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屍ケ台  作者: 小春日和
再び現代
25/25

川根ケ台 終

 救急車に乗っている間も、診察を受けている間も、それほどの疲労は感じなかったが、入院用のベッドを用意された途端に糸が切れた。点滴の装着をしている看護師に、

「今日、何日ですか?」

とだけ聞いて、意識を手放す。

「えっとね、1月のじゅう…」

…年が開けているみたいだ。屍ケ台に引き込まれてから、1ヶ月半ってところか…。


 体より先に覚醒した脳が、枕元の声を拾った。

「急に寒くなったわね。明日から冬型の気圧配置ですって」

とサチ。

「センパイが帰ってきた後でよかった。きっと、寒さもそれまで待っててくれたんですね」

彩ちゃんもいる。

「そんな神がかり的なことが起きるわけないでしょ?リョウちゃんごときに」

「あ、ひどい」

2人の笑い声が響く。

「冗談はともかく、本当に、不思議なぐらい都合のいい異常気象だったわね。だって、まだすすきが残っているんだもの」

「お願いしてたんです。なるべく、センパイがいなくなった時と同じ風景を残しておいてって」

「…『神様』に?」

「はい」

「…貴女が神様みたいよ、彩ちゃん」

交互の会話を、姉貴の柔らかい言葉が締めくくった。


 名前を呼ばれて目を覚ますと、30代ぐらいの白衣を着た男が横に立っていた。主治医だと紹介される。

「警察の方が話を聞きたいそうなんですが、起きられますか?」

「ええ、大丈夫です…」

起き抜けの頭を振って半身を起こすと、見覚えのある若い警官が入ってきた。今日はコートを着込んでいる。

「お疲れさまでした。一応、お姉さんのほうから事情は聞いています。…表向きは精神の錯乱状態における幻覚となってますけどね」

栄生さんは苦笑して、なぜか深々と頭を下げた。

「というのも、水嶋さんは自力で帰ってこられましたが、お姉さんと間部ミナミさんは、マンションの軒下から、半分、土に埋まった状態で発見されたんです。我々の捜査ミスでした。本当に申し訳ありません」

「…いや…。たぶん、捜査時はそこにはいなかったと思います」

俺自身も何度もマンションの周辺を探している。姉貴たちが見つかったのは、やはり、屍ケ台から戻ってきたからなんだろう。

「むしろ、早急に見つけていただいて感謝します。せっかくこっちに戻したのに、生き埋めで手遅れになったんじゃ報われない」

笑って答えると、栄生さんは、じっと俺を見てから、

「…本当に『あちら』にいらしていたんですか…。そういうこともあるんだなあ…」

と嘆息した。

「実はですね。お姉さんたちを早期に発見できたのは、署に匿名の電話がかかってきたからなんです。すぐに捜索をしなおしてほしいと。調べたんですが、発信元は存在していませんでした」

腑に落ちた表情で、そう続ける。

「年配の男性の声だったんですが、心当たりがありますか?」

聞かれて、俺は即座に頷いた。

「親父です」

「そうでしたか」

彼は追及もせずに納得してくれた。


 覚醒から半日もすると、食事の許可が出た。サチが再訪して、世話をしてくれる。

「お前ってどれぐらいで退院した?」

今日明日中にも病院を出られそうな気配を感じていた俺は、サチに確認した。が。

「2週間」

と言われて驚く。

「そんなにかかるの?俺…今何日目だっけ…?」

カレンダーに記した入院日数は2日を指していた。

「ううん。体調は一週間かからずに戻ったの。だけど、ミナミちゃんと退院を合わせてあげたくて」

そう答える姉貴の表情は曇っている。

「…ミナミ…え?無事に退院できたんだろ?」

その態度に、焦って問い質すと、

「当たり前でしょ。そういう問題じゃないのよ」

と盛大に溜息をついた。

 ミナミの入院が長引いたのは、退院後の引き取り手がなかったからだそうだ。虐待の継続が危惧される間部アリサには、さすがに養育を続けさせるわけにいかない。通常なら他の身内、つまり、父親のいないミナミにとっては唯一の肉親となるアリサの母親が候補になるのだが。

「担当してくれた刑事さんが、そのお祖母ちゃんのことを不適任だって言い張ってくれて。話を聞いてみたら、間部さん以上にすごい人みたいね。だから、保護施設の空きが出るまで病院に留まることにしたの」

「ああ、そう…」

栄生さんの采配に感謝した。よかった。あの婆さんに預けられることにならなくて。

「それで、今は施設のほうに?」

と姉貴に聞くと、

「うん」

と答えたが、なぜか表情は迷ったままだ。

「…なんだよ?」

聞き返すと、こんな答えが返ってきた。

「ミナミちゃん、お母さんとの生活をやり直したいって、望んでるんですって」

「………」


 俺は、たえさんの言葉を思い出していた。『現世は希望』。

 ミナミは希望を見出したんだろうか。だから戦う勇気を得たんだろうか。


 「どう思う、リョウちゃん?」

サチの質問に、素直に感想を伝えた。

「すごいな、あいつ」

姉貴の潜めた眉が、大きく開く。

「…そうね。強いわね。あんなに子どもなのに」

「俺たちって、何やってたんだろうな」

「家族で殻にこもって、お父さんを盾にして、イジケ放題で?」

「そうそう。やりたいことも明確にせずに、なんとなく大人になって」

「結婚して、子ども作って、ただ歳を取っていく将来?」

笑いながら自虐するサチに、同じく笑いながら同意する。

「そうだな」

すると、本当は決して価値の低くない姉貴は、ふと真顔になって、俺を見返した。

「だったら、リョウちゃんにはもっと感謝しなくちゃね。私とミナミちゃんに、『これから』を返してくれたんだから」

突然の言葉に黙るしかなかった俺に、さらに続ける。

「助けてくれてありがとう」

ちゃんとお礼を言っておかないと寝覚めが悪くって、と嘯く姉貴を見て、なんとなく、親父を越えたかな、と自惚れた。


 実際の問題として、ミナミの今後はどうなるのか、と話を戻す。

 サチに連絡してきた栄生さんの説明によると、間部アリサは、現在、臨床心理士の元で治療を受けているのだという。

「なぜ虐待をしてしまうか、って、心理的な要因があるそうよ」

聞き齧りの知識を披露する姉貴。

「自分自身が虐待されて育ってきた場合がまず一因。他の育て方を知らないから、虐待を真似してしまうんですって」

「ああ、確かに」

アリサの母親を知っているから納得できる答えだ。でも、サチは断じる。

「いい母親になる方法なんて、いくらでも勉強できるじゃない。病院でも教えてくれるみたいだし、育児本もたくさん出てるし。なにより、虐待の定義なんて巷に溢れてるわけでしょ?それを学びもしないで、親の間違いをそのまま子どもにぶつけるのって、単に勉強不足じゃないの?」

…正論、なのかな。…うん、そんな気もする。

「他にホルモンの不足っていうのもあるみたい。母性本能ってオキシトシンって女性ホルモンが作用するから充実するんですって。赤ん坊に母乳を与えたり抱きしめたりすると活性化するらしいんだけど、しないと、逆に不足するとか」

科学的な話に、単純に感心する。

「じゃあ、オキシトシンとやらを投与すれば、アリサはミナミを可愛がるようになるのか?」

「だったら簡単だけど、これって男女の性行為にも関係してるらしいわよ。オキシトシンが増えると精神的な満足感が増すんですって。間部さん、時々、恋人らしい(ひと)が来てたもの。今度はそっちに夢中になっちゃって、ミナミちゃんに目が行かないってことになったら、困るじゃない」

生々しい話に、まだそれほど免疫のない俺は赤面した。

「じゃあ、どうやって愛情を持たせたらいいんだよ?」

「うん、だからね」

姉貴は満面の笑みで…言いやがった。

「リョウちゃんが間部さんと結婚すればいいんじゃないかなあ」

「………」

 …戻ってこなきゃよかった。一瞬、本気でそう思った。


 彩ちゃんは笑い転げている。

「お姉さんらしいっ」

「…笑い事なんだ」

もう少し不機嫌になってくれるかと期待していただけに、なんだか虚しい気分になる。

「冗談でも、その発想はないよなあ」

「センパイの人生って、お姉さんの持ち物みたいですね」

「彩ちゃんはそれでいいのか」

ついイジけて尋ねると、

「だって、冗談なんだもん」

とキスをしてきた。

 抱きしめて、久しぶりの感触を堪能する。

 「屍ケ台にいる間、さ…。実は、彩ちゃんのこと、ほとんど思い出さなかった」

そう告白すると、彼女は寂しがるような表情を見せた。

「どうしてですか?」

「自分のことで手一杯の俺に、君のことを考える資格はないと思ったから」

説明しながら、そういうことだったんだ、と改めて納得する。

 姉貴の生存を知らないうちは帰ることを望めなかったし、たえさんを救おうとしていたときは自分を捨てなきゃならなかった。だから本心を無視した。本当は、こうやってずっと触れていたいぐらい恋しかったのに。

 ただ。

「俺、彩ちゃんのことは大好きだけど」

うまく通じるかわからないけど、言っておかなきゃならない。

「もし、今後、彩ちゃん以外に俺を必要とする相手が現れたら、その時はどっちを選ぶかわからないんだ。その…」

俺は目先のことに振り回され過ぎてる。その性格を直せる自信もない。

「…こういうことを言う俺より、見合いの相手のほうが、彩ちゃんにとってメリットになるんじゃないか、と…」

思いたくないけど、考えてやらなきゃ。

「だから、…俺と付き合っていくことを…その…白紙に戻してもらっても構わない…」

なんとか伝えきると、彩ちゃんは、

「ヤです」

と一言で切り捨てた。

 …うん。たぶん、俺、それが聞きたかったんだと思う…。

 「サイテー…」

と頭を抱えて自嘲すると、彩ちゃんは俺を覗き込みながら、

「安心した?」

と微笑んだ。…お見通しかあ。

「…だったら最初から見合いなんかするな」

心の狭さをことごとく露呈すると、

「うん」

と、とびっきりの笑顔を返された。

 ベッドの上に押し倒した彼女に、何度も口づけをする。

 …戻ってこられてよかった。心からそう思った。


 順調に回復し、翌々日には退院の許可が出た。昼食を終えて帰り支度を済ませていると、カイさんが迎えに来てくれた。

「サチとは相変わらずなの?」

車に乗り込みながら聞くと、

「最近、例の…近所のお爺さんから、曾孫の嫁になってくれって言われてるそうなんだ…。立場ないよな、俺…」

と意気消沈する。悪いけど大笑いさせてもらった。

 実は、サチからは本音を聞いてる。

「カイさんと別れる気なんかないわよ。でも、少し懲らしめるぐらいはするかも」

 俺からは、カイさんに、

「100歩譲ってカイさんが兄貴でもいいよ」

とフォローしておいた。兄貴は焦った様子で、

「もう少し評価を上げてくれ」

と訴えた。


 家に着き、荷物を下ろす。入院中は見舞いに来なかったお袋の顔を久しぶりに見ると…少しふっくらとして、血色が良くなっていた。

「…もっと参ってるかと思ったよ。見舞いにも来られないぐらいだっていうから」

それなりに心配していたこともあって、つい愚痴を零した。

「病院は嫌いなのよ。サチがいなくなった時のことを思い出すから」

お袋は朗らかな笑顔で答えた。

 あれ?こんな表情を見たのは久しぶりだ…。

「もしかして、うつ病、よくなってるのか?」

何十年も患ってきたものが治ることなんてあるんだろうか、と思うが、尋ねると、母さんは明るい声で答えた。

「うつ病じゃなかったのよ。わたし、神様の加護が薄かったらしいわ」

「はあ?」

訳がわからない。

 でもまあ、元気そうならそれでいいや。


 家を出て、会社に出向いた。出社中の先輩に挨拶をしておきたかった。

 地下駐車場に車を突っ込み、エレベーターの上昇ボタンを押すと、急に開放感を覚える。終わったんだ、と実感した。正常な生活に戻れるんだ、と。

 オフィスのドアを開けると、先輩と、それから臨時に投入された応援要員の青年が顔を上げた。彩ちゃんと同じぐらいの歳か。

「よう。お帰り」

席を立つこともなく、当たり前のような声で、先輩は出迎えてくれる。

「世話かけました」

俺の態度はそういうわけにも行かない。丁寧に頭を下げると、手近の椅子を勧められた。

 キーボードを打つ手を止めない先輩に、つらつらと掻い摘んだ説明をする。

「ふうん」

とか、

「マジで?」

とか合いの手を入れていた彼は、屍ケ台が消滅したことを話した時だけ、頭を上げた。

「実はよお、調べてみたら、俺の住んでいる土地も第二時世界大戦の時に特攻隊の滑走路があった場所らしいんだよ。案外、身近にあるもんだな。負の歴史の遺産っていうのは」

そう溜息をつく。

「俺は奥さんがいなくなっても『その世界』まで探しには行かねえけど」

と苦笑いする先輩に、俺は首を振った。

「いざとなったら、そういうわけにも行かないもんですよ」

「そうかねえ」

懐疑的な返事の後に、

「お前が特別に人がいいんだろう」

と付け加えられた。

 そのタイミングで、応援の彼からコーヒーが差し入れされる。…けど。

「なんで煙草?」

未開封の箱が目の前に置かれた。先輩の愛飲する銘柄じゃない。

「以前、吸っていたと聞きましたから」

剣のある声で、そう言われた。

「ああ、うん。でもやめたんだよ。だから返す」

青年に箱を差し出すと、舌打ちをして、自分の机に戻っていった。なんだ???

 先輩が耳打ちしてきた。

「彩っぴに惚れてんの、あいつ」

「え?あ、それで…」

俺を敵視する意味はわかった。でも、

「わかりにくいジェスチャーだな」

と零すと、低い笑い声が漏れる。

「彩っぴが、お前が煙草をやめた理由をあいつに説明したからさ。それもラブラブな声で」

「………」

納得。

 確かに、禁煙は彩ちゃんのためではあった。俺も先輩も、彼女が配属されるまでは結構なヘビースモーカーで、事務所はいつも煙が巻いていたほどだ。気管支が弱く、事務所に入るたびに咳き込んでいた彩ちゃんが気の毒になって、発作的に、彼女の目の前で、手持ち分を全部捨てて、もう吸わないことを宣言した。

 「ほらな。そういうパフォーマンスが評価されてるんだよ、お前は」

先輩が、皮肉めいた言葉で、そう言った。

「でも、狙ってないんですけどね」

言い訳すると、

「ウケを狙ったら女心はゲットできんよ」

とフォローされた。

 青年(ライバル)がわざとらしく咳払いをする。


 事務所を出て、エレベーターのボタンを押して待っていると、青年が走り寄ってきた。

「いつから出社されるんですか?」

ひょろっとした長身に見下ろされて、ちょっと居心地の悪さを感じながらも、顔には出さずに答える。

「明日からでも、と思ってるけど、そっちの人事整理もあるだろ。連絡待ち」

「僕は本社には帰りたくありません。水嶋さん、本社へ転属願い出してくれませんか?」

「………」

こういう直情型の馬鹿を初めて見たこともあって、呆れるより感動した。

「それは彩ちゃんと離れたくないから?」

一応確認すると、当たり前のように、

「そうです」

と即答した。

 相手にする気が失せて、ドアの開いたエレベーターに乗り込む。すると、彼も入ってきた。ぎょっとして、ドアが閉まらないように開放ボタンを押し、

「仕事に戻れよ」

と諌めた。…が、聞く気はないみたいだ。

牧村(まきむら)さんと結婚されるつもりなんですか?」

彩ちゃんの姓を出して、さらに質問を重ねてくる。

「つもりっていうか、俺の中では決定事項だから、それ。つか、早く出て」

声を荒らげても動じる気配もない。

 …逃げるのは諦めよう。俺も、いったん、エレベーターから出た。

「…で、何がしたいの、あんた?」

ドアが締まり、無人のまま下降していくワイヤーの音が寒々しい廊下に響く。

「水嶋さんは、牧村さんのこと、どれぐらい知ってるんですか?」

小馬鹿にしたような響きを含んで、彼が聞き返す。

「歳と性別と大食いってとこ」

答えながら、そういえば、俺って彩ちゃんのことほとんど知らないな、と認識した。

「宗教やってますよ、彼女」

青年が勝ち誇ったように言った。

「ああ、それはなんとなく知ってる」

頷くと、途端に不機嫌な表情になった。

 『神様はいますよ』と信じきっている彩ちゃんを見ていると、不思議なことに、既存の宗教団体に対する偏見そのものが霧散していく。そりゃあ、借金まで作ってのめり込むというんじゃ問題だけど…でも、そこまで状況が悪化していたとしても、一緒に返済してやってもいいと思うほど、彩ちゃんの信仰に対する抵抗感はなくなっていた。

 「何度も注意したんですけど、やめる気がないみたいなんですよ、牧村さん。水嶋さんならやめさせられますか?宗教と結婚したら破滅ですよ」

あえてだろう、大仰に警告する青年に、…理解はしながらも、引っかかりを覚えた。彩ちゃんの構成要素を否定するだけのやり方が、彼女を傷つけているのがわからないのか。

「…宗教って一概に言うけど、彩ちゃんの信仰対象って神様?仏様?神道か仏教か、国教以外かによっても規模の大きさが全然違うし、足抜けの方法も変わる。本人を説得できても、組織からの関与が止まらない場合もある。そういうことを考えた上で、彩ちゃんにやめろって言ってんの?」

不愉快な気分のまま畳み掛けると、彼は鼻白んで、

「ま、まずは本人でしょ。それに、こういうことは個人の問題で…」

と声が尻すぼみになった。

「個人の問題に口を出すなよ。『部外者』が」

言い捨てて、またエレベーターを呼ぶ。

 今度は乗っては来なかった。


 日を改めて、姉貴と一緒に、芳賀さんの邸宅に挨拶に行った。

 カイさんが曾孫の存在に恐々としていると伝えると、爺さんは豪快に笑った。孫娘も穏やかな笑みを浮かべて、でも、

「冗談ってわけじゃないのよ」

とサチに繰り返した。サチの断る姿が慌てていたことに、内心、安堵する。

 芳賀さんは、他に、管理人の藤原さんのことを教えてくれた。今回の件に懲りて、敷地内に慰霊碑を建てる計画をしているのだそうだ。

「亡くなった先祖たちの資料を起こしてくれと頼まれたよ」

爺さんは満足そうに目を細める。

「それ…手伝わせてもらえませんか?歴史の中でいいから、もう一度会いたい人がいるんです」

たえさんが生きてきた軌跡を見つけられるかもしれない。胸が高なった。

「ぜひ」

長老は快諾してくれた。

 手入れのされた庭先に、冬の旋風が根を下ろす。甲高い叫び声を上げる空気に眉を寄せた孫娘は、立ち上がって、窓を開けた。

「あら。意外に暖かい風…」

立春を間近に控えた小春日和の陽光が、冬を押し流そうとしていた。

「過去を省みることによって、ここも、ようやく生まれ変わることができるな」

爺さんの声が穏やかに響く。


 姉貴と一緒にマンションに戻り、カイさんも交えて、次のアクションまでの時間を待った。

 芳賀さん宅の訪問を今日にしたのは、他にも用事があったからだ。数日前、栄生さんから姉貴に連絡があった。ミナミがアリサに引き取られることが決まったのだという。栄生さんは、迷惑をかけた姉貴たちに挨拶だけはしておくようにと、アリサを説得してくれたらしい。

 「インターホンが鳴るのを待ち構えるのって、久しぶりじゃない?」

サチが落ち着かない様子で何度もドアを見た。

「今度はちゃんと『お隣』が立ってるはずだよな」

正確に言えば『元お隣』だ。間部家は事件の後に引っ越している。

「やなこと言わないでよ。もう屍ケ台に戻るのは懲り懲りなんだから」

頬を膨らませるサチを見て、話についていけないカイさんは、頭を掻いて苦笑した。

「今度はちゃんと、俺も行くから」

とボソリと呟くのを聞いて、俺と姉貴は、同時に、

「今さら言う?」

とつっこんだ。

 約束の時間を2分ほど遅れて、『正常な訪問者』であるアリサたちがやってきた。俯き、おどおどとした態度で、

「すみませんでした…」

と儀礼的に謝罪をするアリサに好感が持てるはずもなく、姉貴はほぼ無視した形で、ミナミに向かって笑いかけた。

「元気そうでよかったわ。私が言ったこと、覚えてる?嫌なことがあったらすぐに誰かに言うのよ。私からも連絡するから」

それから、アリサに、

「すみませんが、連絡先を教えてください。貴女は信用できません」

と言い放った。アリサが渋々という感じで、メモに住所と電話番号を書いて渡す。

 背後で見ていた俺とカイさんは、

「きついなあ」

と密かに笑っていた。

 ミナミが屈託のない笑顔で頭を下げる。

「ありがとうございました。ミナミね、おばさんたち、大好き」

姉貴は小さな体を抱きしめながら涙ぐんだ。

「私も、ミナミちゃん、大好きよ。できれば、ずっとお隣でいてほしかった」

無意識とはいえ、たえさんの妄執からミナミを守ってきたサチとしては、目の届かないところに行かれることが辛くてしょうがないんだろう。

「おじさんも電話してくれる?」

女児が俺のところに寄ってきた。抱き上げて、

「お兄さんって呼んでくれたらね」

と頭を小突くと、

「うんっ」

と元気な返事が返ってきた。

 アリサがミナミの手を引いて遠ざかっていく。複雑な気分だ。虐待のシーンを思い出す。少女の背中に、何度も、『うちにおいで』と呼びかけそうになった。サチも同じような顔をしている。

 アリサはまた過ちを犯す。それをどうしても確信してしまうんだ。サチが俺の袖口を引いて、

「なんとかできないの?」

と囁いた。

 なんとか…ったって…。

 「…待ってください」

階段に消えていこうとしたアリサを引き止めた。びくりと肉付きのいい肩が振り返る。

「何ですか?」

もう謝罪は済んだだろう、という非難が目に浮かんでいた。俺は彼女のそばまで歩いて、逡巡の末に伝えた。

「貴女を刺したのは俺です」

アリサの目が飛び出しそうに見開かれた。ミナミが心配そうに指を握ってくる。

「今後、もしまたミナミを虐待するようなことがあったら、今度は怪我じゃ済まないと思ってください」

頭の中で思いついた恫喝が、勝手に口から零れ出た。

 笑顔で手を振るミナミを押し込めるように助手席に乗せたアリサは、焦った様子で何度も頭を下げてから、運転席に乗り込んだ。車が発進するのを一緒に見送った姉貴が、快音を立てて、俺の腕を叩く。

「やったねっ。あれは効いたでしょ」

「…やっちまったね…」

サチのように喜ぶ気にはなれなかったけど、それでも、ミナミの嬉しそうな顔が見られたことで、後悔はしなかった。


 「センパイ、付き合ってほしい所があるんです」

職場復帰してから2ヶ月。いつものように昼食を一緒にしながら、彩ちゃんは神妙な表情で誘った。

「いいよ。いつ?」

結婚の話がちらほらと出始めていた。その前にオープンにしておきたいことがあるんだろう、と予想はつく。

「今度の日曜日に」

問題のない日付に快諾した。


 桜の若木が満開になっている。気の早い幼子を見守る古木も、黒い幹に、そろそろ花をつけ始めていた。振り仰ぐと、強い日差しが目に染みる。寒がりな彩ちゃんも、ほっとした表情でコートの襟を緩めていた。

「やっと冬が終わったね」

と頬をピンクに上気させながら、俺を見上げる。

「もっと緊張してるかと思った」

数日前、いかにも『秘密を打ち明けるぞ』という態度だった彼女を思い出して、ギャップに笑った。

「緊張はしてますよ。でもセンパイは、きっと、ちゃんと考えて返事をくれると思ってるから」

一瞬、縋るような瞳をした後、明るい顔で微笑む。


 片側に桜並木の続く細い路地を進むと、砂利の敷かれた駐車場へと出た。

「車でも来られたんですけど、今日は歩いて来たかったの」

と弁解する彩ちゃんに、

「構わないよ」

と答えて周囲を見回すと、駐車場の入口に『参拝以外の方の駐車はお断りします』の看板が見えた。目を転じると、奥に鳥居があり、その先に続く階段の両脇は鎮守の(もり)に覆われている。

 団体の集合場所のようなところに連れて行かれるものだと思っていた俺は、普通の神社に見えるその形態に、ちょっと拍子抜けした。

「ここが『神様』の信仰場所?」

と尋ねると、彩ちゃんは、

「うん。…でも、センパイの思っている理由とは違うと思う…」

と声量を下げた。


 鳥居の前に立ち、見上げる。下部に渡された横棒が両脇の柱から出ない、神明鳥居という形状だった。確か、伊勢神宮系の神々を祭る神社に使われたと記憶している。

「お父さんの仕事場なんです…」

彩ちゃんの消えそうな声が背後から聞こえた。

「わたし、一人娘だから、お婿さんを取って跡を継がないといけないんです…」

そう続ける。


 …神職か…。

 まったく予想しなかった自分の将来像に、情けないことだけど、即座に応えてやることができなかった。

 そうか。それで、まだ若いうちから見合いが必要だったわけか。世襲に従おうとする彩ちゃんの努力を、自分のわがままで潰してしまったことを、今さらながら痛感した。

 『見合いなんかするな』と言った俺に、彼女は、条件一つ出さずに、笑ってくれたってのに…。


 神域の奥に伸びる階段の上に、拝殿の屋根が見えていた。立派な千木がプレッシャーを与える。

 大きい…。格式も高いんだろうなあ…。宮司さん、かあ…。

 気を取り直して鳥居に目を戻し。

 中央に掲げられた神額の文字を見て。

「あ」

と無意識に声を上げた。


 歴史の知識を授けてくれた恩師と、小さな社に立ち寄ったことがあった。恩師が丁寧に説明してくれた内容を思い出す。

「ここには火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が鎮座してるんだよ。台所に貼られたお札に、ここの神社の名前が書かれているのを見たことないかい?カグツチは、日本の最高神、天照大神の義兄妹に当たる神で、強力な火と光を司る性質を持っているんだ」


 神額には、その社と同じく、『秋葉神社』の文字があった。


 薄暗く淀んだ屍ケ台の地と、その中でひっそりと消滅していこうとしていたたえさんの魂を、強烈な光と熱が昇天させたことを、忘れるはずがない。


 背中に、彩ちゃんの答えを待つ息遣いを感じながら、聞いた。

「…俺が行方不明だった間、ずっと、『神様』に祈っててくれたの?」

去年の11月の終わりから今年の1月の半ばまでの極寒の時期に、寒がりの彼女がこんな侘しい場所に日参してくれていたことを、もう聞くまでもなく確信していた。

「…はい」

小さく頷く彩ちゃんを抱きしめて、猫っ毛に顔を埋めて、目を閉じた。瞼の裏に穏やかな白光が広がった。

「今日、お父さんは『出勤』?」

その姿勢のまま囁く。身動ぎをした彩ちゃんは、

「そう…ですけど…?」

と訝しげに顔を上げた。

 キスをして離れ、手を握った。

「それじゃあ、このまま挨拶に行こう」

境内に踏み入れると、彩ちゃんが慌てた声で、

「えっ?ええっ?待って、センパイ。そんなに早く決めちゃわないでっ」

と悲鳴を上げた。

「神様の機嫌を損ねたくないんだ」

そう言うと。

 …うん。これだよな…。

 困ったような顔が、桜色に綻んだ。

「…はいっ」

と元気に寄り添う様子がほんとうに嬉しそうで、俺まで知らずに微笑んでいた。


 どこからか、祝福の唄が聞こえたような気がした。


fin.

※オキシトシンの記述は一部の産婦人科や資料を元にしています。専門的にはまだ未解明の部分が多いそうです。

※秋葉神社の末社の中には主神をカグツチではなくアマテラスにしているところもあります。光を司る神という意味では合致していますので、今回は秋葉山本宮秋葉神社の由来に基づいたものとさせていただきました。

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