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屍ケ台  作者: 小春日和
現代
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屍ケ台 2

 明治45年7月30日。岩盤の掘削に当たっていた鉱夫たちは、その手を止めて新聞に見入っていた。『天皇崩御』の大きな見出しが一面に謳ってある。

「具合が悪いとは言われていたが……やっぱり亡くなったんだなあ……」

「明治はどうなるんだ?次の天皇は(よし)(ひと)様か」

「年号は変わるだろう。そういう決まりだ」

思い思いの話題に終止符を打ち、また鍬を振るい出す。明治天皇、(むつ)(ひと)が病床に倒れてから、自粛ムードの蔓延する中で仕事ができなかった。予定よりずいぶんと遅れている。

「こんな住みにくい村を開拓してどうしようっていうんだ、お役所は?」

自然とこぼれる愚痴。硬い地面を掘っても掘っても、現れるのは岩の亀裂だけ。麓には集落があったが、総勢で60人ほどの過疎地である。手を入れる意味はないように思えた。

「なんでも、ここは屍体の投棄場だったって話だ。役所としても、そんな土地を残しておきたくないんじゃねえか」

年嵩(としかさ)の行った鉱夫が抑えた声で言うと、反論する者もいなかった。


 この土地に芳賀氏の一族が住み着いたのは室町時代だったらしい。当時、芳賀氏は別の土地で地頭代を務めていた名家だった。

 地頭代というのは、と爺さんが改めて説明してくれた。平安末期から室町にかけての動乱の時代、時の権力者たちは、自分たちの優位性を安定させるために、穀物の取れる土地の所有権を欲しがった。幕府はそういう権力者たちを統率し、支配下に置くために、忠誠を誓った大名に、それまでに各々が手に入れた土地の所有を維持する保証を行った。つまり、絶対的な力を持つ公的機関が、曖昧だった不動産に対して登記を行ったということだ。

 土地を与えられた権力者(当時の言葉で御家人と表現したらしい)の中には、自分の住居のある都から遠く離れた場所の管理を強いられる者も少なくなかった。それはそうだ。群雄割拠の中で手当たり次第に略奪してきたものなんだから。幕府が確立し、都に中央政権が集中したからといって、都合よく近場の土地とトレードするなんてわけにはいかない。そういう地方の僻地を管理するのに、本来なら、御家人自身が該当地に出向き、生活をするのがもっともシンプルな方法だった。けれど、幕府との連絡を密にする必要があったために、当人が都を離れられないケースも多かったのだ。そういう場合に、御家人は自分の親族などで構成した『管理者』を現地に赴任させた。それが『地頭』である御家人の代わりを務めた『地頭代』である。

 初期の頃こそ、本領者である御家人の指示を忠実に聞いていた地頭代たちだったが、時代が下るにつれて、自身が土地の所有者であるかのような横暴ぶりを見せ始めた。年貢を納める際に本領者に申告する出来高を過少申告したり、法外な課税を小作人(実際に耕作していた百姓)に課したり。また、徴税だけでなく治安の安定に対しても権力を与えられた結果、年貢に反対する小作人たちを武力で制圧するようなことも行われたようだ。

 大きな財を成し、栄華を極めた地頭代の時代が終わりを告げたのは、豊臣秀吉が行った太閤検地によってだった。秀吉はこの制度改革で、年貢を本領者に直接納めさせるという手法を取った。このため、中間管理職の地頭代は職を追われる羽目になる。

 典型的な搾取者であった芳賀の一族は、本領者である御家人の元にも受け入れてもらえず、管理の厳しい豊臣、徳川の支配下の中、耕作に向かない荒地への定住を余儀なくされた、とのことだった。


「因果応報とはいえ、酷い時代だった」

爺さんは、話を始めた時と同じような凍りついた表情を、皺だらけの顔に浮かべていた。俺は、その中に、伝えてはいけない言葉を口にしようとする決意を感じた。犯罪を告白する前の人間は、きっと、こんなふうに無情な冷たい風貌を覗かせるんだろう。

「儂らの先祖が住み着いたこの土地には先住者がいた。樹木の恵みのないここは、常に風害と水害の脅威に晒されていたそうだ。そんなところに定住していた先住者がまともな人間たちじゃないのはすぐに知れたが、それでも先祖たちは、やっと受け入れてくれた土地を離れることができなかった」

自らも多大な罪を犯してきた一族が共存した相手は、でも、話が進んでいくうちに、俺の想像をはるかに超えた醜怪な輩たちであることが伝わってきた。姉貴は心なしか青ざめながら、吐き気をこらえるかのように口元を覆っている。


 室町時代末期。太閤検地が浸透してから数年が経っていた。国を追われたときは50人からの大所帯であった芳賀一族は、放浪を重ねるうちに死別や逃亡を繰り返し、20人ほどに目減りしていた。経過途中、盗みや追い剥ぎに走ったこともある。彼らは生きることに貪欲になっていた。

 先住者はそんな芳賀一族と同じ目をしていた。地区を分けてではあるが生活を共有していくうちに、彼らのそれまでの行状が明確になる。ざっと言えば、彼らは野盗だった。戦国の乱世において大きく膨れ上がった犯罪集団。織田信長の治世以後の駆逐で勢力を削がれてはいたが、多くの者は未だに近隣の山野に潜み、山賊を生業としていた。

 気性の荒い彼らとの関係は、自然、芳賀一族の弱体化を招いた。なにせ、彼らの集落の女に誘われて手を出しただけで、問答無用の斬撃に見舞われるのだ。わずかな芋畑の占有権も、当然、彼らの物だった。芳賀一族は常に困窮していたが、彼らの悪事に加担することで、なんとか餓死者を出さずに済んでいるといった惨状だった。


 台地の上を強い風が吹き荒れる。江戸時代中期。

 この集落に1人の旅人が訪れた。…いや、旅人だったものが入り込んだ。疲労からか瀕死状態だった彼は、すぐに息を引き取る。集落の人間は、彼から金目の物を奪い、着物を剥ぎ、髪まで剃った。売れるものをすべて切り取られた彼の惨めな遺体は、どの家屋の敷地にも捨て置かれるのが嫌だという理由で、台地の上まで運ばれた。

 当時、相当の標高のあったその場所は、秋口に取れた野菜の乾燥所になっていた。湿気が低く風の絶えない環境が、岩盤を突き抜けるほどの強さを持った野草や収穫物を、1日で干物へと変えてくれたからだ。

 冬の保存食の傍らで干からびていく遺骸。遺棄当初は猪の餌にでもなるのだろうと思われたそれは、どんな運が働いたのか、捕食されることもなく、綺麗なミイラとなっていった。

 真冬。集落にとって1番辛い季節。もともと、わずかしかなかった食料の備蓄は、早い段階で底をつく。山賊稼業も思わしくない。旅人が雪深い山を避けて正規の街道を通るからだ。村の男たちは、その街道辻まで遠征する日が多くなった。当時は、大通りとはいえ、日が暮れてからの往来はごく少数だったそうだ。特に足並みの乱れるポイントを狙って待ち受ければ、リスクを最小限にして成果を得ることができた。

 残された女や年寄りはじっと待つしかなかった。生まれたての赤ん坊が凍死や餓死するのも珍しいことじゃない。そのために女はたくさんの子どもを産んだ。現代では到底イメージできないけれど、貧困の中の人間の営みは、動物のそれと変わらなかったらしい。

 そんな中、寒風荒ぶ台地に、何か飢えを凌ぐものがないかとやってきた先住者の1人が、臀部を切り取られた例のミイラを見咎めた。明らかに人の手による損傷。村へ下り、仲間を問い質すが、誰も事情を知らないという。先住者たちは、今度は芳賀の一族のエリアにやってきて、同じように詰問した。子を生んだばかりの母親が、当たり前のように答える。

「ああ、食った。食わなければ乳が出ない」


「飢饉の時に、人間が同族を食うことは、たまにあったらしい。けれど、ここの集落ではそれは禁忌だった。許せば、お互いを食い合うことになる。だが、少人数で定住せずに放浪してきた先祖には、そういう理屈がわからなかったんだな……」

爺さんが力のない声で呟いた。


 街道での強盗稼業を終え、村に戻ってきた男たちが見たのは、怯えて家に引きこもる芳賀の一族の面々と。

 腹を割かれて放置された母子の遺骸だった。


 緊急で合議が開かれる。食人に対して強い嫌悪感を示す先住民に、芳賀が懐柔にかかる。

「儂らの先祖が治めていた土地では、時折やって来る薬売りが、人間の肝や心の臓から作った丸薬を売っていた。手先のできあがったばかりの胎児を見たこともあるらしい。今も、江戸城下では、幕府がそういう物を許可していると聞く。仲間を殺して食えとは言わん。だが、行き倒れや襲撃で絶命した者を食うことは許してもらえないだろうか」

芳賀の一族の中には『生きることが価値』という信念が根強かった。このような惨劇があったとしても、時が経てば、また同じ事をする輩が出るだろう。

「そのような話は信用できん。薬売りなど、この集落には来たことがないし、話も聞いたことがない。人間が人間を食うなどと、幕府が認めるものか」

一方で先住民の懐疑心も強固だった。

「だったら江戸へ出て確かめようではないか」

芳賀の提案に先住民も乗る。

 そして、江戸に出た彼らが見聞きしたものは、処刑した罪人の肝臓が労咳(結核)の薬として高値で取引されているという事実だった。


「なぜそんな知恵をつけてしまったのかのう……」

芳賀の言い分が通ったはずなのに、爺さんは暗い表情を変えなかった。

 死体が金になると知った先住者は、江戸市中で商いをしていた薬売りに声をかけた。集落にはたくさんの死体がある、と。それはそうだ。略奪を生業としている彼らは、他所者を殺すことを厭わない。事情を知らない薬売りは興味を示した。結局、それが買い手の第1号となった。以降、噂を聞きつけた同業者が途切れることのない訪問を繰り返す。

 集落は潤い、人々は活気づいた。台地の上には、いつも、腐らせないように戸板に並べられた遺体が、かさかさと(しぼ)んだ音を立てていたそうだ。


「明治政府が正式にそれを禁止してから、この土地は忌地として扱われるようになった。儂らの子どもの頃に、もう台地の高さは半分になっておったが、それでもここは、屍の台地、『屍ケ台(かばねがだい)』などと揶揄されていたよ」

老人の話が終わる。

 俺は芯から冷えた自分の腕を無意識にさすっていた。……姉貴のマンションの住所は『川根ケ台』と言った。

「芳賀さんの一族は、この辺りに居残ったんですね。なぜ?」

死体売りで潤沢な資金を得たはずの彼らが、忌地を出ることもなく留まっていることに、疑問を持つ。

「儂らは罪を償っていかねばならんからな」

老人は、やっと明るい笑顔を取り戻して答えた。

「この話も次の世代に伝えていかねばならんのだが、家族でさえ聞きたがらん。まったく情けない」

サチさんと涼二くんが聞いてくれて良かったよ、と話を振られて、俺は頭を掻いた。姉貴もバツが悪そうな顔をしている。

「あ、もう1つだけ聞いていいですか?先住民の方々は、今はこの土地には?」

芳賀一族にとって微妙な立場だったはずの彼らの行く末が気になった。

「大方は他所に行ったが、一部分だけ残っている。サチさんのマンション周りに固まっておるよ」

爺さんの説明で、俺にはすべての事象が繋がった。


荘園制度(地頭や地頭代)や労咳の薬等の記述は、一応、史実を元にしています。ただ、この話のケースは完全にフィクションです。

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