんです」
さも普通のことのようにそう尋ねてくる。
普通の店ではありえない展開に少し戸惑う。しかし、自然体のままの彼女の姿に違和感を覚えている自分の感覚に何か間違いがあるのではないかと錯覚しそうだ。
こういうところは彼女の性分によるものなのかもしれない。
「…どうぞ。それより、ほんとに?いつ止むかわかるの?」
お礼と共にナユカが沖見の隣に腰掛ける。手にした料理からして彼女も食事をするのだろう。置かれた料理は自分と同じ特製ハンバーグランチだった。
「あ、疑っていますね。わかりました。確かめていってください」
少し眉を寄せて見せたナユカが言った。不機嫌さを出そうとしているのだろうが、纏う空気が笑顔の時と全く変わらない。そして、ハンバーグを小分けにして一口含んだ。
「確かめるって…え、止むまでここにいるってこと?」
「ええ、そうです。あと…そうですね、2時間として16時に止んでいなかったら、お料理のお代は私が持ちます。もし、止んだら私のお願い聞いてくださいね」
「お願いって…そんなこと初めて来たお客さんとして、君怒られないの?」
「だいじょぶですよ。私、ここの店長ですから。それにこっちのお客さんと仲良くするのはこのお店のコンセプトですから」
自分のことを「こっちのお客さん」とへんな言い方になっていたことも気になったが、高校生くらいにしか見えない彼女が店長という事実の確認のほうが先に口をついて出た。
「店長?君、ここの店長なの?」
「ですです。といっても代理ですけど」
「いや、代理といっても、、、成人すらしてなさそうだけど...」
もう一つの気になった部分を聞く機会を逸してしまったため、止まっていた食事の手を再び進める。
そして、食べながら彼女の提案を吟味する。今日の予定はない。傘もないからすぐには席を立とうと思っていなかったし、時間的には何も問題はない。とはいえ、初対面のしかも店員…いや店長とそんな賭け事のようなことをしてもよいものか。
「しょうがないですね、この遊びに付き合ってくれるなら、食後のコーヒーもおつけします」
返事がないことを受けるか受けないかで悩んでいると捉えたのか、ナユカがさらに報酬を追加してきた。コーヒーは沖見の大好きな飲み物だ。店ごとに変わる味を楽しむためにカフェ巡りをすることが趣味だと言っても過言ではない。だから、ナユカからその提案が出た時、素直に喜びが表れた。
「まじか」
「まじです」
つい、素の返答をしてしまったが、彼女は言葉遣いを気にすることなくいつも通り返答してくれた。それを見て思う。彼女との会話は心が波立たず穏やかになれると。
「…正直、今日はお客さんが来てくれるとは思っていなかったんですよ」
「え?なんで?」
振り返って確かめると、繁盛とは言えないが入り口に近いカウンターとテーブルには人が入っていた。
「初日なら十分人が入っていると思うけどな」
「そうですね、昔なじみの人が来てくれるんです」
ナユカはうれしそうに語る。沖見の視線を追うように見た先では、淡々と食事をするお客たちが見える。
「昔なじみってことは、ここは以前にも開いていたっていうこと?」
「はい。私のおじいちゃんが始めたお店なんです。一度閉めたんですけど、私がまた開いたんですよね。それで昔開いていたときからの常連さんたちが来てくれたんです」
「へぇ、すごいな」
「いえ、全然すごくないですよ。お店はもともとありました。メニューだってそう。私がしたことと言ったら、ここを掃除して、看板やメニューを用意して、こうしてホールでお仕事をしているくらいです」
「謙遜だね。大変だったってことくらいは僕にもわかるよ。特に一度閉めた店を開いたんだから。今日までにいろんなことあったんじゃない?」
店を開いたことなんてない。だから厳密には彼女の大変さを理解することはできないんだろう。それでも、何かを始めることの大変さ。一度断念したものを再び始めることの難しさ。それはわかる。何かを始めるには、相応の覚悟が必要だ。始めればその瞬間から辞める理由がそこら中からわき上がってくる。脇目もふらずに始めたことに集中しても、ふとした時に壁に当たる。そのたびに自分は思う。自分はいつでも試されているのだと。思い込みだろうか。考えすぎだろうか。そう感じている時点でもしかしたら自分は、自分がやっていることに対して自信が持てていないのかも知れない。
ナユカは穏やかな表情を崩さない。それはとても大人びていて、とてもきれいな顔だった。
「助けられたんです。いろんな人に。大変だったことがなかったことになるくらい、感謝があるんです。こうして新しいお客さんにも出会えましたしね」
最後は年相応のかわいらしい笑顔を浮かべてこちらを見る。自分の言葉に多少の恥ずかしさを覚えているのか、鉄板に残っていた最後のひとかけらを口に含む。それを咀嚼している間に、沖見はメニューを取り出した。
「あの」
飲み物を探していると、ナユカが声をかけてきた。
「なに?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
「名前?沖見だよ」
「沖見さん。沖見なんて言うんですか?」
「陽介。沖見陽介」
「陽介さんですね。私はナユカです。」
「それは知ってる」
彼女の胸に着けられたネームプレートを指さす。それをみて彼女はなるほど、という顔をした。いつの間にか気軽に話すようになっていることに気がついた。そんな自分に対して驚きを覚えながら、彼女が持つ雰囲気に当てられているのだと、すぐに思い至る。
他人への接し方は社会人になってから徐々にそつないものになっていった。自分と相手との距離にはいつも気をつけつつ、言葉遣いを正し、心を許さない。それが自然と身についていたから、隣にいるナユカの距離感は久しく感じていない人のぬくもりを呼んだ。そして、他の人と違うのはその距離感に近づいてなお、嫌悪感を与えないということだ。
「あはは、そうでした。着けているのを忘れてました。それじゃあ、私、陽介さんって呼びます。私のことはナユカと呼んでください」
「…一つ聞いてもいいかな?」
「はい?なんです?」
「君は、ここに来るお客みんなにこんな感じで接しているの?」
「ですです」
「…」
「どうしたんです?」
「何でもないよ。それじゃあコーヒーをもらおうかな。約束の時間まではまだしばらく時間があるから」
そう言うとナユカは元気よく返事をして立ち上がった。自然な動作で陽介のお盆を回収する。
「かしこまりました!すぐ持ってきますね」
ナユカは急ぐように足早にキッチンに消えた。
店内が急に静かになった。そう感じたのは、自分の周りの席に他のお客がいなかったからだ。相変わらず、他の客がいるのは入り口近く、カウンター寄りの席だ。さきほど振り返ったときから少し顔ぶれが変わっているが、来客の人数は変わっていないように見える。自分も周りに客が来ないのは、もしかしたら彼女の気遣いなのかも知れない。
相変わらず雨は止む気配を見せない。あと2時間とで止むかと言われれば、疑わずには言われない。しかし、約束は約束だ。残りの時間をこの店で有意義に過ごそう。
それにしても、と新たに考えを巡らせる。彼女の自分に対する接し方には、多少の危うさを感じた。彼女の他人に対する距離感。それはあまりにも近すぎる。先ほど話していてそれは彼女の長所でもあるとわかっているだけに、直接そのことを指摘するのは気が引けた。
彼女のまとう空気は人を元気にさせる。今日初めてであって言葉も数えるほどしか交わしていないが、今自分の気持ちが上向きになっているのは間違いなく彼女と会話をしたからだ。そういう意味では、彼女にとってここは天職なのかも知れない。人とふれあい、会話をしてそして相手に元気を与えることができる。それができる人間を、少なくとも自分は今日まで知らなかった。
それに、言っては悪いがこれほど人が少なく、静かで居心地の良い店は他に知らなかった。たばこの臭いもしない。大抵のカフェは禁煙と喫煙の席が分かれているとはいえ完全にたばこの臭いを消せるわけではない。しかし、ここはそういった臭いが全くしなかった。ここに来たときから感じていたが、この店はレストランと言うよりはカフェに近い。夜になればバーとしても営業できそうな雰囲気がある。これでコーヒーがおいしければ、間違いなく自分は常連になる。そう確信していた。そういえば、先ほどの料理の感想も言えていなかった。あとで伝えておこう。
肘立てにあごを落ち着かせ雨の町並みを眺める。きっと、もうそろそろコーヒーが届くだろう。それを待ち遠しく思っているのは、コーヒーが好きだからだけど、間違いなく、それを運んで来るだろう彼女の存在も大きく関わっていると思う。恥ずかしくて言葉にすることはないだろう。だけど、この待ち時間を自分は最大限楽しむことにしよう。注文の到着を待つこと。それは、カフェでの楽しみ方の一つなのだから。