抵抗7
「いいわねぇ……そういう表情、大好きよ」
カシャンと金属音がして、我に返る。
剣はいつの間にか床に転がっている。
魔女はしゃなりと科をつくって、ひんやりと冷たい指先を私の頬につつぅっと滑らせる。
「少しくらい幸せな時間があった方が、苦しみも絶望も味わい深くていいわねぇ」
マリーの指で触れられ、マリーの声で好きと言われているのに、反吐が出そうだった。
「あなたたちもとっても楽しかったし、もう少し楽しませてくれそうだけど――」
魔女の視線が、ちらりと産湯に浸けられたままのディーネに向けられた。
「そろそろ、次の用意をしなくっちゃね」
全身の毛穴から怒気が吹き出して鳥肌が立った。
「………や………め…ろ…………っ!」
再び、空気に縫い止められたように体が動かない。喉がジンジンとした痛みに痺れて、うまく声が出ない。
声も、指一本たりとも、自由が利かず、絶望と敗北感を噛みしめる。
ほほえみを浮かべた魔女がするりと身を翻し、産湯に浸かっているディーネに足を向けた。
このうえ、ディーネまで奪われるのかという恐怖に、痺れる喉を振り絞った。
「やめろ! おまえの望みはなんだ……!?」
このまま、なにもできないまま、なにも言えないままディーネまで奪われるくらいなら喉が裂けたほうがマシだと必死に叫ぶ。
「………望み?」
魔女の歩調が緩やかになり、ゆったりと止まった。
けれど、振り返らなかった。
「ギルベインが、約束を破ったんだろう? ギルベインはお前と何を約束し、何を差し出さなかった?」
じわりと沈黙が広がった。
沈黙が漂い、そして、細い息をもらすのが聞こえた。
「差し出さなかった、ですって? そんな生易しいものじゃないわ。忌々しいあの男はこの私から、すべてを奪ったのよ……!!」
その背中に、静かな怒りの炎が揺らめいているような気がした。
あと一歩先で産湯に浸かっているディーネが火がついたよう激しく泣き、むせかえっている。
「ああ、何度思い出しても忌々しい! 魂は不滅なのに肉体は朽ちる。私からすべてを奪い、こんな不便を強いたあの男、何度殺しても一向に気が晴れる気がしないわ!!」
すべてを奪った?
不便を強いた?
ギルベインが?
いくつもの疑問が浮かんでくるうちに、魔女は細く長い吐息を吐き出して、迸っていた怒りを胸の内にしまっていった。
「ふふふふ、我ながら一石二鳥の名案よね? 私は若くて美しい魂の器を手に入れられて、そして、あの男の血を引く者とそれに関わる者達が未来永劫苦しみ続ける」
うっとりと空想に想いを馳せていた魔女が、私に向かって笑みを投げた。
「だからね、代替なんかないの。残念だったわね」
先んじられ、言葉に詰まった。
それを満足そうに一瞥すると、魔女は火がついたように泣くディーネの脇に座り込み、そっと撫でた。
「さぁ、あなたの高祖父の犯した咎の贖罪として盟約を結びなさい」
ぽうっと蛍のような小さな青い燐光が5つ、魔女の指先から生まれ、ふわりふわりと蛍のように空気中を舞う。
「あなたは20才までに子供を産み、その瞬間を天命と定め、魂を失った肉体はこの私に捧げること」
魔女の周りを飛び回っていた燐光が、ディーネの額に留まった。
「違約の際には、大事なものを失っていくことを定める」
厳かな盟約の言葉が空気に染み渡っていくのと同時に、燐光がひとつずつ雪のように溶けて消えていく。
「それから――附則として、この盟約は当事者以外には決して話さないことも」
最後の燐光が消え、その余韻が消えると、急激なめまいに襲われてその場に倒れ込んでしまう。途絶えそうな意識を必死につなぎ止め、必死に魔女を――視線だけだが――追いかける。
視界に入ったのは、マリーの手だった。
ずっと、この子を抱いてあげたいと、どんな顔をしているのか一目見たいと、願い続けていたマリーの手が、ふんわりとディーネの額を撫でていた。
それほど、その手つきは母親の慈しみに溢れていた。
(………マ…リー…………?)
淡い期待を気力に変えて、ゆるゆると顔を上げた。
「大きくなったあなたがどんな悲壮な恋で私を楽しませてくれるのか、楽しみにしておくからね」
なのに、向けている表情はぞっとするほど残虐な狂喜を押し殺していた。
声が出たなら、気が狂わんばかりに叫んでいたかもしれない。
けれど声は凍り付いたように出なかった。
魔女はゆっくりと立ち上がり、そんな私に向かい、にたりと口角を上げた。
「……さぁ、これで、これは私の魂を入れる次の器。先代みたいに虐めたりしないで大切に育ててちょうだいね?」
魔女の言葉が終わる前にその姿は産湯の蒸気に紛れるように消え、嘲笑の残響が後を追って消えていった。
残響が完全に消えた後――凍り付いていた時間が溶け出すようにゆるゆると、産婆や医者やメイドなどが動き始めた。
産声というには激しすぎる泣き方をしているディーネ。
通常なら産後の疲労で動けないはずなのに、どこにも姿のないマリー。代わりに――記録上はおよそ17年前に埋葬されたはずの――公爵婦人アンネの、いまだに体温が残った遺体。
ぼんやりと動き出す人々の意識がそれらを認識した頃、発狂を疑われるような絶叫が響いた。
体の中が全部空っぽになって動けなくなるまで、私は絶叫し続けた。
耳に残る魔女の哄笑をかき消したかった。
マリーの声だけれどもマリーではない笑い声が、悪夢のようにいつまで経っても耳の奥から剥がれない。
それは張り付いて離れないだけなのか、幻聴か、それとも魔女が笑い続けているのか、わからなくて――。




