川根ケ台 10
関節が鳴りそうなほど強張った肉体を、姉貴は四苦八苦して動かしていた。水はすでに水筒2本分が消えている。ミナミのほうは、まだほとんど動作ができない。補助して、やっと横になれる程度だった。
「体が重い…。太ったのかしら…」
「そうだったら、むしろ尊敬する」
口だけは元通りのサチは、さっきから冗談を連発している。
本当は、彼女たちを抱えてでも、すぐに屍ケ台から出て行きたかった。女は姿を見せなくなっていたが、さっきの寂しそうな様子に、どうしても危機感が募る。
ただ。
「…安心したせいかな…。俺も、なんだかすごく眠い…」
俺自身に、2人の人間を担ぐ体力が残っていなかった。気を抜くと、そのまま撃沈しそうだ。
「私たちが動けるようになるまで、ちょっと寝たら?置いていかないから」
笑いながら、偉そうに言う姉貴に、
「馬鹿」
と返す間ももたないほど、急速に意識が途切れた。
赤ん坊の泣き声がする。
目の覚めた感覚がなかったから、これは夢なんだろう。俺は台地の端に腰かけて、外界の集落を見下ろしていた。蟻のように小さいはずの人間の行動や声が、なぜかくっきりと頭に映る。
60を越えたほどの男が2人、大きめの桶を運んで、集落から離れかけていた。火のついたような乳児の泣き声は、その中から聞こえる。まだ破損の進む前の家屋の窓から、暗い表情がいくつも覗いていた。啜り泣きの聞こえる家もある。
男たちが辟易した様子で言った。
「よく泣くのう。煩くてかなわん」
「だが薬屋が言っておったぞ。元気な赤子のほうが安心して引き取れると。小さいのは心臓も肝もわずかだしのう」
そのまま、女が殺された小屋のほうに向かっていく。
男たちが見えなくなった後、粗末な家々から、家人が忍び出てきた。その中で、一際、弱っている様子の若い女が見えた。
「もう忘れな。あの子は運がなかったんだよ。また生もうよ」
慰めに、他の女たちが、その若い母親を囲む。
少し離れたところに、彼女が立っていた。2歳ぐらいの男児の手を引いている。暗い目で、赤ん坊が消えた方向をじっと見ていた。
「…ああやって、生まれてすぐに死ぬ子どももいる。お前は運が良かった」
傍らの息子に囁きかける。
「早く大きくなって、こんなことをやめさせるぐらいに力をつけておくれ」
意志の強い瞳で、幼児への言葉に思いを込める。
夢の中では、この土地にもちゃんと夜が来た。大きな蛾が白い鱗粉を撒き散らしながら、朧月の元を飛んでいく。俺はその蛾と同化して、女の家の天井の梁にくっついた。
囲炉裏は消え、燭台の火が細く闇を裂いている。子どもは、部屋の隅で、すでに寝息を立てていた。女も薄い夜着に替えている。夫の姿はなかった。
突然、戸口がガタガタと音を立てた。一瞬、警戒した様子の彼女だったが、すぐに走り寄って戸を開く。
その先には20代後半と思われる体躯のいい男が立っていた。
「たえ、今日はおっとうは?」
当たり前のように家に上がり込む男を、女…たえさんは、戸惑った表情で咎めた。
「おっとうは辻に行ってる。お前さまは行かなかったのか?」
どうやら予想外の訪問者だったらしい。戸を開けたのは、夫だと思ったからかもしれない。
「土地主の息子の俺が畜生働きに出ることもあるまい」
横柄な態度の『息子』は、上り框に腰をかけた。
何の用かと焦れて待っていたたえさんに、充分な時間を置いてから、男は、
「酒を用意しろ」
と命じた。たえさんは首を振る。
「そんなものは買えない。あたしたちの暮らしを知らないのかい、お前さまは?」
集落の利益のほとんどを搾取する土地主でありながら、と言葉の裏には非難の響きがあった。
「それなら」
土地主の息子は口角の吊り上がった笑みを見せて、彼女の肢体を引き寄せた。
「酒代ぐらい稼がせてやろう」
無理矢理、薄衣を剥がされていくたえさんを、俺は為す術もなく見ていた。
頭の中に割れた鐘のような大音響が鳴っている。
朝の陽光が差し込む部屋の中で、まだ熟睡中の幼児に寄り添い、たえさんは子守唄を唄っていた。
「平気…」
その合間に呟きが漏れる。
「こんなことぐらいは平気…」
昼になり、殺気立った村の女たちが、たえさんの住居に押しかけた。
「お前のところだけ子どもを取られないと思ったら、土地主とできてやがったのかい?!」
「冗談じゃないよ。あたしら、みんな真面目に順番を守ってるんだ。そんなやり方は許されないよ!」
戸口を開けられないようにつっかえた棒に縋りつきながら、たえさんは震えた声で言い訳を繰り返した。
「違う。歳が行ってからの子どもだったからだよ。次に生めないから堪忍してもらっただけだ」
外で土地主の息子の寝ぼけたような声が聞こえた。
「俺はたえなんかとできてはおらん。昨日は酔っ払って家を間違えたんだ」
救われた。そう思ったたえさんは、勢い込んで戸を開けた。
「そうだよ。あたしなんかがお前さまと何かあるわけがない」
必死で嘘に便乗して、周囲を説得しようとした。
反論が小さくなり、気まずい空気が流れる。たえさんの顔に安堵の表情が浮かび始めた。
その時。
「みながそんなに言うなら、公平にするために、たえの子どもも取り上げてやってもいいぞ」
息子の非情な提案が下された。
狂ったように叫んで幼子にしがみつくたえさんを、何人かが引き剥がそうと試みた。けれど常人離れした力に対抗することはできなかった。
土地主の息子が耳元に寄って、彼女に囁く。
「その子どもを手放したら、お前を俺のところに連れていってやる。お荷物はさっさと片付けろ」
たえさんは激しく首を振った。
呆れた様子の息子は、
「しばらく小屋に放り込んでおけ。そのうちに疲れて手を離すだろう」
と言った。
葦の壁の隙間から、陰気な風が吹き込む。
昨日の赤ん坊の首のない遺体を見ながら、たえさんは放心状態で、自分の子どもを絞め殺していた。
人の手に任せれば、怖い思いをさせることになる。まだ片言しか話せないけれど、
「おっかあ」
と懐いてくる息子を、笑顔のまま、送ってやりたかった。
「ごめんね」
泡を吹いた白い顔を撫で、それから、すぐにやってくるだろう解体係たちのことを考えた。自分の命より大事にしていた存在を、金儲けのために使おうとする連中に、どうしても渡したくない。
「…ごめんね」
もう1度謝って、たえさんは幼児の口に腕を差し入れた。柔らかい粘膜を破れば、素手でも臓器を取り出すことができる。
名前を呼ばれた気がした。
「リョウちゃん、ちょっと!起きなさいっ!」
姉貴が焦った声で叫んでいる。
「…なに?」
まだ夢の中から脱しきれていなかった俺は、震えの止まらない手を額に当てた。驚くほど冷たい。
自分の体にたえさんの粒子が群がっているのを感じた。俺、食われてるんだ。ぼんやりと理解する。
「なに、じゃないわよ。何よ、それ。気持ち悪い」
姉貴は、未だに不自由な動きに阻まれつつ、俺のそばに寄ってきた。
「…ああ、大丈夫…」
答えになってねえな、と自覚しながら、身を起こしてサチに言った。目を転じると、ミナミも不安そうな顔でこっちを見ている。
正常な2人を見たら、少し落ち着いた。
「急いだほうがよさそうだ。ミナミは俺が背負っていくから、サチ、歩ける?」
すぐに移動することを告げると、姉貴はふらふらと立ち上がりながら、
「無重力の宇宙から帰ってきた直後って、きっとこんな感じよね」
と時事的なネタを口にした。気分じゃなかったが、あえて笑ってみる。
「どこに行けばいいのかは…わかってるの?」
屍の散乱する大地から目を背けながら、姉貴が聞く。
「うん。見当はついてる」
俺は自分が入ってきた場所に向かっていた。あの黒い障壁の向こう側に、きっと元の世界がある。行き来の自由なたえさんに協力してもらえば、難なく脱出できる気がした。
たえさんは姿を現さない。ポケットの骨は短い間にカスカスになっていた。今では、うかつに触ったら折れそうだ。このまま消えて行くのかもしれない。
「ここで消滅するってことは…成仏するってことなのかな。それとも…」
ただ、無くなるってことなんだろうか…。
この死者の世界を『優しい』と表現した彼女を思い出した。『希望のある現世』を、強い、恐らく彼女を虐げた生者たちに譲って、自分はこの屍の台地に残ると微笑んだ顔が、今になって、強烈に心臓を締めつけてくる。
「ミナミ…帰らなきゃダメかなあ…」
唐突に女児が呟いた。サチが、
「なんでそんなこと言うの?」
と慌てる。ミナミはゆっくりと首を巡らせた。
「だって…帰ったらお母さんと会わなきゃいけないもん…。ここにいたほうがいい…」
そう言って、また力なく頭を預ける。
生きていくことは戦うことだ。決して強靭ではないたえさんやミナミにも、その使命が課せられていることに、やりきれない思いが湧いた。弱い人間は、この停滞した世界に留まったほうが、本当は幸せなんじゃないか?『現世』が苦痛にしかならないのなら、なぜ彼女たちは生まれてきたんだ?
サチがミナミの背中をポンポンと叩いた。
「それが大事なのよ。あんなお母さんと会いたくないって、向こうに戻ってからも、ちゃんとみんなに伝えるの。そうしたら、みんながミナミちゃんの味方になってくれる」
その言葉に、ミナミよりも俺のほうが驚いた。
「ミナミ、イヤって言ってもいいの?」
少女が聞き返すと、姉貴は、
「もちろん」
と請け負う。
「泣いてもいいの?お母さん、声出しちゃダメだって言ってたよ」
姉貴のマンションで聞いた幻聴で、ミナミの声が厚い布越しのようにくぐもっていたことを思い出す。
「…それは私のせいね、きっと。私が中途半端にお母さんに注意したせいで、ミナミちゃんが被害を被ることになったんだと思う…」
サチは神妙な声で、
「ごめんね」
と謝った。
ミナミは涙声で謝罪を拒絶する。
「ミナミのお母さん、おばさんのこと、悪い人だって言ってた。ミナミの声が聞こえると怒ってくるからだって。だから、ミナミ、おばさんのこと嫌いだった」
そう言って。
でも、サチのほうに腕を伸ばした。
体力ギリギリで踏ん張りながら、姉貴はミナミを抱きとめて、
「その調子よ」
と微笑んだ。
「今みたいな調子で、言いにくいことでもちゃんと言うの」
耳元で囁くと、小さな体がしがみついた。
「もう独りで我慢しないでね」
サチの願いに、ミナミは答えずに、頭を何度も上下に揺らした。
熱い固まりが、体の中で、ゆっくりと冷えて沈んでいく。
口を開きかけて、俺は姉貴に伝えることをやめた。まだ早い。
前方に『出口』が見えてきた。
たえさんの骨をポケットから取り出すと、身を削るように粒子を湧かせ、異界への道しるべを作ってくれる。
「よかった。引き止められるじゃないかとひやひやしてたわ」
サチがほっとした表情で俺の手を握った。
「マンションの場所に正確に戻れなくても、こうしてれば離されることはないよね」
明るい笑顔に、俺も笑って、
「うん」
と答えた。
それから、背負い直していたミナミを下ろし、姉貴に預けた。
「連れていってやって」
きょとんとした2人を黒い空間に押しやった。
「もう少しだけここにいる。後で必ず帰るから!」
そう大声で伝えると、姉貴が前後不覚な闇の中から叫ぶ。
「なに?!ちょ、ちょっと!馬鹿っ。なに考えてんの、あんた…」
声が小さくなって途切れた。
…今なら、まだ間に合う。一緒に帰れる。
もし…。俺は体力のもつ限界まで、ここで、たえさんと過ごしてやるつもりだった。だけど、もしその間に帰れない事態になったら…とも思う。帰るなら…今しかないんじゃないか…。
冷えて揺るがないはずの固まりが、また熱を帯びて口元にせり上がった。『俺はこんなところで死にたくない』。本音を口に出せば、たえさんより自分を優先できる気がする。とうの昔に死んでしまった屍たちに遠慮せずに、堂々と生きることを選べる気がする。
けど…。
「現代があるのって、過去があったからなんだよな…」
知らなければ先祖たちの生き様は否定できた。そんな過酷な時代があったわけがないと。否定して、気楽に生きることができた。けど知ったから。俺の親の、そのまた前の、ほんの6代か7代遡っただけの人間が、苦しい時代から解放されずに、未だに因習の土地で彷徨っていることを。
茶色い皮膚に筋の浮いた痩せ細った脚が、座り込んだ俺の隣に現れた。
「…一緒に暮らす…のは難しいけど…」
見上げると、複雑な表情を浮かべるたえさんの顔が透けていた。
「気が晴れるまで話に付き合う。それで手を打って」
笑いかけて手を差し出すと、静かに目を閉じた彼女は、隣に膝をついて、俺の手を自分の頬に当てた。
彼女の肌の感触は死人のままだったが、それでも、濡れていて、ほんのり温かかった。