姉貴の失踪 4
翌朝になっても姉貴は帰ってこなかった。夜中に何度か起き上がって玄関から出てみたが、しんと静まり返った寒気の中、隣家の黄色いテープだけが毒々しく目に映った。
「そういえば、インターホン鳴らねえな……」
今さら、どうでもいいことが思い出された。幽霊でも間部アリサでも、……間部ミナミだったとしても、『結果』が出た以上、もう訪問する必要はないんだろう。
姉貴の上着も財布も家の中に残されていた。どうやって、2晩も寒さと飢えを凌いだんだろう。電話の1本でいいから連絡ぐらいよこせないんだろうか……。
出社前にお袋に電話して、朝の支度ぐらい自分で何とかしろと言った。お袋は、前日よりは元気な声で、
「あんたの会社の人が世話していってくれたから、こっちは大丈夫よ」
と答えた。安堵して車に乗る。
会社に着いて、先輩にまず礼を言うと、
「とりあえず本社に1人応援を頼んでおいた。お前もプライベートを優先していいぞ」
と処置してもらった。また礼を重ねる。
昼休みにカイさんの会社に電話した。携帯にかけても無視されるからだ。嫌々という態度を隠しもしない義兄に、姉貴の失踪時の話を確認すると、声を潜めてこんな説明をされた。
「一昨日は、俺、休みだったんだ。夕方の5時過ぎ頃、サチが、隣の家で物が割れたような音がした、って騒ぎ出して。サチはすぐに玄関から出て行ったんだけど、俺はまたかと思って放っておいた。なかなか帰ってこないんで、おかしいと思って出て行ったときには、隣があんなふうになってて、サチはいなくなってた」
「え?1度も戻ってくることなく、姉貴は消えたの?」
カイさんに聞きたかったのはそこだった。いくら否定的な夫がいるからって、小学生の女児を連れて、自宅にも帰らず突発的に逃走するなんて、普通には考えられない。
……昨日の妄想が再燃する。間部ミナミの狂気に歪んだ姿が、姉貴に襲いかかってくる。
「そっか……。わかった。教えてくれてサンキュ」
カイさんには、当然ながら、そんな話はしなかった。儀礼的に返事をすると、彼から意外な言葉が返ってきた。
「サチを行方不明にしちゃってごめんな」
びっくりして反射的にフォローする。
「それはカイさんのせいじゃない。いなくなったのは姉貴の責任だ」
だけど、カイさんの言いたかったのは、そういうことじゃないらしい。小声のまま、彼は続けた。
「サチは、俺から逃げてるんだと思う」
「え? どういうこと?」
思わず声を大きくする。すると、義兄は、少し吹っ切れたような歯切れの口調で告白した。
「俺、サチにはずいぶんと自分の考えを押し付けてた。……涼二くん、君は内心では俺のことを疎ましく思ってただろう。わかってたんだ。サチとの結婚が決まった後も、君は俺に友好的ではなかったからね。俺、結婚してからも、ずっと、君たち家族に負い目を感じてた。サチだけでも俺の味方につけようと必死になりすぎてたんだな。それがサチにとっては苦痛だったのかもしれない」
カイさんの話は、俺にとって心当たりがあるような、ないような、という感じだったが、新しい家族として必死で馴染もうとしていた彼をないがしろにしてしまっていたのかと認識すると、罪悪感は沸いた。
「そうか……。カイさんには謝らないといけないな……」
呟くと、義兄から、
「謝るなよ。本当に俺のこと鬱陶しく思ってたのか?」
と笑い声が返ってきた。
「いや、そんなことは……」
慌てて否定してから、
「……でも、姉を取られた弟の発想なんて、友好的にはならないぜ」
と正直に伝えた。カイさんは、ちょっと間を置いてから、また笑った。
夕方になって、彩ちゃんにお袋のことを頼むべきか迷っていると、
「お姉さんのマンションに行ってあげてください。お母さんのほうは任せて」
と彼女から言い出してくれた。頭を下げると、
「あ。その後でセンパイのとこにも寄っていいですか?」
と聞かれた。昨夜の二の舞になりそうな気分だった俺は、
「来るなら、それなりに覚悟してきて」
と言ったが、
「何を?」
彩ちゃんには通じなかったようだ。
無用に危機感を募らせる隣家のがんじがらめのドアをやり過ごし、姉貴の部屋の玄関に腰を下ろす。帰ってきた気配はない。今晩も、またあの不安な夜を過ごすのか……。
「なあ。姉貴が何したんだよ」
誰にぶつけていいのかわからない苛立ちを、外出用の靴が並んだ狭い土間に投げつける。
「いい加減、返せよ。連れて行くなら、他にもふさわしい奴がいるだろ」
間部アリサがいなくなればよかったのに。考えちゃいけない発想が浮かぶ。なあ、ミナミ、なんで自分の母親じゃなくて姉貴を連れていくんだ?
本格的な夜になって、彩ちゃんが訪れた。
「センパイ、顔色が悪いですよ。待っててね。今、食事を作るから」
昨日と同じようにエプロンを付けて台所に立つ彼女を、今度は見ないように、俺は居間に引っ込んだ。
「俺のことはいいって。本当に大丈夫だから」
本当はかなりの気だるさを感じていたが、意地で元気な声を出した。
「それより、毎日こんな遅くまで付き合わせてるほうが気がひけるよ」
と言うと、彩ちゃんは、
「責任取って、もらってください」
と笑った。
足が勝手に立ち上がって、彩ちゃんのほうに向かう。
病院で、彼女は俺のことを『好き』と言ってくれた。今も思わせぶりな言葉を吐く。でも……なんていうか、空気が軽い。本気じゃない気がしてしょうがない。
「……もらってもいいんだ?」
彩ちゃんの隣に立って、そう探ると、困ったような表情で見上げてきた。
「……冗談だよ」
やっぱりな……。落胆して、俺は居間に戻った。すぐに、彩ちゃんの包丁を捌く音が聞こえてくる。
「センパイのバカ」
少し怒っているようだった。
事件から3日が経った。まだ姉貴は帰ってこない。
今日は栄生さんから電話があった。自宅にかけたらしいが、お袋が対応しきれなかったので、俺の携帯番号を聞き出した、とのこと。
「間部ミナミの捜索を公開に切り替えることにします」
今までは、姉貴が絡んでいる事情を鑑みて、非公開としてもらっていた。それが公にされるという意味を、俺が把握できずにいると、
「マスコミにお姉さんの名前が流れるかもしれません。ご承知ください」
と言われた。
夕方、戻った姉貴のマンションで、さっそくミナミのニュースを見た。事件当時の服装と年齢背格好は報道されていたが、アリサの傷害事件については触れていなかった。ホッとして、睡魔に身を委ねる。
インターホンが鳴った。夢の中だ。
玄関を開けると彩ちゃんが立っていた。白いシャツが返り血で真っ赤に染まっている。右手には子どもの頭部がぶら下がっていた。ニュースで見た間部ミナミの顔だった。
「センパイ、この子が憎かったんでしょう?」
彩ちゃんは喜色満面でそれを差し出した。
叫ぼうとして。
目を覚ました。
……違う。そんなことをしたいんじゃない。ミナミに対して、俺は殺意なんか持ってない……。
4日目の夕方に芳賀さんの孫娘が訪ねてきた。そういえば、あれから管理人に何も言われていない。
「その節はお世話になりました」
と礼を言うと、
「いいえ。……わたしたちはサチさんの味方よ」
と強調された。昼のゴシップ系ニュースで、姉貴は誘拐犯と同義に報道されていた。
1週間が過ぎても姉貴の行方は知れなかった。月が変わって寒さが厳しくなった。
3週間が過ぎた頃、お袋が言った。
「幸子はもう駄目かもね……」
俺は怒鳴りつけた。
「何にもしてやってないくせに、そういうことだけ言うなよっ!」
お袋は泣きながら言った。
「きっとお父さんのバチが当たったのよ」
親父の罪を姉貴がかぶらなきゃならない道理はないだろう。腹を立てて自宅から去ろうとすると、お袋はボソリと呟く。
「あんたはいいわね。何も知らないんだから」
「……知らないって、何を……」
以前、姉貴にも同じ事を言われた気がする。『リョウちゃんはよく知らないから肩が持てるのよ』。
ある程度、泣いて、落ち着いたお袋が話し出した。飲酒運転で事故を起こして3人もの人間を殺した親父。俺は、親父もその事故で死んだと聞かされてきた。けれど。
「お父さんは軽症だったの。病院に運ばれて診察を受けた後に、わたしと幸子が面会したんだけど、わたしたちは……」
お父さんを、責めて責めて死ねと詰った、とお袋は零した。
「お父さん、その病室のドアノブにベルトを巻いてね」
看護師が気づいたときには、すでに絶命していたらしい。
「わたしと幸子がお父さんを殺したようなものだった。幸子はすぐに平気になったけど、わたしは、ずっと、忘れられなかった。だから、お父さん、薄情な幸子にバツを与えたんだと思う」
俺は黙ってお袋から離れた。口を開くと、同じ呪詛をお袋に浴びせてしまいそうだったから。お前なんか死ね、と。
1ヶ月が過ぎた。仕事には出ていたが、自分が何をやっているのかわからなくなっていた。
先輩が言った。
「顔色が最悪だ。もう帰れ」
「……すいません」
詫びて鞄を抱えると、背中に、先輩の呟きが突き刺さった。
「彩っぴ……今日、見合いなんだ」
俺は、欠勤している彩ちゃんの机を見て、それから頭を下げて退社した。今日が、この事務所の見納めのような気がした。