表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
屍ケ台  作者: 小春日和
屍ケ台
23/25

川根ケ台 10

 関節が鳴りそうなほど強張った肉体を、姉貴は四苦八苦して動かしていた。水はすでに水筒2本分が消えている。ミナミのほうは、まだほとんど動作ができない。補助して、やっと横になれる程度だった。

「体が重い…。太ったのかしら…」

「そうだったら、むしろ尊敬する」

口だけは元通りのサチは、さっきから冗談を連発している。

 本当は、彼女たちを抱えてでも、すぐに屍ケ台から出て行きたかった。女は姿を見せなくなっていたが、さっきの寂しそうな様子に、どうしても危機感が募る。

 ただ。

「…安心したせいかな…。俺も、なんだかすごく眠い…」

俺自身に、2人の人間を担ぐ体力が残っていなかった。気を抜くと、そのまま撃沈しそうだ。

「私たちが動けるようになるまで、ちょっと寝たら?置いていかないから」

笑いながら、偉そうに言う姉貴に、

「馬鹿」

と返す間ももたないほど、急速に意識が途切れた。


 赤ん坊の泣き声がする。

 目の覚めた感覚がなかったから、これは夢なんだろう。俺は台地の端に腰かけて、外界の集落を見下ろしていた。蟻のように小さいはずの人間の行動や声が、なぜかくっきりと頭に映る。

 60を越えたほどの男が2人、大きめの桶を運んで、集落から離れかけていた。火のついたような乳児の泣き声は、その中から聞こえる。まだ破損の進む前の家屋の窓から、暗い表情がいくつも覗いていた。啜り泣きの聞こえる家もある。

 男たちが辟易した様子で言った。

「よく泣くのう。煩くてかなわん」

「だが薬屋が言っておったぞ。元気な赤子のほうが安心して引き取れると。小さいのは心臓も肝もわずかだしのう」

そのまま、女が殺された小屋のほうに向かっていく。


 男たちが見えなくなった後、粗末な家々から、家人が忍び出てきた。その中で、一際、弱っている様子の若い女が見えた。

「もう忘れな。あの子は運がなかったんだよ。また生もうよ」

慰めに、他の女たちが、その若い母親を囲む。

 少し離れたところに、彼女が立っていた。2歳ぐらいの男児の手を引いている。暗い目で、赤ん坊が消えた方向をじっと見ていた。

「…ああやって、生まれてすぐに死ぬ子どももいる。お前は運が良かった」

傍らの息子に囁きかける。

「早く大きくなって、こんなことをやめさせるぐらいに力をつけておくれ」

意志の強い瞳で、幼児への言葉に思いを込める。


 夢の中では、この土地にもちゃんと夜が来た。大きな蛾が白い鱗粉を撒き散らしながら、朧月の元を飛んでいく。俺はその蛾と同化して、女の家の天井の梁にくっついた。

 囲炉裏は消え、燭台の火が細く闇を裂いている。子どもは、部屋の隅で、すでに寝息を立てていた。女も薄い夜着に替えている。夫の姿はなかった。

 突然、戸口がガタガタと音を立てた。一瞬、警戒した様子の彼女だったが、すぐに走り寄って戸を開く。

 その先には20代後半と思われる体躯のいい男が立っていた。

「たえ、今日はおっとうは?」

当たり前のように家に上がり込む男を、女…たえさんは、戸惑った表情で咎めた。

「おっとうは辻に行ってる。お前さまは行かなかったのか?」

どうやら予想外の訪問者だったらしい。戸を開けたのは、夫だと思ったからかもしれない。

「土地主の息子の俺が畜生働きに出ることもあるまい」

横柄な態度の『息子』は、上り框に腰をかけた。

 何の用かと焦れて待っていたたえさんに、充分な時間を置いてから、男は、

「酒を用意しろ」

と命じた。たえさんは首を振る。

「そんなものは買えない。あたしたちの暮らしを知らないのかい、お前さまは?」

集落の利益のほとんどを搾取する土地主でありながら、と言葉の裏には非難の響きがあった。

「それなら」

土地主の息子は口角の吊り上がった笑みを見せて、彼女の肢体を引き寄せた。

「酒代ぐらい稼がせてやろう」


 無理矢理、薄衣を剥がされていくたえさんを、俺は為す術もなく見ていた。

 頭の中に割れた鐘のような大音響が鳴っている。


 朝の陽光が差し込む部屋の中で、まだ熟睡中の幼児に寄り添い、たえさんは子守唄を唄っていた。

「平気…」

その合間に呟きが漏れる。

「こんなことぐらいは平気…」


 昼になり、殺気立った村の女たちが、たえさんの住居に押しかけた。

「お前のところだけ子どもを取られないと思ったら、土地主とできてやがったのかい?!」

「冗談じゃないよ。あたしら、みんな真面目に順番を守ってるんだ。そんなやり方は許されないよ!」

戸口を開けられないようにつっかえた棒に縋りつきながら、たえさんは震えた声で言い訳を繰り返した。

「違う。歳が行ってからの子どもだったからだよ。次に生めないから堪忍してもらっただけだ」

 外で土地主の息子の寝ぼけたような声が聞こえた。

「俺はたえなんかとできてはおらん。昨日は酔っ払って家を間違えたんだ」

救われた。そう思ったたえさんは、勢い込んで戸を開けた。

「そうだよ。あたしなんかがお前さまと何かあるわけがない」

必死で嘘に便乗して、周囲を説得しようとした。

 反論が小さくなり、気まずい空気が流れる。たえさんの顔に安堵の表情が浮かび始めた。

 その時。

「みながそんなに言うなら、公平にするために、たえの子どもも取り上げてやってもいいぞ」

息子の非情な提案が下された。


 狂ったように叫んで幼子にしがみつくたえさんを、何人かが引き剥がそうと試みた。けれど常人離れした力に対抗することはできなかった。

 土地主の息子が耳元に寄って、彼女に囁く。

「その子どもを手放したら、お前を俺のところに連れていってやる。お荷物はさっさと片付けろ」

たえさんは激しく首を振った。

 呆れた様子の息子は、

「しばらく小屋に放り込んでおけ。そのうちに疲れて手を離すだろう」

と言った。


 葦の壁の隙間から、陰気な風が吹き込む。

 昨日の赤ん坊の首のない遺体を見ながら、たえさんは放心状態で、自分の子どもを絞め殺していた。

 人の手に任せれば、怖い思いをさせることになる。まだ片言しか話せないけれど、

「おっかあ」

と懐いてくる息子を、笑顔のまま、送ってやりたかった。

 「ごめんね」

泡を吹いた白い顔を撫で、それから、すぐにやってくるだろう解体係たちのことを考えた。自分の命より大事にしていた存在を、金儲けのために使おうとする連中に、どうしても渡したくない。

「…ごめんね」

もう1度謝って、たえさんは幼児の口に腕を差し入れた。柔らかい粘膜を破れば、素手でも臓器を取り出すことができる。


 名前を呼ばれた気がした。

「リョウちゃん、ちょっと!起きなさいっ!」

姉貴が焦った声で叫んでいる。

「…なに?」

まだ夢の中から脱しきれていなかった俺は、震えの止まらない手を額に当てた。驚くほど冷たい。

 自分の体にたえさんの粒子が群がっているのを感じた。俺、食われてるんだ。ぼんやりと理解する。

「なに、じゃないわよ。何よ、それ。気持ち悪い」

姉貴は、未だに不自由な動きに阻まれつつ、俺のそばに寄ってきた。

「…ああ、大丈夫…」

答えになってねえな、と自覚しながら、身を起こしてサチに言った。目を転じると、ミナミも不安そうな顔でこっちを見ている。

 正常な2人を見たら、少し落ち着いた。

「急いだほうがよさそうだ。ミナミは俺が背負っていくから、サチ、歩ける?」

すぐに移動することを告げると、姉貴はふらふらと立ち上がりながら、

「無重力の宇宙から帰ってきた直後って、きっとこんな感じよね」

と時事的なネタを口にした。気分じゃなかったが、あえて笑ってみる。


 「どこに行けばいいのかは…わかってるの?」

屍の散乱する大地から目を背けながら、姉貴が聞く。

「うん。見当はついてる」

俺は自分が入ってきた場所に向かっていた。あの黒い障壁の向こう側に、きっと元の世界がある。行き来の自由なたえさんに協力してもらえば、難なく脱出できる気がした。

 たえさんは姿を現さない。ポケットの骨は短い間にカスカスになっていた。今では、うかつに触ったら折れそうだ。このまま消えて行くのかもしれない。

「ここで消滅するってことは…成仏するってことなのかな。それとも…」

ただ、無くなるってことなんだろうか…。

 この死者の世界を『優しい』と表現した彼女を思い出した。『希望のある現世』を、強い、恐らく彼女を虐げた生者たちに譲って、自分はこの屍の台地に残ると微笑んだ顔が、今になって、強烈に心臓を締めつけてくる。


 「ミナミ…帰らなきゃダメかなあ…」

唐突に女児が呟いた。サチが、

「なんでそんなこと言うの?」

と慌てる。ミナミはゆっくりと首を巡らせた。

「だって…帰ったらお母さんと会わなきゃいけないもん…。ここにいたほうがいい…」

そう言って、また力なく頭を預ける。

 生きていくことは戦うことだ。決して強靭ではないたえさんやミナミにも、その使命が課せられていることに、やりきれない思いが湧いた。弱い人間は、この停滞した世界に留まったほうが、本当は幸せなんじゃないか?『現世』が苦痛にしかならないのなら、なぜ彼女たちは生まれてきたんだ?

 サチがミナミの背中をポンポンと叩いた。

「それが大事なのよ。あんなお母さんと会いたくないって、向こうに戻ってからも、ちゃんとみんなに伝えるの。そうしたら、みんながミナミちゃんの味方になってくれる」

その言葉に、ミナミよりも俺のほうが驚いた。

「ミナミ、イヤって言ってもいいの?」

少女が聞き返すと、姉貴は、

「もちろん」

と請け負う。

「泣いてもいいの?お母さん、声出しちゃダメだって言ってたよ」

姉貴のマンションで聞いた幻聴で、ミナミの声が厚い布越しのようにくぐもっていたことを思い出す。

「…それは私のせいね、きっと。私が中途半端にお母さんに注意したせいで、ミナミちゃんが被害を被ることになったんだと思う…」

サチは神妙な声で、

「ごめんね」

と謝った。

 ミナミは涙声で謝罪を拒絶する。

「ミナミのお母さん、おばさんのこと、悪い人だって言ってた。ミナミの声が聞こえると怒ってくるからだって。だから、ミナミ、おばさんのこと嫌いだった」

そう言って。

 でも、サチのほうに腕を伸ばした。

 体力ギリギリで踏ん張りながら、姉貴はミナミを抱きとめて、

「その調子よ」

と微笑んだ。

「今みたいな調子で、言いにくいことでもちゃんと言うの」

耳元で囁くと、小さな体がしがみついた。

「もう独りで我慢しないでね」

サチの願いに、ミナミは答えずに、頭を何度も上下に揺らした。


 熱い固まりが、体の中で、ゆっくりと冷えて沈んでいく。

 口を開きかけて、俺は姉貴に伝えることをやめた。まだ早い。


 前方に『出口』が見えてきた。

 たえさんの骨をポケットから取り出すと、身を削るように粒子を湧かせ、異界への道しるべを作ってくれる。

「よかった。引き止められるじゃないかとひやひやしてたわ」

サチがほっとした表情で俺の手を握った。

「マンションの場所に正確に戻れなくても、こうしてれば離されることはないよね」

明るい笑顔に、俺も笑って、

「うん」

と答えた。

 それから、背負い直していたミナミを下ろし、姉貴に預けた。

「連れていってやって」


 きょとんとした2人を黒い空間に押しやった。

「もう少しだけここにいる。後で必ず帰るから!」

そう大声で伝えると、姉貴が前後不覚な闇の中から叫ぶ。

「なに?!ちょ、ちょっと!馬鹿っ。なに考えてんの、あんた…」

声が小さくなって途切れた。

 …今なら、まだ間に合う。一緒に帰れる。

 もし…。俺は体力のもつ限界まで、ここで、たえさんと過ごしてやるつもりだった。だけど、もしその間に帰れない事態になったら…とも思う。帰るなら…今しかないんじゃないか…。


 冷えて揺るがないはずの固まりが、また熱を帯びて口元にせり上がった。『俺はこんなところで死にたくない』。本音を口に出せば、たえさんより自分を優先できる気がする。とうの昔に死んでしまった屍たちに遠慮せずに、堂々と生きることを選べる気がする。

 けど…。

「現代があるのって、過去があったからなんだよな…」

知らなければ先祖たちの生き様は否定できた。そんな過酷な時代があったわけがないと。否定して、気楽に生きることができた。けど知ったから。俺の親の、そのまた前の、ほんの6代か7代遡っただけの人間が、苦しい時代から解放されずに、未だに因習の土地で彷徨っていることを。

 茶色い皮膚に筋の浮いた痩せ細った脚が、座り込んだ俺の隣に現れた。

「…一緒に暮らす…のは難しいけど…」

見上げると、複雑な表情を浮かべるたえさんの顔が透けていた。

「気が晴れるまで話に付き合う。それで手を打って」

笑いかけて手を差し出すと、静かに目を閉じた彼女は、隣に膝をついて、俺の手を自分の頬に当てた。

 彼女の肌の感触は死人のままだったが、それでも、濡れていて、ほんのり温かかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ