姉貴の失踪 3
彩ちゃんを帰すために、一旦、会社に戻ることにした。カイさんにお袋を預けたかったが、すでに病院内に姿がなかった。仕方なく後部座席に乗るように指示して、助手席を彩ちゃんに勧める。すると彩ちゃんは、
「お母さんのそばにいます」
と、生命力の流れ出たような体たらくを見せるお袋の隣に座った。
「ありがとう……」
お袋の手を握ってくれる彩ちゃんに、俺は感謝以上の感動を覚えて涙腺が緩んだ。慌てて運転席に乗り込む。弱った年寄りは、身内の俺の目から見ても醜怪だ。その体に抵抗もなく触れてくれる彩ちゃんは、優しいというより強い人間に見える。
会社に着くと、先輩はもう帰っていた。当たり前だな。時間は午後10時を回っている。彩ちゃんが自分の車に乗り込んで発進するのを見届けた後、先輩の携帯に電話した。
「おっ、帰ってきたか。お姉さんには会えたか?」
わざとらしく闊達な大声で対応してくれる先輩に、事の次第を話すと、急に声を潜めて、
「妙な話だなあ」
と言った。
「お姉さんが、その……ミナミとかいう子どもと母親の修羅場に出食わしたんなら、慌てて子どもを保護しようとしたって、普通は家の中に連れ込むもんだろう?」
「家には……」
無理解な夫が同居している。それで姉貴は外に連れ出そうとしたんじゃないか。先輩にそう伝えると、
「だったら計画的な逃走ってことか? 財布とか上着とかを持ち出しているか、確認しておいたほうがいいぞ。何の準備もしてないなら、そう長居はできないだろうからな」
とアドバイスされた。確かにそうだ。俺は冷えてきた夜気に上着の襟を合わせながら頷いた。この寒空の中、万全の支度がないなら、そろそろ帰る必要が出てくるはずだ。それに、と、思いつく。子どもは母親の返り血を浴びているんじゃないか。そんな格好で遠くまでうろつけるわけがない。
「もしかしたら、すでにマンションに戻ってるかもしれないですね」
希望的観測を口に出すと、
「おう。お前もマンションに向かったほうがいいぞ。迎えてくれるのがそんな旦那じゃ、お姉さんも可哀想だ」
と先輩は笑った。礼を言って車に飛び乗る。
姉貴のマンションと自宅は10キロほど離れている。本当は真っ直ぐにマンションに向かいたかったんだが、お袋を家で休ませなければならない。俺は電話を取り出して、カイさんにかけた。お袋を送り届けている間のことを頼みたかったからだ。けれど、数度のコールの後、
「この電話はただいま出ることができません」
というアナウンスが流れてきた。俺からの着信だと見たカイさんが、通話終了ボタンを押したんだろう。
……まったく、あの人は……。
「お袋、姉貴のとこに少し寄るよ」
と後部座席に向かって声をかけると、お袋は未だに掠れた声で、
「まっすぐ家に帰ってちょうだい。今回のことで、幸子はご近所に顔向けできなくなったんでしょう? そんなところに行きたくない」
と答えた。ちょっとむかっ腹が立ったが、努めて態度に出さないように説得する。
「でも、姉貴が帰ってきてるかもしれないんだぜ。お袋が近所の白い目にさらされるのは嫌だって思うなら、それは姉貴だって一緒だろ。家族なんだからフォローしてやろうよ」
けれどお袋は、
「幸子は自業自得じゃないの」
と受け付けなかった。なんでだよ……。
お袋を自宅に着け、俺は車から降りることもなく、姉貴のマンションに向かった。11時を少し回っている。
マンション周辺の住宅街はすでに寝静まっていた。車をフリースペースに停めようとしたが先客がいる。仕方なく見回すと、姉貴の部屋の割り当てスペースが空いていた。そこに突っ込み、運転席から出ようとして気づく。この場所には、いつも、カイさんの自家用車が停まっている。それがないということは、カイさんはマンションに戻ってないのか……。
俺はもう1度カイさんの携帯にかけてみた。……出ない。かなりの時間、待たされる。そして通信が繋がった。
「はい」
不機嫌そうな低いカイさんの声。
「俺です。今どこに? マンションにはいないの?」
聞くと、
「そんなところに帰れるわけないだろ!」
と怒鳴ってきた。
「でも、カイさんが帰っていなきゃ、姉貴が戻ったきたときに独りになるんだぜ……っ」
俺も負けずに大声を出そうとして……なんとか自制する。もう夜中だ。
「なあ、あんたが姉貴を怒ってるのはわかったよ。だけど、こんな状況なんだ。もっと協力的になってくれてもいいんじゃないか?」
そう説得すると、カイさんはブツブツと何かを言った後、
「あーあ、でも今晩は帰れねえよ。もう飲んじまったもん」
と声のトーンを跳ね上げた。
……怒りで視界が歪んだような気がした。俺は握り潰す勢いで携帯を切った。目の前にこの馬鹿がいたら殴ってるところだ。
少しの間、動くことができなかった。深呼吸を繰り返して、なんとか足を前に出す。階段を上り、3階の共用廊下に出ると、姉貴の部屋の隣、つまり事件現場の玄関に黄色のテープが幾重にも貼りつけられているのが見えた。それを横目で通り過ぎながら、姉貴の部屋のドアノブを回す。ガキ、とすぐに硬い手応えが邪魔した。……鍵がかかってる。
……そうだな。……それはそうだ。家主が外で飲んでるんだから、誰も帰ってないこの家の施錠が開いているわけはない。
「くそっ」
俺は我慢できなくなって壁に拳を叩きつけた。大きな音を立てる鉄扉を避けたのは、我ながら賢明だと思った。コンクリートの殺風景な外壁は、俺の憤懣ぐらいじゃビクともしない。
「親父……」
どこかに救いを求めたかったが、言葉の続きは飲み込んだ。親父は死んでいる。死者にしか頼れない自分の立場を認めるのは、情けなかった。
ドアに背を向けると、眼下にススキの群生が揺れているのが目に入った。俺はその体勢のまま座り込んだ。膝の中に顔を埋める。見たくなかった。何百本という干からびた手のような陰が、普通の生活のすぐ隣に広がる異界に、俺を引きこもうとしているように感じたから……。
結局、翌日までマンションの駐車場で留まった。朝方早くに戻ってきたカイさんを捕まえて、
「今日はどうするんだよ?」
と聞くと、カイさんは俺の方を見向きもせずに、
「しばらく実家から仕事に通うことにする」
と言った。それを聞いて俺も諦めた。
「じゃあ俺がこのマンションで姉貴を待つから、鍵を渡して」
と手を出すと、自分のキーホルダーから玄関の鍵を抜いて差し出す。戻ってくる気がないのか、と理解した。
朝一で先輩に休みの連絡を入れた。お袋の面倒を見なければならないのと、マンションの管理人に謝罪に行かなければならないからだ。先輩は快諾してくれた。
9時を待って、まず事件を起こしたのと反対側の隣家に寄る。母親らしい若い女性と2歳ぐらいの子どもが出てきた。騒がせたことを詫びると、
「びっくりしたけど、もういいの。解決したんでしょう?」
と尋ねられる。適当に言葉を濁すと、会話の流れで、事件時の状況を少し教えてくれた。
昨日、夕食の少し前ぐらいの時刻に、鋭い悲鳴が聞こえたそうだ。不審に思ったこの母親が、声のした共用廊下を覗くと、事件現場の玄関先に姉貴が立っていて、その足元に間部アリサが這い出てきていた。最初はアリサが勝手に転んだのだと思った、と母親は言った。けれどよく見ると、彼女の体は血まみれになっていた。
「サッちゃんが、救急車を呼んで!、って叫んだから、あたしも慌てて家の中に入ったの。119番して、また外に出たら、今度はサッちゃんの旦那さんが立ってて、間部さんは相変わらずだったんだけど、サッちゃんがいなかったのよね」
母親は姉貴と面識があるらしい。愛称で呼んでくれる関係を築いてたんだな、と、俺は姉貴に感謝した。
「姉貴は……サチは、間部さんと揉めていた感じでしたか?」
そう確認すると、母親は大きく首を横に振って、
「警察の人にも、間部さんを刺したのはサッちゃんじゃないか、って何度も聞かれたけど、サッちゃんがそんなことするわけないじゃない。ミナミちゃんのことで間部さんに怒ってたのは知ってるけど、でも、もし間部さんが児童虐待で警察に捕まったりしたら、一番可哀想なのはミナミちゃんでしょ? だから、間部さんに嫌がられても、虐待を未然に防ぐんだって言ってたもの」
と説明した。
俺は礼を言って母親から離れた。姉貴はやっぱり間違っていない。
「サッちゃん、今どこにいるの?実家?」
背を向けた俺に、母親が聞いた。逡巡したが、伝えておいたほうがいいと思って、答える。
「姉は昨日から行方不明なんです。たぶん、あなたが119をしてくれている間に、どこかに行ってしまったんだと思います……」
「ええ?!」
驚きの声を上げた彼女は、でもすぐに気を取り直して、
「あ、そうなんだ……。あたし、旦那さんに怒られて実家に帰ってるもんだとばかり……。心配ね……。もし戻ってきたら、すぐ保護してあげるね」
と言ってくれた。俺は深く頭を下げた。
マンションの脇の一軒家に住むという管理人を、次に訪ねた。竹林の囲む敷地への入り口を入ると、急に視野が開ける。芳賀さんの邸宅ほどではないが、広い屋敷だった。古い板壁の平屋が重厚な質量を持って据わっている。
玄関に回って声をかけると、未だにサッシになっていない引き戸が、耳障りな音を立てて開かれた。小さな80代ぐらいの爺さんが立っている。目付きは……とても友好的とは言えない……。
「飯塚です。昨夜はお騒がせして……」
謝ろうとすると、問答無用に目の前で引き戸が閉められた。中から、
「婆さん、塩!」
と怒鳴る声がする。
正直、ここまで拒絶反応が強いと思わなかった俺は、呆然として、しばらく声もかけられなかった。玄関先では老人が忙しなく動き回っている気配がする。
気を取り直して、もう1度、呼びかけた。
「大変、申し訳ありませんでした。姉が戻ってきたら、必ず、また一緒に謝まりにきます」
謝罪の言葉を重ねようとしたとき、再度、引き戸が軋み、さっきより憤怒の形相を強めた爺さんが出てきた。
「あんたたちには今日限り出ていってもらう! もう来んでいいわ!!」
一方的に会話を切られて、俺は途方に暮れてしまった。
自宅に戻ると、お袋が布団に転がっていた。
「何か食べたのか?」
そう聞いて台所に向かう。そういえば、俺も昨夜の騒ぎから何も食べてなかったな。
「要らない……。食欲がない……」
拒絶するお袋に、
「食わなきゃ駄目だろ」
と諌めて、水を張った鍋を火にかけた。
背中を支えて起こし、粥を啜らせる。お袋と同じ物を食べる気にならなかった俺は、台所の隅で茶漬けを掻きこんだ。
頭が重いな……。何を考えたらいいのか、わからない。
「また幸子のところに行くの?」
布団の中からお袋が弱々しく尋ねる。
「うん。今は母さんより姉貴優先だ」
そう答えると、お袋は小さく泣き出した。
もし管理人にあのマンションを解約されたら、姉貴はどうなるんだろう。そんなことを考えながら、俺は車を走らせていた。
姉貴が何かやったのか? 刺したのは隣の子どもだ。親子喧嘩に巻き込まれただけじゃないか。それとも、隣人が刺されて死にかけてるのを放っておいたほうが良かったのか?
苛々で、思考が前を向かない。みんな、姉貴が悪いとでも言いたいのかよ……。
車を空きっぱなしのカイさんの駐車場に入れてから、俺は呼気を吐き出した。そういえば、息を吸うことさえ忘れてたな。なんだか可笑しくなった。普段から、意識して呼吸なんかしてないじゃないか。
運転席から半身を乗り出すと、背後から近寄ってくる足音が聞こえた。振り返ると、芳賀の爺さんが、孫娘を伴って立っていた。
「サチさんが大変なことになったって聞いて……。どうなってるの?」
彼女は、こんなときでさえ穏やかな口調を崩さない。
「うん、あの……」
誰を信用していいのかわからなくなっていた俺は、懐疑の本心をなんとか隠して、慎重に状況を説明した。
「まあ。お爺ちゃん、藤原さんの言い分、あんまりじゃないですか」
孫娘は管理人の話を聞き咎めた。爺さんも厳しい顔をしている。
「一言、言いに行ってやりましょうよ。涼二さん、大丈夫よ。お爺ちゃん、この辺では一番強い力を持ってるの。解約なんかさせないから」
請け負ってくれる彼女の笑顔を見て、それから爺さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
爺さんたちを信用しているのか、自分でもわからない。この2人の言葉を喜んでいいのか、それすら迷う。
部屋に上がりこみ、玄関先に転がった。現実的なことは、もう何も考えたくない。
姉貴と子どもはどこに消えたんだ? 隣の母親が通報している間のことだから、そんなに長い時間じゃない。事件時、姉貴は救急車を呼ぶように指示したと言っていた。冷静な行動に思える。その姉貴が、取り乱して、子どもを現場から連れ出したりするだろうか?
間部アリサを刺した間部ミナミのことを、ぼんやりと空想した。虐待されて鬱屈を溜めた小学2年生。小さな体で母親を瀕死の重傷に追い込むには、相当の思い切り……恨み……が必要だろう。そのミナミが、逃げ惑う母親を追って玄関先まで来ていたとしたら……。出くわした姉貴にも見境なく刃を向けたとしたら……。
「まさか」
俺は体を起こした。ミナミは姉貴をも敵視したんだろうか。そして……。
でも、すぐに自分の考えの馬鹿馬鹿しさを認めた。もし姉貴が刺されたのなら、すぐに見つかっているはずだ。
「負けんなよな、サチ……」
姉貴の強さを信じたかった。俺もがんばらなきゃな、と頭の片隅で思いながら、意識が睡魔に呑まれていった。
心地良い声がする。彩ちゃんを想わせる優しい声音だ。
「センパイ。風邪引きますよ。ちゃんと奥に行こ?」
小さな掌が俺の肩を掴んでいた。目を開けた俺は、すでに電灯の付いている玄関で、彩ちゃんに揺り起こされていた。
「え? なんで?」
一瞬で覚醒して起き上がる。彩ちゃんはホッとした顔をして、
「センパイの自宅に行ったら、お母さんにこっちだって教えてもらったの。来てみてよかった」
と微笑んだ。
居間に移動して、彼女にも座を勧めると、彩ちゃんは台所に留まって、
「ううん。先に食事の支度します。キッチン借りるね、お姉さん」
と架空の住人に向かって断った。窓から外を眺めると、真っ暗になっている。
「仕事帰りに寄ってくれたんだ?」
確認すると、
「はい。前川さんがフライングして退社させてくれたんです」
と笑った。そっか。先輩が配慮してくれたのか。
現実との辻褄が合ってくると、彩ちゃんが食事を作ろうとしてくれている事実が、やっと頭に入ってきた。
「あ、ご、ごめん。飯はいいんだ。家に帰って、お袋の支度もしてやらないといけないから……」
慌てて台所に行くと、彩ちゃんは包丁を離して振り向く。
「お母さんのほうは、もう用意してきました。きっとね、家族であるセンパイが行くよりも、他人のわたしが行くほうが、お母さんも気が張ると思うんです。だから、しばらく家政婦さんやってみますね」
首を傾ける様が雛鳥みたいに可愛い。俺は目のやり場に困って、視線を彷徨わせた。
「そ、そっか。助かる……。でも、彩ちゃんに甘え続けるわけにも行かないよ。今日だけにしよう」
そう提案したが、
「駄目です」
と即答で却下された。
……どうしようか。抑えていたタガが外れそうなんだけど……。
炊事場に立つ彩ちゃんの背中を、俺は台所のテーブルに座って、ずっと見ていた。口は会話をしているけど、頭には何も入ってこない。入ってくるのは、視界が捉える彼女の姿だけだ。華奢な撫で肩にかかる髪が電灯に透けて柔らかく絡んでいる。固い雰囲気の仕事シャツを身につけているが、その上から着込んだ姉貴のエプロンが、妙に色っぽい。左右に動くたびに、細い足首がくるくると回った。我知らず、視線を足元から上にずらしていた俺は、自分の浅ましさに気づいて、こっそり頭を抱えた。
「そういえばさ、前に話してた神社がどうのっていう。あれって何を言おうとしたの?」
できるだけ危うい状況にならないように、俺は『カミサマ』に話題を預けた。
「ああ、あれはですね……」
彩ちゃんはちょっと考えこんで、
「水嶋センパイが神様を好きになってくれたらいいな、って思っただけです」
と、困ったような、照れたような笑いを浮かべた。
「神様かあ……」
正直、そんなものがいるなら、姉貴を返せと言いたい。
「いてくれるといいな」
曖昧に濁すと、彼女は、
「いますよ」
と断言した。ああ、そうだ。彩ちゃんは信者だったな。
飯を食って他愛のない雑談をしているうちに、リミットが来た。帰るという彩ちゃんを送ろうと玄関先に出向く。
「お袋の晩飯のこと、本当に任せてもいいの?」
気が引けたが確認すると、彩ちゃんは嬉しそうに、
「はい。センパイの役に立ちたいもの」
と答えた。頭の中が沸騰して、理性が消滅しそうになる。彩ちゃんに向かって伸びそうになった腕を、俺は、本当に必死で、抑えつけた。
「ありがとう。あ、明日は会社に顔を出すよ。そのときに、また……」
尻すぼみになる声をあえて張り上げると、彩ちゃんは、
「待ってまあす」
と軽い調子で受け答えた。
駐車場で彼女を見送ってから、戻ってきた玄関で、俺はまた気力が尽きて転がった。この自制が、今日、一番に辛かった。