虚無の人生の終焉
「憎めばよかったのだ」
グラ公爵は棺を睨んで呻いた。
「私を。世界を。何もかも憎んで、世界中を敵に回しても、おまえが生き延びてさえくれたら――」
その呻き声が震えていて、私ははじめて気づいた。
歪だけれど、それでも、この人はちゃんとマリーを愛していたのだと。
マリーはそれを知らないまま、父親に憎まれ疎まれているのだと思いこんだまま逝ってしまった……。
言葉にできない悲しみがひたひたと胸を満たして、慰めに震える肩に手をおく。
「マリーは人を憎んで生き延びるより、短くても人を愛し愛されることを望んだんです」
「こんなバカバカしい葬儀を、マルティナが望んだというのか!!」
私の手を振り払い睨みつけてくる目は血走っていて、声は老人のように枯れていた。
これまでも公爵とはことあるごとに衝突してきたが、一睨みされると蛙のように本能的に竦みそうになるほどの威厳が、今の血走った目には、なかった。
内側ががらんとした人形みたいに憔悴しきった公爵は、ひとまわりかふたまわり小さくなったようにすら見え、言い得ぬ憐れみが湧いてくる。
「……少なくとも、誰にも愛されずに生きるよりは」
「若造が! 知ったような口を――……っ!!」
公爵は掴みかかろうとしたが、私の腕の中にディーネがいることに気づいて気勢を殺がれ、そのままへたりと座り込んだ。
「……この子も、自分の命をおぞましいと憎みながら生きればいいとお考えですか?」
近くに膝をついて静かに問うと、がっと肩を鷲掴みにして引き寄せられ、周りに聞こえないよう耳元に囁かれる。
「お前は……っ、マルティナを、あの魔女の贄にくれてやって、満足か!? その子を、あの忌々しい魔女の贄にくれてやるために育てるのか!!」
――魔女。
その単語を聞いた瞬間、心臓が凍った。
「許さんぞ……マルティナはお前のせいで死んだ! お前が殺したんだ!!」
常人ならざる力で揺さぶられ、凍った心臓を万力でキリキリと締め上げられ、砕けてしまいそうだった。
「旦那様! 旦那様、どうかおやめください……!!」
執事やメイド達が慌てて喚く公爵と動けない私を引き離した。
私を、自分自身を、世界中を憎む呪詛を吐き続ける公爵は執事達に宥められながら屋敷に連れて行かれたが、彼の言葉は忌まわしい呪詛のように心に絡みついて、いつまでたっても剥がれなかった。
* * *
マリーの誕生日の翌日のことだった。
グラ公爵から婚約を破棄するという一方的な通達が届いた。
憤りを抑えきれず屋敷に押し掛けると、門兵すらいなくて屋敷のほうからメイド達の悲鳴や喧騒が聞こえてきた。
騒ぎの起こっている方へと駆けつけると、マリーが二階の一室――後から聞いた話では公爵の執務室――のテラスを乗り越え、その欄干の外側にいた。
「マルティナ! バカな真似はよせ!!」
下からでは見えないが、部屋の奥から公爵の怒号が飛んできた。
「今度ばかりは、お父様の言いつけでも絶対に譲りません。今すぐ撤回の使者を送ってくださらないならここから飛び降ります。今、私に死なれるのは困るのでしょう?」
マリーはいつもの数倍強い目で部屋の奥を睨みつけ、意味不明の脅しをつきつける。その姿には強い決意が秘められていて、一切の迷いがなかった。
「マリー! バカ――」
人垣を押し分けながら公爵とまったく同じ台詞を吐きかけた私の声に反応してマリーが振り返ろうとした、その時だった。
一陣の強風が吹いた。
マリーは慌てて欄干に縋ったが、風を孕んだドレスに引きずられて足が滑り――落ちた。
「きゃぁあぁぁっ……! お嬢様ぁぁ!!」
間に合うかどうかなんて考える暇もなく、メイドや執事や衛兵達の大小様々な悲鳴が渦巻く中をただ無心に駆け抜けた。
ただもうひらすらに駆け、ゆっくりと落ちてくるマリーに手を伸ばした。
手を。
伸ばす。
――が。
(――だめだ……!!)
あと一歩、間に合わないと思った。
思ったけれども、せめてもの悪足掻きに腕が抜けそうなほどに手を伸ばし、飛び込もうと踏み切った。
その瞬間――強風に押され、体がふわりと浮いたような感覚がした。
ず……っ、しゃぁぁっ……!
「ぃ……っ…………!」
耳元で喧しいほど盛大な葉擦れの音と、背中や肩や足に焼けるような痛みが走った。
次いでさらりと頬を撫でる髪の感触がして、ふいに身体が軽くなった。
いや、一緒にもつれ転んでいたマリーが身を起こしたのだ。
……どうやら、落ちてきたマリーを抱えて植え込みに飛び込むことに成功したらしい。
見る限り、奇跡的にマリーはかすり傷だけのようだった。
「ロラン、ロラン! 大丈夫? 怪我は……!?」
泣き出しそうな顔をしたマリーが身体のあちこちを触るので、肩に枝が刺さっている痛みを認識せずにはいられなくて顔を顰める。
「……とりあえず、命だけはね」
強がるものの痛くて動けそうになくて、もう少し颯爽と助けたかったなぁと忸怩たる思いに駆られる。
「………こ、わ……かっ…た……」
一通り確認して命にかかわるような怪我がないことを確認してから、マリーはそっと息をついた。
「…………怖かっ…た……っ……」
ぽろぽろとこぼれる涙を拭いもせずに、マリーは私の手を力一杯握りしめた。
「当然だろう。二階から降ってくるなんて病弱が聞いて呆れ――」
「違うわ」
精一杯の軽口をマリーは強い口調で遮り、涙が溜まったままなのに挑むような強い目で私を見据えた。
「私はあなたに二度と会えなくなるのが何より怖かったのよ」
一瞬、惚けた。
続いて突き上げてきた強い衝動に弾かれたように、彼女を掴み寄せて唇を重ねていた。
痛みなんか、どこかへ吹き飛んでいた。
頭の中でだめだと激しい警鐘が鳴っていた。
けれど、留まることができなかった。
噛みつくように何度も何度も激しくキスを求めた。
マリーが拒否すれば思い留まることもできただろうが、一瞬驚き怯んだだけで、おとなしくされるままになっている。
人前だとわかっているのに、それでもなお、両腕で頭を引き寄せて乱暴な口づけを強いた。
「マリー……マリー……っ!」
凶暴なほど暴れ狂う愛しさが胸の奥から溢れて止まらなかった。
「……は…ぁっ、ロラン……?」
わずかな間隙を縫ってマリーに呼ばれた途端我に返り、さぁっと音を立てて血の気が引いた。
「………だめだ………」
無理矢理に剥ぎ取った唇を、代わりに彼女の肩に強く押しつけて、自分に言い聞かせた。
「私は、いつか君を殺すかもしれない――……」
どれだけそれを言い聞かせても、この腕を放せと自分に命令しても、動かなかった。
怖かった。
マリーを手放すことも、マリーを殺すことも、怖くてたまらなかった。
幸せにしてあげたいと思った。
マリーは、世界中の誰より幸せになるべきだと思った。
マリーがそばにいてほしいと願ってくれた。
それがマリーにとって幸せならば、触れられずともかまわないからそばにいようと思ったのに。
激情に流されて、こんな――。
「……長く生きていれば幸せなの? それがただ息をしているだけでも?」
マリーはぽつりと、辛辣に言い放った。
そして私の髪をそっと撫でて微笑むと、断固として宣言した。
「私は短くてもあなたのそばで生き、あなたに愛された証をこの世に残して死ぬわ」