眼鏡眼鏡……的な。
眼鏡の日だったらしいので。
久々に東根鏡花を我が家に迎え入れて二時間ほど経った頃、突然鏡花が「あっ!」と大きな声を上げたので、私は思わず視線を彼女の方に向け、折しもテレビゲームの真っ最中、彼女の操作する緑のトカゲの操縦する車から投げつけられた赤い亀の甲羅が私の操作する赤い帽子の髭男の車に激突、そのままの勢いでお化け屋敷の穴ぼこだらけの板張り床の奈落の底に落下してしまった。
「ちょ、ちょっとストップ!」
鏡花はそう云って、コントローラーのスタートボタンを押してポーズを掛け、画面の中の上半分では赤い髭男が雲に乗った亀みたいな変な生き物に釣り上げられているところで動きがピッタリ止まってしまった。
「もー、なに?」
不機嫌気味に私は彼女に何事かを尋ねた。別に目を離さなくたって亀の甲羅は私にぶつかっていたのだろうから、それに関して彼女に当たるのはお門違いなのだけれど、大声を出してゲーム外から妨害行為をするのは頂けない。
「……眼鏡なくしたっぽい」
「はぁ? ……あ、あー」
いつものアレだ、と私は思った。
普段は全然そんなことは無いのだけれど、彼女はたまに驚く程どんくさい。彼女がこうして「眼鏡を無くした」と騒ぎ出すのも、大体月に一度くらいある発作のようなものだ。こうなるといつも鏡花は私の部屋にも関わらずそこらじゅうのクッションとか机の上とか本棚とか引出とかを勝手にひっくり返して「あれー? あれー?」と哀しげに首を傾げるのだが、今日も全く同様の事をやり始めそうになるのに先んじて、私は「まず、」と彼女の行動を制した。慣れたものだ。
「今日一日の行動を振り返ってみなさい」
「え? え、えーっと」
彼女はどうしてそんなところにあると思ったのか、私のベッドのシーツを引っぺがして、何のつもりか頭から被ってもごもご蠢いていたのだが、私の言葉でいくらか落ち着きを取り戻したらしく、一つ一つ記憶をたどり始めた。
「……あの、今日はまどかと会う予定があったから、朝が確か……七時くらいに起きたと思う……で、知ってると思うけど、私ホントに眼鏡がないとなんにも見えないから、起きてすぐ取れるように枕元に眼鏡を置いてるのね? そこで眼鏡を忘れることは無いと思うから、その時点では眼鏡は掛けてた……と思う。
それで……えと、あ、朝ご飯を作る時、ベーコンエッグを作ったのね? そしたらちょっと油が撥ねて眼鏡が汚れちゃったから一回外したんだっけ。……でもその時はすぐに掛け直した……よね? うん、たぶん大丈夫。
それからそれから……そうだ! パジャマから着替える時また一回眼鏡を外したよ! えへへ、実はこないだ新しいパジャマにしたんだよー。最近寒くなってきたから、ふわふわのかわいいやつ買ったんだー、今度見せたげるね。……あ、うん、えとね、でも着替えた後に鏡を見た時もちゃんと掛けてたからそれも違うね……。
そのあと……うぅん、そもそも眼鏡を取る機会なんてあったっけ……。自転車に乗って駅まで行くでしょ? 私、眼鏡なしじゃ怖くて自転車なんて乗れないし……。で、駅でまどかと合流して、それから電車に乗って街まで出て、洋服とか見たりしてしてから喫茶店でご飯食べて映画を見た……ってそっか! 映画見るとき3D眼鏡掛けたよね! 怖いやつ! あのときかも! じゃ、早速映画館に連絡を……」
「待って」
彼女が電話帳を開こうとするのにすかさず私は言葉をはさんだ。彼女はぽかんとこちらを見ている。
「なに?」
「鏡花の掛けた3D眼鏡って度入りなの?」
「え? ……あ、そっか、私、眼鏡無いと映画なんて見れないから眼鏡の上から3D眼鏡掛けたんだった……。まどかに『眼鏡オン眼鏡』って馬鹿にされたんだっけ……。……ん? あれ、でもそうだよ、私、途中から怖くなって3D眼鏡取っちゃったんだ。あ、そういえばその時普通の眼鏡も外したんだっけ」
「え、それなんにも見えてなくない?」
「うん、だってすごい怖かったし……」
「……そう」
ただでさえぼやぼやの視界でぼやぼやの3D画面を見てたのかこの子は……。
「でもでもそのあと3D眼鏡はちゃんと掛けたんだよ? やっぱりほら、ちゃんと3Dで見とかないとお金もったいないし」
「本末転倒だなぁ」
「う、うるさいなぁ……。でもそのあとはちゃんと眼鏡は掛けた筈なんだよね……何度も云うけど、私眼鏡が無いとまともに生活できないくらい目が悪いから……。
それから、ファミレスでちょっと早めの夕食を食べたでしょ? ……それから電車で帰ってきてまどかのとこに来て……あ、あれぇ!? や、やっぱりこの部屋にあるんだよ! 探さなきゃ!」
「もうちょっとだけ待ちなさい!」
「え? で、でもでも」
「確実にこの部屋にある事まで判明したんだから焦る事無いでしょ」
というか、ここまでやって部屋を荒らされてはたまらない。
「もうちょっとだけ先を思い出してみなさい」
「うん。えと……確かこの部屋に来て最初に、ちょっとお手洗いを借りたよね? ……で、そういえば手を洗った時に水がちょっと撥ねて……だからまた一回眼鏡を外して拭いたんだっけ……あ、じゃあお手洗いだ!」
完全に思い出した! という様子で彼女はどたばたとトイレの方に駆け出して行った。そしてその直後、
「ないーっ!」
悲痛な叫びがこちらの部屋まで届き、多分据え付けの戸棚なんかを片っ端から開いている音や、あまつさえタンクの蓋を開いているらしい陶器の重たそうな音だとか、あと何故かトイレットペーパーをガラガラ引く音とか水を流す音までもが聴こえてきた。
「……無かった」
肩を落としてトボトボ帰ってくる鏡花の眼にはしっかりと眼鏡が乗っかっているのだけれど、彼女は未だにそれに気付く様子はない。
「じゃ、続けようか」
「うん……」
「私たちはあれからTVゲームを始めました。ストⅡやったりマリカ―やったりしたけど――ここで一つ質問」
「え、何?」
虚を突かれて呆けたような表情をする彼女。
「鏡花って眼鏡なしでTVゲーム出来たっけ?」
「え? そんなの無理に決まって……って、あれ?」
驚くほどのどんくささを誇る彼女も、ようやくここに至って答えを導き出したようで、自分の顔に手をあてて、眼鏡の存在をようやく確認した。
「……自分で自分にびっくりするね」
「まったくだよ」
「っていうか最初っから教えてくれればよかったのに」
多少不機嫌な響きがそこにはあった。
「いや、いつ思い出すかなーって」
「ひどい……」
「ま、見つかってよかったよかった」
「うん、まぁね……。あれ、そう? そうなの? これ、そういうこと?」
「そうだよ」
「でも最初っから」
「でも見つかったじゃん」
「ん、んん? なんか、これ、結局遊ばれただけ?」
「そうだよ」
そうだよ。
「あとさ」
最後に一つだけ。
「その眼鏡の下、3D眼鏡も掛けっぱなし」
「ウソっ!?」
ホント。