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Under the eaves - あめやどり -  作者: よいちか
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いつもおきまりの文句で始まっていたその番組は、気づけば違う番組になっていた。

それに気づいたとき、変わらない毎日の中でも、時間は経っているんだと実感した。

変わっていくことを悲しいとは思わなかったし、「ああ、そっか。変わったのか」くらいのものだ。感慨もなく、そのとき思ったことも、その日のうちには忘れていた。それこそ、忘れてしまったことすら忘れてしまった。

記憶なんてそんなもんだ。大抵のものは簡単に埋もれていく。

きっと、今日もそうやって過ぎていくんだろうと、そんなことを考えていたら、沖見の隣にいる旧友が話しかけてきた。


「おまえ、休みの日ってなにしてんのよ?」


中身のない内容だった。


「んー、なんだろ」


言いながら自販機で缶コーヒーを買う。


「なんだよそれ」


手を払う仕草に場所を譲ると、倉科も何か飲み物を買ったようだ。

買った缶コーヒーが温くならないうちに一口あおる。それを見た倉科は、同じように手にしていた同銘柄のコーヒーに口をつけた。

沖見と倉科の休みが久々に合った今日は、あいにく、いつ崩れてもおかしくない天気だった。暑さが和らいでいるという意味では、ちょうど良いのかもしれない。夏といえる季節もずいぶんと過ぎたはずだが、未だに残る暑さは、何かやり残したことがあるかのように、よくよく顔を出すのだった。


「で?どうしたよ?」

「煮詰まった」

「だと思ったよ」


わかりきっていたとでも言いたげな口調で言う。確かに、特に要件もなく呼び出したわけだが、倉科の様子からは不満感といったようなマイナスなイメージは見受けられない。


「まぁ、いいんだけどよ」


そう、いつもそうやってこいつは俺を許容してくれる。


「さんきゅー」


こういうとき、余計なことを詮索されない間柄というのは貴重だ。本当にそう感じる。

人付き合いが煩わしいわけではない。仕事をする上で人付き合いは必須だし、自分以外の人の話を聞くのは好きだった。

でも、いつだっただろうか。自分という人間が変わってしまったように感じた瞬間があった。

それは境界線がはっきりしているようなものではなく、ひどく曖昧で、気づけばそこを超えていて、戻ろうにも戻り方がわからないのだ。

まるで、いつの間にか子供から大人になってしまった時の感覚に近かった。

本当にいつのまにか、変わってしまうものなのだ。

いつからだろう。人との距離に安堵し、詮索されることに嫌悪感を持つようになったのは。話すことも、聞くこともいつの間にか慣れない行動になっていたんだ。


「また、なにか迷ってんのかよ?」

「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」


自分で言っておきながら、本当によくわからなくなってきた。


「わかんねー」


要領を得ない自分にぼやくように言う。いつの間にか飲み干した缶コーヒーを、自販機から少し離れたゴミ箱に投げる。

運良く、といった方が良いだろう。きれいに収まった空き缶を見届けると、沖見は背中を伸ばしながら空を見る。


「重傷だな」


そんなことを言ってくる倉科に反応することなく、固くなった筋肉をほぐす。

そう言えば、休日に外に出るのはどのくらいぶりだっただろうか。今の時代、やりたいことは家の中だけで十分できる。もちろんその人の趣味、趣向や性格にも寄るのだろうが、少なくとも自分は、そうした環境を作っているし、それを不便に思ったことはない。まぁ、今の煮詰まった状況もその環境が一因なのかも知れないけれど。


「とりあえず、忘れろよ」

「…無理」

「…おっけー、忘れることにしようよ」

「いや、考えちゃうんだって」

「がんばりすぎなんじゃねぇの?」


反射的に倉科の顔を見る。意識しないままに体が動いたことに沖見自身が驚いていた。


「ん、どうしたんよ?」


そんな沖見の様子に気づき、不思議そうに問いかける。しかし、そこまで気にはしていないのだろう。空になったコーヒーの缶を、自販機から少し離れたゴミ箱に捨てに行った。

その少しの間に考える。

たぶん、「がんばる」という言葉に反応したのだ。それは違和感。もっと言ってしまえば、一瞬意味が理解できなかったんだと思う。

沖見はむうっとうなるように腕を組んで、「がんばる」ってどういうことだったんだろうか、と普段思わないようなこと考えていた。

その言葉が自分に当てはまっているようにも思う。平日には夜遅くまで仕事をして、帰るのは日付の変わる少し前。休日は、家にこもりがちになりながら、一つの趣味に時間を使って、迷って、悩んで…これで仕事にできないかなんて考えている。人はそれを「がんばっている」と評するのかもしれない。現に倉科は、そう思っているようだ。

でも、沖見にとっては違った。違うことを今まさに理解した。沖見はここに立つ自分のことを顧みて愕然とする。


「俺、全然がんばってないじゃん」


自分に問いただすとすぐに答えが返ってきた。しかし、沖見はすぐに思い直す。最近、直感で物事を鵜呑みにしてしまうことがあり、それによって失態をした経験が思いつくだけでも三つもあるのだ。だから、だろう。沖見は自分の内面に意識を向け、考えることがよくある。そして、沖見はまた考え込み始める。もはやそれは癖と言ってもよかった。それも、すでに缶コーヒーを捨て戻ってきていた相手のことなどすっかり忘れて。


我に返ったとき、沖見は近くのベンチに腰をかけていた。太陽はまだそれほど高くはなっていなかった。そもそも、二人が会った時間は朝の九時なのだから当然と言えば当然のことなのだが。

ふらっと散歩で立ち寄ったこの公園は、二人で会うときはたびたび訪れる。大きめの区画が丸々使われており、道路側はすべて植栽された木で覆われている。外から見れば森のような印象を与えるだろう。園内は四季を通して楽しめる。春のしだれ桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色。公園と言うよりは庭園といった方がいいだろう。

まだ紅葉したモミジを見るには時期が早すぎるが、首都圏内でこれだけの緑の中を歩ける場所は、きっと限られるだろう。


「戻ったか?」


声に導かれて視線を向けると、あきれ顔で膝を組みながら座る倉科がいた。まだ、焦点の合わない頭が冴えるに従い、相方を放置していた事実を思い出した。と同時に隣から端的な報告が上がる。


「十五分」

「まじか」


普段は長くても数分だったこの思考も、思いの外長くかかっていたことを知り、沖見は申し訳なさを覚えた。


「すまない」

「いいよ。ただ、こっちもすまん。実はおまえがトリップしている間にオフィスから呼び出されたんだよ」


トリップいうな。と思うも今は突っ込まないでおいた。


「そうだったのか、休日まで呼び出しだなんて忙しいのか?」

「まぁ、今やっている案件の山場ってところだよ、大したことない」

「話の前後が絶対的に不一致起こしているから、それ。山場だから大したことなんだろうが…」

「察してくれよ。そう思いでもしないと、プレッシャー半端ないんだって」

「倉科の場合、表情にフィルタかかっていてわかりにくいんだって」

「仕事で培ったものは日常でも出ちゃうってことだよ。っていうか、不一致とかフィルタとか、おまえも大概に仕事の影響受けているよ。素直にポーカーフェイスって言えよ」

「確かに。すでに仕事のやつは、無意識にまで食い込んでいるのか」


ここでもまた「いつの間にか」変化していたことに気づかされる。つい、考え込んでしま好そうなところを倉科に止められた。

だた、倉科はあまり時間がない様子で、たびたび携帯電話を確認していた。そして、何度目かの確認の後、ついに時間がなくなったのかベンチから立ち上がった。


「んじゃ」


倉科が発したのはそれだけだった。それだけ言うと、思い残すことはないと言うような足取りで、あるいは、時間が惜しいと体現する様子で公園から去っていった。

潔いと言えばその通りだろう。それこそ淡泊と言える去り際は、親しい沖見でもたまに何か機嫌を損ねるようなことを言ってしまっただろうかと、逡巡してしまうほどだ。


「がんばれよ」


もう聞こえないことなどわかりきっていたが、それでも声に出した。声に出すことで、何かが変わるんじゃないかと思ってみたが、結局、波立つ心は静まってはくれなかった。


公園の中を一人で歩く。

考えてみるとそれは、初めてのことだと沖見は気づいた。この公園に訪れたときは、いつも倉科と二人で、くだらない話をしてすぐに駅前の方に移動していた。だから、今こうしてゆっくりと園内を見て回るのは、沖見には新鮮に映っていたのだ。

朝はくすぶっていた空も、今では雲の切れ間から日が差し込んでいる。だんだんと気温も上がっているようだ。このままいけばすぐにでもきれいな青空が広がるだろう。

木々の間の細道を歩く。空を見ていたはずの視線は、いつの間にか地面に向いていた。砂利道に始まり、石の敷き詰められた道が続く。一歩一歩地面を踏むたびにする足音が、ここではやけにはっきりと耳に届く。不思議だ。一定の間隔で聞くその音が、とても心を静かにしてくれる。ざわついていたなにかが今は遠くなっていた。

5分ほど歩くと、道が途切れるところまで来る。視線をあげると、目の前には小さいながらもきれいな渓流が流れていた。

波立っていた心は、すっかり目の前の穏やかな渓流のように静まっていた。ここは不思議だ。繰り返し思う。今まで気づいていなかったことがおかしいと思うほどに。

沖見は今の自分の心情の変化に気づいていた。公園と自分との相性の良さと言うよりは、今の沖見の心境とこの公園の雰囲気が丁度マッチしたということだろう。

渓流の中に均一間隔で置かれた石を踏み台にして対岸に渡る。ここまで人とすれ違うことなく歩けたのは、時間帯によるものか、時期的なものか。どちらにしろ、この都内とは思えない環境を独り占めできる。それだけで価値のある時間だと、沖見は思った。

時間を忘れて園内を歩き回っていると、気づけばずいぶんと時間が経っていた。園内の入り口から反時計回りに四分の三ほど歩いたところだろうか。と、おぼろげな園内マップを頭に思い浮かべながら考える。園内入り口に実際に置かれている園内マップを持っていないことを後悔した。でも、逆に考えれば、そういった案内なしに、自由にこの敷地内を歩き回れるということでもある。

それはとても心地良いことだ。

残り少ない道を、今日この公園を訪れたときとは違う気持ちで過ごす。その気持ちをかみしめるながら、沖見は歩いた。


ちくりとした胸の痛みを覚え始めたのは、仕事を始めてすぐのことだった。

学生だった時間が終わり、自分の時間の大部分が仕事に使われるようになった。

人生における大きな分岐点だ。世の中の大多数の人が経験する環境の変化だろう。それに対して、いったいどれだけの人が、沖見と同じような胸の痛みを感じているのだろうか。

学生の頃に抱いていた気持ちは期待と不安。今感じている気持ちは落胆と停滞。今だからこそ、そう思うのだろう。でも、社会人になった当時の沖見はそのことに気づいていなかった。自分がやりたかったこと。自分が目指していたもの。

そのどちらもまだ曖昧で、それでも、ここでならその漠然とした道の先がはっきりとするのではないかと『期待』した。そして、期待の分だけ『不安』を持つ。その二つを抱えながら送る新生活は、大変ながらも楽しいと感じていた。そして、時間が経つにつれ『期待』は薄れ、『不安』は『落胆』の色を濃くしていった。自分の思っていた仕事の内容と違っていたこともある。理不尽な仕事を振られ、その結果こっぴどく怒鳴られたこともある。

それがきっかけとは言えない。仕事ができなかったことは事実で、それをこなすだけの技量が自分になかったことは現実だ。でも、沖見はその理不尽さを受け入れるだけの理由を持っていたのだ。それこそ、どれだけの恥を忍んでも学ぶべきだと決めていた。だからこそ、それを受けきった先に、何もなかったことが、沖見の心に消えない痛みを与え始めた。


「トライアンドエラー。人は誰しもはじめから立てたわけではない。あきらめなければ失敗はない」


歩きながらぼそっとつぶやいた。それは、鼓舞する言葉。人が最初からできるものなんて一つもない。生まれた瞬間に死にものぐるいで息を吸い、声帯を震わせ産声を上げ、必死に目を開け、視界に入るすべてのものを一所懸命に認識しようとする。そうして一つ一つのことを繰り返して、繰り返して、繰り返すことでできるようになっていく。

沖見は自分が沈んだ気持ちになるといつもこの無数の言葉を思い出す。

持ち直した心で再びあがき、あがくたびに心が沈み、その繰り返しはいつしか生活の一部になっていく。螺旋のように回りながら、繰り返しながら上に上にと上がっていく。それが自分の成長なのだと疑わなかった。できないことができるようになる。考えが及ばなかったところに手が届くようになる。その一つ一つの変化が自分にとっての生き甲斐といっても間違いではなかった。でも、その成長がいつまでも続くとは限らない。螺旋の階段はいつしか同じ高さをぐるぐると回るただの円となり、沖見の成長は『停滞』するようになっていった。


公園の出入り口の近くまで来ると、入れ替わりに入ってくる入園者が多く見られた。家族連れやカップルが大多数だったが、中には外人の姿もあり、一人で来ている入園者よりも多く感じるほどだ。多くの人の流れに逆らって外へ出る。日差しはすでに訪れた時にはなかった熱を持って沖見を迎えた。


「腹、減ったな」


公道に出て初めに思ったのはそんな欲求だった。足を止めることなく駅前の方向に向ける。

駅前にはいくつか行きつけの店があった。がっつり食べたいときのハンバーグ店。ゆっくり時間をつぶしたいときの喫茶店。一定期間ごとに食べたくなるあのラーメン屋。

どの店に寄ろうかと、考えを巡らせながら歩く。いつもは倉科と二人で歩く道を一人で歩く。一人で歩くことでいつもとの違いに気づくこともあった。一つは歩幅。二人で歩くときよりも小さい歩幅だった。ということは、いつもは保科の歩調に合わせていたのか。早いという意識はなかったけれど、こうして一人で歩いているペースを考えるとそれは新たな一面と言えた。もう一つは音。ただ単によく聞こえるのだ。風の音。車の音。通行人の会話。公園の中で聞こえた自分の足音は、雑踏の中に消えて聞くことができないけれど、それに変わる町に溢れる音の波が、一斉に自分の耳に流れ込んでくる感覚がする。これも、保科と一緒だったときにはなかった。

一人の方が、耳に届く音の大きさが比べるまでもなく大きく、そして多いのだ。多少の雑音であれば気にもならないが、今歩いているここは大通り、人通りも車通りも多い。

五分もしないうちに辟易してしまった。自分がこれほど雑踏に不慣れなのは予想はしていたものの、若干情けなさに気を落とした。

丁度そのとき、脇道のある交差点にさしかかり、これ幸いにとそちらに逸れることにした。大通りから逸れると一転して音が消えた。

『このくらいが落ち着くなぁ』と静かになった周辺に感謝をする。

とはいえ、道を逸れたことで駅までの道は遠くなった。そう思った瞬間、急に空腹感を自覚してしまった。思えば、今日はまだ食事をとっていない。時刻は十一時を過ぎたところだ。まだ時間的には早いとは言え、この時間であれば付近でも開いている店があるかもしれないな。

そして、意外とあっさりそれは見つかった。探そうとして歩いていると意外と見つかるものである。脇道に逸れてから数分。なければそれまでと思いながら駅方向へ歩き、二つ目の信号のない交差点にさしかかったときに真新しい立て看板が目に入った。「リニューアル」と書かれた文字から最近開いた店だとわかる。しかし、肝心の店の名前が書かれていない。「リニューアル」の他には開店時間だけが書かれていた。

立て看板から続く建物の二階への階段。それを見てこの店が二階にあることを知る。一歩、二歩と看板から遠ざかり建物の全体像を見たところ、ビルの作りは交差点の角に合わせた作りとは違っていた。

交差点の角に向けて建物の面を当てる形になっており、その面は一階から三階まですべてガラスで覆われている。この作りであれば、あの窓ガラスからは交差点とその先が一望できるだろう。

一階はテナント募集中となっていた。二階は、ここからでは室内の天井しか見えないが、少なくともテナント募集中ではない。窓際に人影がないところを見ると、客の入りは少ないのかもしれない。それは好ましい。今の気分はがっつり食べてゆっくり過ごす、だ。

端から見て、店名も書いていない、しかも階段を上った先のお店、さらに言えば大通りから脇道に逸れたこの店が混雑する様子を想像できない。そもそも何の料理の店かすら想像がつかない沖見である。

そこまで考えてから、沖見は迷うことなく階段に足をかけた。彼が今気にしていることは一つだけだ。


「あー、腹減った」

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