屍ケ台 3
芳賀さんの邸宅を出て、また細い小路を歩き始めた俺と姉貴。頭上から降ってきた気の早い落ち葉に、姉貴の肩がビクッと震えた。
「……んなビビるような話じゃなかったろ」
過剰な反応を咎めながら、でも俺自身も重苦しい気分を払拭できなかった。
「だって……」
姉貴は苛ついた様子で、目の前の小石を蹴る。
「私のマンションの建つとこで、よりによって食人があったなんて……。今度から肉料理が嫌いになりそうだわ」
「ほら、その程度の認識だろ?」
どこかズレてる姉貴の感覚を笑いながら、俺は言った。
「同じ土地とはいえ、時代が違いすぎるんだよ。気にすることじゃない」
「でも、江戸時代ってそんなに昔でもないのよ。たかだか……えっと? 何年前?」
「自分から反論しておきながら、答えを俺に求めるなよな」
呆れる。子どもの頃からこうだ。負けず嫌いの姉貴が吹っかけたトラブルを収束するのが俺。西暦換算して、差分を出す。
「2011―1868……150年ぐらいだな」
「ほら。芳賀のお爺ちゃんのお祖父さんが生きていた年代ぐらいじゃない」
「芳賀の爺さんを基準にするかあ?」
95歳の長老は、平均寿命82の日本においても特殊だと思うぞ。
「一般的なサイクルから見て、6代か7代ぐらい前の先祖の話だよ。そう思えば、ものすごく昔じゃないか」
「そうね……1代前も、そろそろ記憶が薄くなってるわ」
「……親父のことぐらい、覚えといてやれよ」
姉貴がボケで言ってると思いたいが、お袋といい姉貴といい、親父に対しての姿勢は、未だに辛辣だ。本当に忘れようとしているのかもしれない。
「酒に溺れたくなる時期ってのは、あると思うからさ……」
手の付けられないアル中だった親父。飲酒中に運転した車で他者を巻き込み、自身と3人の命を奪った。残されたお袋は、被害者からも親父の親族からも、自分の身内からさえも非難されまくって、結局、未だに精神を病んでいる。
「リョウちゃんはよく知らないから肩が持てるのよ。早死してくれたのはありがたいけど、最後まで大迷惑な人だった。大っ嫌い」
まったく『記憶が薄れてはいない』様子の姉貴は、忌々しそうに吐き捨てた。
「俺は、親父にいてほしかったと思うことが、たまにあるよ」
ぼそっと呟くと、姉貴は、
「代わりに姉を頼りなさい」
と虚勢を張って反り返った。苦笑しながら、それはもう無理だ、と内心で拒否する。
まだ親父が存命だった小学生低学年の頃、母方の親戚の家にあった大きな柿の木の収穫を手伝う家内行事があった。脆い幹先の実を取るのは体重の軽い子どもの仕事。でも、俺は怖がって登らなかった。親戚連中が揶揄する中、3つ年上で、そろそろ体も大きくなりかけて姉貴は、俺の名誉を回復するために、注意喚起も聞かずに枝に取り付いた。鮮やかなオレンジが地面に落とされたのとほぼ同時に、姉貴の体も骨折の音を響かせて落ちた。鎖骨と上腕と肋骨にヒビ。それ以来、俺は姉貴がしゃしゃり出そうになるたびに、怖気を吹っ切って自ら行動するようにしている。
「ところで、お爺ちゃんの話、参考になったの?」
考え事をしながら歩いていた俺の前に、急に姉貴が立ち塞がった。
「この土地に幽霊が出てもおかしくない曰くがあるのはわかったけど、それが私の家に来る理由は、やっぱりないと思うのよ。だとしたら、夜中のあれはお隣じゃないの?」
「もちろん、俺もそれが1番合理的な解釈だと思ってるよ」
そう断言しつつも、気の晴れないしこりが依然として残ることを、姉貴に伝える。
「なんて言うか……。相手が生身だとすると、しっくりこない感覚っていうのがあるんだよ。さっきの爺さんの話の、死体を並べた、って表現を聞いたときには、これだって思ったんだけど」
「ミイラ? 確かに音は軽い感じだったもんね。でも、忍び足で来てるのかもしれないじゃない? ゾンビの訪問よりは、私にはしっくり来るわよ」
姉貴はおどけたように肩を竦めた。
「音だけじゃないんだ」
自分の中にくすぶる警鐘を説明しあぐねて、俺は無意味に指を空回りさせた。
深夜にドア1枚を挟んで対峙したあの存在は、俺にとっては『恐怖』の対象ではなかった。『畏怖』だったんだ。強烈な悪意を発するそれに、体が痺れたように動かなかった。ドアを開けて姿を見てしまえば自分というものが破壊される。それぐらい絶対的な脅威だった。
「お前に説明してもわかんねえよ」
脳天気な顔の姉貴に悪態をつくと、
「わかるように説明できないあんたのアタマが悪いのよ」
と即座に言い返された。
来た時とは逆に、入り組んだ住宅街を抜けると、突然、農村地帯のような緩やかな風景が広がった。比較的、車通りの多い道路を挟んでの向こう側は、菜園や耕作放棄の田園が広がっている。ススキの群生が真昼の太陽を受けて金色に透けていた。冷たさの交じる秋風がその穂を揺らしていく。
「こっちの賑やかな方が、芳賀一族の住処で…」
背後を振り返って確認する俺の隣で、姉貴が反対側を指さす。
「こっち側が先住者の居住区ってわけね。私のマンションも含めて?」
確認するので、
「当然そうだろ」
と肯定しておいた。
「だったら、先住者同士で、もっと仲良くしてくれればいいのに」
古い家屋の庭先に、腰の曲がった老婆が立っている。こちらが会釈をすると、礼儀程度には反応が返ってきたが、すぐに目を逸らされた。
「自分たちが虐げてきた芳賀さんたちが、すぐ目の前で繁栄してるんだ。先住者同士が繋がれば、芳賀さんたちを刺激するとでも思ってるんじゃないの?」
俺は自分の至った結論を姉貴に話した。
明治以降の近代に入り、屍ケ台の人々は、それまでの行為を非難される立場になった。今でこそ芳賀の爺さんは『償い』を口にするが、当初は、そんな余裕はなかっただろう。人殺し、人食いと蔑まれた彼らが、その非難から逃れようとするには、お互いに罪をなすりつけ合う必要があったのではないか。
初期に力を持っていたのは先住者の方だったのかもしれない。だから、集落で温存していた資金を持ち出して、他所に移ることができた。その波に乗れなかった芳賀氏は留まることを余儀なくされる。そのうちに先住者の数が少なくなってくる。居残ったのが先住者の中でも力のない家庭だったのも容易に想像できる。そうなれば立場の逆転が起こるのは必然だ。
芳賀氏の台頭。それに対しての先住者の弱体化。開拓地の中で大きく敷地を広げる芳賀氏の横で、細々と田畑を営む先住者たちが、芳賀氏の視線を現在まで気にして暮らしていたとしても、俺はそれほど不思議には思わない。田舎には往々にしてある現象だ。
芳賀の爺さんが、この土地の歴史を広めようとしていることにも、関連があるのかもしれないな。実際の爺さんの話は、芳賀氏にも先住者にも偏らない、かなり中立な立場を取っていた。けれど、周囲はそうは見ないだろう。芳賀氏によって継承された事実が、芳賀氏に有利な内容に傾いていると見るのが普通だ。一方的に悪にされていると思い込んだ先住者たちが、ますます萎縮してしまうのは、仕方がないことだと思う。
そうなると、芳賀の爺さんと交流を持つ姉貴は、自分で思っている以上に、この地区で孤立しているのかもな。芳賀の爺さんから、いろいろ吹き込まれていると誤解されて……。
「なあ姉貴……、カイさんって、頼りになるの?」
夜中の訪問者の件だけじゃない。こういうしがらみの強い土地で、姉貴のように社交的に暮らしていくには、家族の支えが必要だろうと思った。
「カイさん?」
突然の話題転換に戸惑ったような姉貴は、すぐに苦笑して首を振った。
「……よくわからない。虐待の声が聞こえ始めてから、ずっと相談はしているのだけど、自分には関係ない的な反応ばっかりで……」
表情を曇らせて、視線を落とす。
「結婚前は、あんなに精力的だったのになあ」
変貌ぶりが、俺にとっても腹立たしかった。
「カイさんにとっては、私を手に入れることが1番の目的だったみたいよ。ほら、私って意外に誰にでも好かれるじゃない? そういう相手と結婚したら優越感に浸れるんでしょう?」
茶化しながら、でも寂しそうな本音を、姉貴は覗かせた。
うちに戻ってくれば、と言いかけて、やめる。
「……また泊まりに来てやるよ。カイさんがいないときに連絡くれ」
言外に義兄への嫌悪感を滲ませて言うと、姉貴は明るい顔になって、
「ありがとう。あんまり何度もリョウちゃんを使うのもなあ……と思ってたけど、そう言ってくれるなら遠慮なく」
と笑った。
「いいよ。ヒマだし」
普通に忙しい毎日だったが、なんだか俺も依怙地になった。体たらくな義兄と同列に成り下がりたくはない。