姉貴の失踪 2
「水嶋センパイ、前……」
助手席からの控えめな声で、俺は急ブレーキをかけた。目の前に赤く点灯している信号がある。辛うじて、停止線の手前で車を停められた。
「ごめん、考え事してた」
シートベルトを握りしめて心配そうに見ている彩ちゃんに謝ると、彼女は微かに微笑んで、
「一緒に来てよかった」
と囁いた。
お袋の話は、お袋自体も事実を飲み込んでいないみたいで、よく要領を得なかった。俺に電話する、つい10分ほど前に警察から電話があったこと。その警察から、姉貴の隣人が腹部を刺されて重症で見つかり、姉貴に容疑がかかっていると教えられたこと。姉貴の家の電話に連絡がつかないこと。そんな断片的なことを早口でまくし立てられた。姉貴が他人を傷つけるというのが、まず信じられなかったが、トラブルの件もある。口論の弾みでそんな事態に発展したと予想するのは、無理ではなかった。
ちらっと車内の時計を確認する。19時を回ったところだった。カイさんは……まだ会社だろうか。あれだけ取り乱していたお袋が、カイさんにまで連絡を取っているはずはないだろうな。
「彩ちゃん、ごめん。俺の携帯、荷物の中から出してくれる?」
「あ、はい」
後部座席に手を伸ばしてカバンをたぐり寄せている彩ちゃんの安全を、少しスピードを落として図りながら、俺はせり上がってくる焦りを圧し殺した。落ち着こう。大丈夫。姉貴が傷害を犯したとしても、背景には刺した相手に不利な事情がある。大丈夫。姉貴の立場は守ってやれる。
「携帯出しました。あの、ダイヤルしましょうか?」
彩ちゃんが俺の携帯を抱きながら聞いてきた。
「ありがとう……。それじゃあ、ごめんだけど、自宅にかけてくれる? お袋と話がしたいんだ」
彼女を使うのは申し訳なかったが、注意力が散漫な今の俺が携帯操作まですれば、さらに余計な心配や迷惑をかけかねない。
「はい。わかりました」
彩ちゃんは遠慮がちにアドレス帳を開いて、通話ボタンを押したようだ。
「……繋がらない」
コール音が俺の耳まで届いていた。30秒は鳴らしている。自宅の固定電話は、子機がお袋の部屋に置いてある。気づかないわけはなかった。
「お母さん、もしかして警察のほうに?」
「かもな」
彩ちゃんの推測は当たっている気がした。
入れ替わりに俺の携帯に電話がかかってきた。
「前川さんからです」
彩ちゃんが先輩の名前を着信表示に見る。
「出てくれる?」
頼むと、頷いて内容を仲介してくれた。つい今しがた、会社にお袋から電話があったこと。お袋は、警察から呼び出されて、刺された隣人が運ばれた総合病院に向かっているとのこと。
「なんで直接水嶋センパイの携帯電話に連絡しないんだろう、って前川さん、言ってます」
もっともな先輩の疑問を伝える彩ちゃんに、俺は頭を掻いて答えた。
「あの人、長い数字を覚えたり打ったりすることができないんだよ。だから局番の短い固定電話同士で話したがるんだ」
「そうなんですか。じゃあ前川さんにはお母さんと合流するまで会社にいてもらったほうがいいですね」
てきぱきと先輩にまで指示を飛ばしてくれる彩ちゃん。心底ありがたく思いながら、甘えついでに愚痴まで聞かせちまった。
「お袋、中度の鬱病なんだ。だから、こんなふうに普通の人間にできることができなかったりするんだよ」
ごめんな、と付け加えると。
彼女は、しばらく無言で前方を見据えた後、俺に軽くもたれかかってきた。
「水嶋センパイ、謝ってばっかり。なんにもセンパイのせいじゃないのに」
「……」
……そうだな。俺が全部を背負う必要はない。少し力が抜けた。
総合病院に進路を変更する。会社と病院が同じ街中にあるため、自宅に帰るよりはだいぶ早い到着になった。
一般診療の時間が終わった病院は、正規の玄関が閉められ、救急搬入口と隣り合わせた夜間診療口に動きが集まっている。受付で事情を説明すると、救急搬入口のほうに回れと指示された。搬入口すぐの処置室に警察が待機しているらしい。
赤いランプが照らす、妙に薄暗い入り口を入ると、廊下の長椅子に見知った顔が座っていた。カイさんだった。
「来てたんだ。なあ、どうなってんの?」
今まで連絡の一つも寄越さなかった気の利かない義兄に苛つきながら、俺はカイさんに詰め寄った。彼はぼんやりと濁った顔を上げて、皮肉っぽいセリフを返す。
「サチが傷害事件を起こしたんだよ。聞いてないの?」
「聞いたよ。それはわかってる。どうしてこんな状況になったか聞いてんだよ」
嫌味なんか言える立場じゃないだろ、と、内心、憤慨した。カイさんがもっと親身に姉貴の相談に乗ってやっていたら、こんな事件は起こらなかったんじゃないかと思えたから。
「サチが勝手なことしたんだよ。だから言っただろ。他人なんかに関わるなって。隣がどんなことしていようが、うちには関係ないじゃないか」
カイさんの吐き捨てるような言葉。俺は、わざと乱暴な音を立てて、義兄の隣に腰を落とした。
「姉貴は間違ったことはしていない。俺には、あんたのほうが、よっぽど、みっともない人間に見える」
率直に感情をぶつけると、カイさんは声を2トーンぐらい上げながら、
「犯罪者のくせに偉そうに言うなよ!」
と喚いた。
俺に対して言ったセリフではないと思う。俺は犯罪者じゃないから。だから余計に許せなかった。姉貴を、あれだけ執着して妻にした女を、簡単に断罪するカイさんが。
「あんた、屑だな」
言いたいことが多すぎて、それだけしか言えなかった。
「お前らのほうが屑だ」
義兄はそう呟いて顔を覆った。
カイさんと話しても埒が明かないので、早々に座を辞して処置室に向かう。
後ろからついてきた彩ちゃんが、ためらいがちに俺の腕にまとわりついて、心配そうに覗き込んだ。
「センパイ、大丈夫? いつもと違う……」
……いつも……? いつもは、俺、どんな態度を取ってたんだっけ? それすらも思い出せない。駄目だな。冷静なつもりだけど、頭に相当、血が上ってる。
「義兄とは普段から仲が良くないんだ」
特別にカイさんと仲違いしていたわけじゃないが、そう言い訳する。
「その……彩ちゃんには、変なところを見せて……悪い」
無関係な彼女に対して、申し訳なく思う。恐縮して彩ちゃんの表情を窺うと、彼女は目を細めて、
「また謝る。そういうの、要らないですよ」
と笑った。感謝より罪悪感で胸が痛くなって、俺は彼女の頭を、やや乱暴に撫で回した。
「謝るぐらい、させてくれ」
そう頼むと、彩ちゃんは、びっくりしたような顔をした。
「だからセンパイは……」
と何かを言いかけたが、結局、続きは言わず、黙って頭に乗せている俺の手を強く握り返した。
小さなプレートを掲げただけの殺風景なドアをノックすると、中から若い看護師の女性が顔を出した。
「すみません、警察の人は……?」
事情を聞くだけだ。そう思っていても、警察とコンタクトを取る羽目になったことに、内心、怖気づく。……我ながら情けない。
「警察の方なら、もう被害者に連れ添ってICUに行かれましたよ」
看護師は答えて、2階の奥にあるという集中治療室の場所を丁寧に教えてくれた。礼を言って場を離れようとしたとき、処置室の中から、かすかな雑談の声が聞こえてきた。
「どっち? 加害者の身内? 被害者の身内?」
「加害者っぽいわよ。さっき、廊下で言い争いをしてたって。やっぱり身内もそういうタイプなのね」
……事実だから、そう認識されても仕方がない。でも……なんだろう……。必要以上の悪意が周囲を締めつけてきているように感じる……。
1階には夜間外来の患者の姿も見られたが、2階に上がると、冷たい廊下の先にも後にも人影はなくなった。
「あ、そういえば」
唐突に彩ちゃんが寒がりだったことを思い出した。と同時に、俺は自分の上着を脱いで彼女に渡していた。
「冷える前に着ておいて」
自分が笑顔を維持しているのが自覚できる。彩ちゃんは、また驚いたような表情をしたが、すぐに、
「ありがとう」
と受け取って、それを羽織った。
「……センパイ、大丈夫?」
さっきの質問を繰り返す彼女に、機械的に、
「うん。大丈夫」
と繰り返す。いや、本当に大丈夫だ。まだ、彩ちゃんに配慮するぐらいの余裕はある。
複雑な造りの建物を、案内されたとおりに進んでいくと、急に光量を落とした一角に出た。壁沿いにいくつか部屋が並ぶ。磨りガラスをはめ込んだドアから光が漏れる部屋があった。案内プレートを見ると『親族控室1』。目を転じると、廊下の先には右側に曲がる大きな角があった。『この先ICU』と、手書きの注意書きが貼られている。
「警察もICUにまではついていかないだろうから、この辺にいるんじゃないかな」
『親族控室1』の前を未練がましく通り過ぎた俺は、角を曲がってからも、そこに関係者が溜まっているんじゃないかと、人の気配を探した。けれど、『集中治療室(Intensive Care Unit)』と表記された看板が掲げられた、ごつい自動ドアの前には、誰の姿もなかった。
「インターホンで聞いてみますね」
彩ちゃんが自動ドアの脇にある送信機に走り寄る。気を使ってくれているのが、ありありとわかった。喉に詰まるような重苦しい空気が、そんな行為1つで薄れていく。
彩ちゃんがいてくれて、よかった。カイさんは、すでに俺たちの味方ではなくなっている。お袋には、もともと力がない。頼みの綱だった姉貴が当事者として身動きが取れない今、俺が放棄できる分担は1つもない。深呼吸をして、何度も、大丈夫、の言葉を飲み下す。平気だ。俺が危惧しているのは最悪の事態だから。姉貴の正当性が認められずに懲役に課せられて、自己防衛のためにお袋まで姉貴を見捨てて、なんて結果にはならない。いや、しない。
彩ちゃんが、応答してきた病院関係者と会話を始めた。
その瞬間、親族控室のほうから、つんざくような悲鳴が聞こえた。お袋の声だった。
叫び声が断続的に続く。俺は急いで控え室まで戻り、ドアノブを握った。開閉までのわずかな躊躇の時間に、室内からは別の怒号が響いた。
「キチガイの言い訳なんか誰も聞いてないんだよっ! さっさとミナミを返せっ!!」
女の声、それも、お袋と同年代ぐらいに思える。お袋の泣き声が大きくなった。俺は反射的に部屋に飛び込んでいた。
中には、応接テーブルにもたれて床に崩れているお袋がいた。その横に仁王立ちしている、ガリガリに痩せた茶髪の女が、憎々しげな表情を露わにしてお袋を見下ろしている。女を抑えるように腕を取っているスーツ姿の若い男は警官だろうか。他にも、制服を着込んだ巡査が1人、ドアのすぐ脇に待機していた。
巡査が俺のプライベートエリアに踏み込んできて、厳しい声で質問した。
「君は? 関係者か?」
「そうです。そこの……」
俺はお袋を指さした。
「……泣いているのは、俺の母親です」
自分の親の醜態を口に出すのは、かなり気分が悪い。しかも警官の態度は威圧的だ。不快さから逃れるために離れようとすると、彼はさらに距離を縮めてきた。犯罪者を逃すまいとしているような態度だった。
「……姉が大変なことをしてしまったようで、すみません」
俺は、警官の態度を緩和させるべく、そう謝った。司法に噛みついてもいい結果にはならないだろう。
「弟さんかね。事情は聞いていると思うが、飯塚幸子には傷害容疑がかかっている。被害者は重症で意識不明だ。場合によっては、罪状は殺人未遂に」
けれど俺の思惑は外れて、警官は畳み掛けるように責め立ててきた。スーツ姿のほうが、
「高見さん、そのへんで」
と歯止めをかけると、舌打ちをして離れていく。
まただ。さっきの処置室の奥にいた看護師たちの会話が重なる。なぜ、こんなに誰からも敵視されるんだ?
動揺を抑えて、お袋に近寄った。お袋は顔を上げることもなく、ヒイヒイと掠れた声を床に向かって吐いている。背中をさすって体を起こさせ、俺は、未だに憎悪の色を浮かべる60代ぐらいの女に向き直った。
「飯塚幸子……加害者の弟です。あなたは?」
予想はついたが確認してみる。女は応えず、横柄な態度で向かい側のソファに腰を沈めた。スーツの警官が間を取り成す。
「被害者のお母さんです。事情を聞くために、関係者を同室に集めてしまいました。すみません」
頭を下げる、俺より若干、歳若い彼に、俺も謝罪を返した。
「いえ。お世話をかけたのはこちらですから」
お互い、冷静に話ができる相手だと認め合えた俺たちは、警戒を解いて会話を進めた。
「家族の方にも調書作成のご協力を願いたいんですが、よろしいですか?」
「わかりました。ただ」
俺は頷いて、それから、お袋を目で示した。
「母は精神を病んでいます。できれば別室で休ませてやりたいんですが」
「そうでしたか。それは本当に申し訳なかった。すぐ手配します」
警官は制服の巡査にその旨を指示した。すぐに看護師が来て、弱って歩けなくなっていたお袋を抱えていってくれた。
調書というから、姉貴の家族構成や生い立ちなどを、俺の視点で聞かれるのかと思ったら、警官……栄生さんは、姉貴の現在の友人関係などに踏み込んできた。
「よく遊びに行かれる友だちとか親戚とかのお話を聞いていませんか?」
「親戚は疎遠になっていて、姉貴が立ち寄るような相手は思いつきません。友人は……結婚してから、それまでの関係のほとんどが消えてしまったと、以前、言ってました」
カイさんがヤキモチを焼くから家庭外の人間とはあまり交流できない、と、姉貴は笑っていた。聞いたときは惚気の一種かと思ったけど、こうなってみると、むしろ呪縛だったんだなと同情する。
「唯一の心当たりは、同じ町内に住むお爺さんですが……遊びに行く相手というよりは近所付き合いの域を出ていないように、俺には思えています」
芳賀さんのことも、念のために伝えておいた。栄生さんの思惑がわからないからだ。
「お爺さんですか……。他に……例えば、男性の知り合いなどに心当たりはありませんか?」
具体的になってきた栄生さんの疑念に、俺は不当なものを覚えて、語気を強くした。
「今回のことは、以前からあった隣人トラブルが発展しただけのものです。隣人……姉が刺してしまった相手は、普段から自分の子どもを虐待していたようでした。姉はそれを苦にして、いろいろと手を尽くしていたので、被害者も、きっと姉に対していい感情を持っていなかったんだと」
俺は栄生さんと、それから、向かい側で目を光らせている被害者の母親に向かって訴えた。けれど言い切る前に、母親の激しい反論を浴びせられる羽目になる。
「うちの娘が虐待なんかするわけないだろっ! お前んとこのキチガイが毎日毎日嫌がらせをしてきたんじゃないか!!」
「虐待は事実です。学校にも相談しています。民生委員も訪問したとか。学校のほうに問い合わせてもらえばわかります」
俺は、今度は栄生さんだけに向かって説明した。この母親には、きっと何も通じない。
「確認しておきましょう」
栄生さんは請け負ったが、あまり重要視はしていないようだった。
「お姉さんが被害者の間部さんと諍う原因は、以前からあったということですね」
そう言いながら、パサパサの髪を掻き上げる老女に視線を送る。味方を得るどころか、むしろ揚げ足を取られたような流れになって、俺は絶句した。
……なんだろう、この不条理なシナリオは。姉貴は善意から……と、恐らく、子どもに対する保護欲から、こんな厄介な隣人と関わることになった。事情としては、それでいいはずだ。目の前の凶暴な『母親』に是があるとでも言いたいのだろうか。
「……姉は他人に簡単に手を上げるような性格ではありません」
どうフォローしていいのかわからなくなって、俺は、今回のことが『事故』に近い行為であることを、改めて強調した。
「被害者……間部さん、ですか? 彼女はどういう状況で刺されたんでしょうか? 姉に一方的な非があるような状態だったんですか?」
確認すると、栄生さんは、少し顔を曇らせて、答えた。
「飯塚幸子さんの旦那さんから、何も聞いていませんか?」
「いえ、何も……」
カイさんがその辺りを知っていたのか。でも、さっき廊下であった彼には、そんな説明をする素振りはなかった。
「そうですか」
栄生さんは溜息をつくと、
「ちょっと外へ出ましょうか」
と老女の不信に満ちた視線から逃れる場所へと、俺を誘った。
暗い空間を、来た時とは逆の方向に戻っていった。相変わらず廊下は無人だ。白い無機質な蛍光管からの光が、長い道先を照らしている。空調が最小限に抑えられていて、俺にとっても寒く感じた。彩ちゃんを先に帰してやればよかったな。そんな考えが頭を掠める。彼女は、今、お袋に付き添ってくれているはずだ。
栄生さんは、途中にある、すでに照明の落とされた休憩室に入り、奥の席を俺に勧めた。それから自分は長テーブルを挟んだ向かい側に座る。
「正確に言えば、お姉さんが間部さんを刺した現場は、誰も見ていません」
そう切り出す彼。真意が測れず、俺は慎重に問いかけた。
「でも、姉が刺したことに間違いはないんですよね?」
「十中八九」
微妙な言い回しで逃げる警察機構に苛立った俺は、コントロールできない感情をぶつけた。
「姉は何と言ってるんですか?! 嘘だと思われていてもいいから、姉の言葉をそのまま聞かせてください!」
栄生さんは、そんな俺を無表情で観察する。
強い、いや、怖いぐらいの違和感が襲ってきた。そうだ。ここに来てから、姉貴の存在を感じていない。カイさんはなぜあんな外れた場所で孤立していたのだろう。お袋はなぜ姉貴を守るための反論もせずに弱りきっていたのだろう。
「あの……いえ……」
嫌な考えが頭を掠めて、俺は栄生さんへの質問をためらった。被害者は腹部を刺されて重症だという。俺は、刺したほうの姉貴は、少なくとも身体的には害されていないと思い込んでいた。でも、そうじゃなかったら……。姉貴も危害を加えられていたとしたら……。
「……姉は無事なんですか?」
言葉を搾り出すと。
栄生さんは、ふっと息を漏らした。
「本当にお姉さんの行き先を知らないようだね」
「は?」
思わぬ答えに、我ながら間抜けな声を出した。栄生さんは、やや厳しい表情をして、先を続ける。
「お姉さんは現場から逃走したんです」
うろたえる俺に、さらに重ねる。
「間部さんの娘さんも一緒に失踪しました。たぶん、行動を共にしていると思います」
頭の中が疑問符だらけだ。姉貴が逃走? しかも、虐待されていた子どもを連れて?
「エスカレートした虐待から子どもを守ろうとして、逃げたってことじゃ……」
後先の事情をすっ飛ばして俺がそう推理すると、栄生さんは苦笑した。
「母親を刺したのが、子どもを守るための正当防衛だったとして、なぜ一緒に逃げる必要があるんですか?」
もっともだ。
「重症の母親を見て動揺した子どもを、放っておけなかった、とか」
姉貴ならそんなこともやりそうな気がした。自分が傷つけてしまった母親を見てショックを受ける子ども。その子どもを現場に放置しておけなくて連れ出した……。
栄生さんは頭を振って、また小さく笑った。
「どんな事情であれ、お姉さんが行なっていることは犯罪です」
そうだな。俺も納得する。姉貴は間違っている。逃げた時点で、子どもを巻き込んだ時点で、弁解はできない。
「姉を……捕まえてはもらえるんでしょうか?」
俺から尋ねると、栄生さんはゆっくりとした仕草で、
「全力を尽くしています」
と頷いた。
なんだか妙に落ち着いた。諦めがついたんだろう。自分でもわかる。
姉貴の名誉を守ってやりたいと、ここに来るまで、ずっと思っていた。でもそれが破綻して、……俺は少しホッとしている。姉貴にだって悪いところはある。すぐにヒステリックになって泣き出すお袋も、世間知らずで小心者の俺も、欠点だらけの人間なんだ。アルコール中毒の親父を詰っているうちに、自分たちだけは、そんなつまらない人生を送ることはないと、どういうわけだか思い込んでいた。つまらない人生を送らせてはいけないと、ずっと気負っていた。
栄生さんは、パネルの照明の消えた、でも辛うじて動いている様子の自販機から、コーヒーを2つ買い込んで、1つを俺の目の前に置いた。
「すいません。気を使ってもらって。払います」
財布を取り出そうとすると、笑って、
「僕からの敬意です。普通は、家族が加害者になったら、もっと見苦しく足掻くもんです」
と言った。俺も笑って軽口を返そうとしたが、予想せず、声が震えて、コーヒーをこぼした。
「……すみません。勝手だとは思うが、姉貴のことが心配で」
言い訳すると、
「そうですね。当然だと思います」
と慈悲のイントネーションが返ってきた。ちくしょう……。本当に情けないな、俺は……。
携帯が鳴った。栄生さんのものだ。
「失礼」
立ち上がって隅に移動する彼をぼんやりと見送っていると、暗い休憩室の中、
「えっ、ほんと?」
と若い警察官の本性が現れた物言いが響いた。
電話を切った後、栄生さんは走り寄って来て、空になったコーヒーのカップを握った。
「間部アリサが目を覚ましたそうです」
『アリサ』という聞き慣れない名前に戸惑っていると、
「被害者ですよ。あのお母さんがつけた名前らしいでしょう?」
と笑った。俺も釣られて顔を緩ませかけてから、
「え? 意識が戻ったんですか?!」
と一気に覚醒した。
被害者が回復してくれた。それがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。巡査に脅されていた言葉が消滅していく。『殺人未遂になるかも』。いや、罪状は軽くならないだろう。でも、姉貴を人殺しだけにはしなくて済んだ。
「医師から許可が出たので、話をしに行ってきます。水嶋さんはさっきの控え室に戻っていてください」
栄生さんから、そう指示されて、俺は大きく頷いた。
控え室に戻ると、入り口の横に彩ちゃんが佇んでいた。
「あ、センパイ……。どこ行っちゃったのかと思った」
俺の顔を見ると、明らかな安堵の顔で駆け寄ってくる。
「うん、ちょっと警察の人と話を……彩ちゃん?」
俺の腕を掴んで俯く彼女。
「どうかした?」
聞くと、
「あの……お姉さんの行方が……」
と切れ切れに答えた。ああ、お袋から聞いたのか。
「今、警察から教えてもらったよ。大丈夫。きっと、動転して逃げただけだと思うから。姉貴、普段は偉そうなことを言うけど、こういうのに耐性がないんだ」
犯罪に耐性もクソもないと、自分でも思ったが、彩ちゃんの不安を軽くしてやりたくて、表現を砕いた。彼女は微かに笑って、
「すぐに見つかりますよね?」
と念を押した。
「うん」
身内の俺と同じレベルで心配をしてくれる彩ちゃんが、いつもの20割増ぐらいに可愛く感じた。
10分ほど待ったところで、ICUのほうから大勢の話し声が聞こえてきた。
部屋には入らず、廊下にいた俺に、栄生さんが歩み寄ってくる。その後ろには間部アリサの母親が、相変わらずの凶悪な面相を浮かべて、ついてきていた。彩ちゃんを暴言の餌食にはしたくなくて、俺は彼女を背中に押しやり、自分から彼らに近づいた。
「完全に持ち直したんですか?」
被害者の覚醒が一時的なものでないことを祈る。栄生さんは笑顔で、
「ええ。もう大丈夫です」
と請け負った。そうか……、よかった……。
栄生さんは、俺たち、俺と彩ちゃんと母親に部屋に入るように促すと、彼自身は、
「署に報告してきます」
と離れていった。間部アリサの口から何か進展が聞けたんだろう。姉貴の行方に関することはなかっただろうか。
少しでも早く結果を知りたかった俺は、さっきと同じようにソファにふんぞり返る対面の母親に話しかけてみた。
「アリサさんは、事件のことについて、証言できるぐらいに落ち着いたんですか?」
「はあ?」
苛ついた様子の母親は取り付く島もない。仕方なく口をつぐむと、彼女は、なぜか急にそわそわしだした。彩ちゃんに向かって気味の悪い猫なで声を出す。
「ねえ、あんた。その兄さんの何なの?」
「へ?」
予想外の言葉を投げられた彩ちゃんは、目を丸くしながら俺を見た。俺にも母親の意図がわからない。
「か、会社の先輩です」
つっかえながらそう答える彼女に、母親はさらに質問を重ねる。
「兄さん、会社ではどんな仕事してるの? 有能?」
「え、あの……」
うろたえる彩ちゃんに、俺は、
「答えなくていい」
と断じた。なんだ、この人。想像以上に下衆な人間性を持っていそうだ。
母親は、今度は俺に向かって話しかけてきた。眉が八の字に歪んでいる。先刻の居丈高な顔つきとは明らかに一変していた。
「アリサがミナミのことを虐待したって言ってたけど、ねえ、あんた、悪いけど、学校にそういうことはなかったって断ってきてくれない?」
何を言ってるんだ、この人……。
「そんなことはできません」
即座に断る。今さら娘の体裁を取り繕って何になるんだよ。そもそも、娘が虐待をしているって認めてないんじゃなかったのか。
「できる、できないじゃなくてさ。あんたのお姉さんがうちの娘を通報したんだろ? だったら、お姉さんから取り下げてもらえばいいじゃないか」
「虐待の通告はそういうシステムではないんです。それに……」
行方不明という深刻なことになっている姉貴に、そんな些細な不利益の尻拭いをさせる気か?
憤りをなんとか抑えて、俺は続けた。
「……虐待がないことになれば、姉がアリサさんを刺した理由に整合性がなくなります。俺は姉を、無意味に隣人に刃物を向けるような人間と見せる気はない」
あんたの娘より姉貴のほうが大事だ、と言外に込めると、母親は、そういう理屈にはすぐに反応した。
「じゃあ、あたしの娘が刺されて当然の人間だと言いたいのかい?!」
特に反論はしない。
「アリサは虐待なんかしてないよっ! ミナミの出来が悪いから、叱らなきゃ、マトモに育たないだろ!!」
罵倒の矛先を孫にまで向ける彼女に、軽蔑の沈黙しか返せなかった。
母親は続けて、彩ちゃんにまで、まくし立てた。
「あんたもこんな男と付き合ってると、泣き寝入りすることになるよ。人の娘を陥れておいて平気な人間なんだからね。それとも、あんた、マゾなの? ああ、そういう顔してるわ。あんたみたいな女が、優しさの欠片もない男を作ってるんだ。自覚しろ、ばかっ!」
聞かないようにはしていたが、いい加減、こっちもキレてきた。怒鳴りつけようとした瞬間、彩ちゃんの間延びした声が割り込んだ。
「それでも、わたしはセンパイが好きですけど?」
思わずまじまじと見返すと、彩ちゃんはちょっと赤面しながら、
「あ、でも、マゾじゃないと思います」
と俺に向かってはにかんだ。
「……わかってる」
何がわかってたんだろう。
「男性に優しくしてほしいと思うなら、お母さんも、もうちょっとお孫さんに愛情を持ってあげてください。今の話を聞いていると、なんだか……センパイのお姉さんのほうが、ずっとミナミちゃんに親身になってあげていたみたいに感じます」
穏やかな物言いの裏の皮肉に、母親は反論してこなかった。
栄生さんが戻ってきた。開口1番に、こう言う。
「安心してください。お姉さんは無実です」
俺と彩ちゃんは意味がわからず、反応できなかった。母親だけが、バツが悪そうな顔で横を向く。
「被害者を刺したのは被害者の娘です。小学2年生の女の子。水嶋さんから虐待の話を聞かせていただいたので、今、学校のほうにも事情を問い合わせました。体罰の痕跡はなかったのですが、子どもの精神状態から何らかの障害が見受けられたそうです」
栄生さんはそう説明して、それから、俺に頭を下げた。
「長い時間、ご協力いただいてありがとうございます。今日はお帰りいただいていいですよ。また連絡するかもしれませんが」
「姉貴は……どうなるんですか……?」
状況は飲み込めたが、今後の予測が未だにつかない俺は、栄生さんに確認した。
「一応、無関係ということになります。ただ、加害者……間部ミナミさんと行動を共にされているのでしたら、保護した後に、立場に変化があるかもしれません」
慎重に言葉を選ぶ彼に、今度は俺が頭を下げた。
とにかく見つけてほしい。母親を刺してしまってショックを受けているだろう女児を、懸命に宥めている姉貴の姿が浮かぶ。善意がこれ以上こじれないように、俺にできることは、これぐらいしかない。