屍ケ台 1
順調に週末の休みが取れた俺は、この日、95歳の長老宅を訪問するために、姉貴の家を訪れた。世間一般的にも休日に当たる曜日だからだろう、いつもすれ違ってばかりの義兄にも挨拶することができた。
「カイさん、久しぶり」
姉貴と同じ呼び方で馴染むと、若干、小柄な義兄は背中を丸めて、
「久しぶりだね、リョウくん。君までサチの酔狂に付き合うとは思わなかったよ」
と妙に引っかかる返事をよこした。
俺は実はこの人をよく知らない。熱心に姉貴にプロポーズしていたのは見ていたけど、姉貴はむしろ、最初は冷淡だった。カイさんの情熱にほだされたのだろうか。男の俺から見ての彼の魅力は……まあいいや。結婚した後に論じる話題でもない。
義兄の反応に噛み付く姉貴。
「すぐにそういう冷めたことを言う。虐待の声を聞いたときもそうだったよね。関係ないからほっとけ、とか。カイさんは人間的に冷酷だと思う」
義兄は軽く肩をすくめただけだった。夫婦げんかに巻き込まれるのも不毛なので、姉貴を促して早々にマンションを出る。
入り組んだ住宅街の路地を、いくつも曲がった。
「ここらへんは古くからの居住区みたいで、道が狭いのよね」
姉貴が言った矢先に、侵入してきた車が体側ぎりぎりのところを掠めていく。マンションから見るかぎりは一面のススキ野原に囲まれた開放的な土地だと思っていた。でも一歩奥に入ると、こんなにゴミゴミとした風景になってたんだな。
近所という触れ込みだったが、ずいぶんと歩く。
「結構遠くない、その爺さんの家?」
姉貴の生活圏から外れようとしているのを見咎めると、振り返った姉貴は笑顔を作っていた。
「だって、うちのマンション評判悪いんだもん。近くの人はあんまり親しくしてくれないのよ」
「………何それ?」
意味がわからず問い返す。
姉貴の話によると、引っ越した当初から感じている違和感があるそうだ。マンションのそばには戸建ての家屋がいくつか散在している。近所に顔を繋いだほうがいいと思った姉貴は、それらの家々に、機会があるときに出向いて交流を計ったらしい。最初はにこやかに対応してくれていた相手は、姉貴がマンション名を口にすると、急に表情を曇らせた。中には姉貴自身に距離を置く態度を見せ始めた家庭もあるようだ。
「それ、かなり重要な情報じゃねえ? 姉貴のマンションが近隣に疎まれているってことだろ? その原因と訪問者の件が結びつくんじゃないか?」
勢い込んで言う俺に、姉貴は、
「うーん……そうかなあ……」
と懐疑的な返答をした。
「だって、うちのマンション、ゴミ出しのマナーも悪いし、不良学生が夜中に溜まったりもするのよ。そういうことで嫌われてるんじゃない?」
現実的な理由を突きつけられると、俺自身の考えも尻すぼみになる。『幽霊屋敷』なんて遠因より『迷惑行為の横行』のほうが、近所にとっては、よっぽど敬遠する原因になるだろう。
両脇に立ち並ぶ家屋が、やや歴史がかってきた。住宅地の奥は、古くから人が住み着いていたとの説明通り、5、60年は経っていそうな趣を連ねている。
車が入れないぐらい細い小路。幹の黒ずんだ路傍の柿の木。
一軒一軒の敷地が広い。通り過ぎた屋敷の立派な門構えの奥には、日本庭園が覗いていた。
「爺さんの家もこんなんなの?」
ちょっと不安になってきた。親父を早くに亡くした俺たちは、金持ちの生活に縁がない。今日の服装は思いっきりカジュアルだし、それらしい話題も用意してない。
「お爺ちゃん……芳賀さんっていうんだけど、芳賀さんの家はこのへんで一番大きいよ」
構えたふうもなくそう答える姉貴の格好は、エプロンを外しただけの内着だった。
「俺、失礼に当たらない態度なんか取れないぜ?」
そんな爺さんにどうやって話しかけろっていうんだよ? 臆していることを伝えると、姉貴は高笑いしながら、
「大丈夫よ。リョウちゃんがビビるような人に、私が話しかけられるわけないでしょ?」
とフォローした。俺はお前のほうがよっぽど肝が座ってると思ってるよ。
瓦屋根の乗った格子戸の門扉を開けると、姉貴は慣れた調子で、砂利の敷かれた庭先を横切った。平屋の堂々たる日本家屋が目の前にそびえている。
磨りガラスを嵌め込んだ引き戸に手をかけてから、思い直したように、すぐ横に設置されたインターホンを鳴らした。
「いつもは挨拶してそのまま玄関に入っちゃうんだけど、今日はあんたも一緒だもんね。一応、礼儀」
人懐っこい姉貴の態度は、出迎えてくれた芳賀氏の家人の対応で納得が行った。
「やっと来た。待ってたわよ。お爺ちゃんも朝からご機嫌だったんだから。さ、上がって」
50前後の穏やかな雰囲気の女性が俺たちを招き入れてくれる。年代と会話からいって、芳賀の爺さんの孫ってところか。軽く会釈をしてついていく俺の前で、姉貴と女性は華やかな声を上げながら世間話を始めた。そっか。そういえば姉貴は独身時代から男女問わず人気のある性格だったな。
襖で仕切られただけの部屋が、奥に向かっていくつも並んでいる。
「本当は客間に上がっていただきたかったんだけど、お爺ちゃんがどうしても自分の部屋に来てほしいっていうもんだから。ごめんなさいね。こんな薄暗いところまでお通しして」
女性、やはり芳賀氏の孫娘だと名乗る彼女は、俺に向かっても親しげな声をかけてくれた。
「いえ。こういう造りは珍しいので、拝見できて喜んでいます」
俺が答えると、姉貴が口を挟んだ。
「歴史に興味が有るくせに、資料館みたいなとこにはあんまり行かないのよね、リョウちゃんは」
そうだ。今日の俺の立場は『歴史好きで郷土の古老に史料を提供してもらっているアマチュア』だったな。
「江戸期の資料館なんかにはよく行くさ。でも、実際に人が住んでいる家屋は貴重だろ」
そう言い訳すると、孫娘は感心したように、
「本当にそういうものが好きなのね。わたしなんか、こんな家に住んでいても、ちっともありがたさがわからないから、尊敬しちゃうわ」
と言ってくれた。本当はボロが出ないように内心ヒヤヒヤしてるんだけどね。
10以上の部屋を通った気がする。どの部屋も縁側から差し込む陽の光が、障子を通して室内に流れ込んでいた。現代家屋のようなサッパリとした明るさはないが、控えめな白い波長の光源が心地良い。
爺さんの居室は一番とっつきにあった。孫娘が襖を開けると、そこだけ、障子窓のない陰気な闇が漂っている。
「こんにちは、サチさん。待ってたよ」
床の間を背にした老人が、ゆっくりとした動作で立ち上がった。背が高い。高齢を感じさせない姿勢の良さに、俺は目を奪われた。90を越えて生きる人間っていうのは、やはり、こんなふうに頑強なのかもしれないな。
「こんにちは、芳賀さん。こっちが話してた私の弟です。今日はお世話になりますね」
姉貴の紹介に、雰囲気に呑まれて呆けていた俺は、慌てて頭を下げた。
「涼二といいます。時間を取っていただいてどうも」
間抜けな挨拶を後悔しながら老人をちらりと見ると、無表情だった顔に笑みが差していた。
「サチさんに似て礼儀正しい弟さんだね。しかも、若いのに勉強家なんだろう? 会うのを楽しみにしていたよ」
とりあえず批判的な態度を取られなかったことに安堵しつつ、でも姉貴の図々しさと同列に評価されたことに対して不満を感じた俺は、
「姉よりははるかに礼儀は心得ているつもりです」
と爺さんの言葉を訂正した。即座に姉貴から無言のパンチが飛んできた。
大きな座卓に出された茶と菓子を脇によけ、爺さんが古書の類を次々と積んでいく。町の郷土史。古地図。古文書。そして先代が書いていたという日記まで。
まさかマンションに現れるお化けの由来を調べたいとは言えなくて、便宜上、俺の興味と引っ掛けての来訪だったが、歴史に対して、俺はあながち無知でもない。と言っても高校の日本史レベルだが。学生時代、史跡巡りを趣味としている教師に授業を受け持ってもらえた縁で、教科書の活字でしか情報を与えられなかった同年代よりは明るい知識を持っている。
古老に、
「この辺りは、昔、山だったと聞きました。それを削って宅地にしたとか。いつ頃のことなんですか?」
と尋ねると、彼は、それがつい昨日だったかのような俊敏さで記憶を取り戻した。
「儂が生まれる数年前だから、明治の末期の頃だろう。それまで、この土地は……山というよりは小高い台地だった」
なるほど。俺は頷いた。不動産屋の説明と一致する。今では周辺の土地との標高差はないに等しいが、山地だった頃は、木も生えない硬い岩盤の斜面が覆う、ハゲ山、だったそうだ。
「芳賀さんは、その明治末期の開拓以前からこの場所に住んでみえたんですか? あまり住居には向かない環境だったと聞いていますが」
踏み込んでみると、爺さんは能面のような無表情になり、黙って古地図を開いた。手書きの細かい地名がびっしりと書きこまれている。『荒谷』『石神』などの文字が複数見えた。
「この辺りは粘土質で米が取れず、水はけも悪かったから、雨が降るとよく浸水したらしい。儂らのご先祖も、他所の土地を追い出されたのでなければ、こんなところには住み着かなかっただろう」
言葉の端に微かな悪意を乗せて、そう生き字引は切り出した。
そして、数百年にも及ぶここでの過酷な生活を語り出した。