川根ケ台 9
「へえ。ミナミは自分が母親を刺したと思ってたんだ」
俺は背中におぶった小さな存在に聞き返した。腕に掴まった姉貴のほうが、
「だって、いきなり男の人が出てきて包丁を取り上げましたって、説得力ないでしょ」
と答える。
「ああ、まあ。確かに」
小学生の柔軟な脳は、俺を、『母親に復讐したいと願っていたミナミの本心が生んだ幻影』だと位置づけたらしい。
まだ洞の中だった。姉貴たちは自力では方向がわからないらしく、俺のナビに合わせて動いている。俺のほうは、前方に伸びる黒い道筋に従っていた。
「それにしても、よく生きてたな。サチたちがいなくなって1ヶ月経つんだぜ。普通なら衰弱死してる」
精神力の強さだけでは説明しきれない奇跡に感心すると、
「そんなに経ってた?4日ぐらいなものかと思ってたわ」
とあっさり否定された。
「え?ってことは、ここの時間は、現代では何倍にも匹敵するわけか」
密かに冷や汗をかく。
俺がここに着いてから、恐らく1日近い時間が過ぎていた。向こうではどれだけの日数を費やしたんだろう…。
「…彩ちゃんに、あんなこと言わなきゃよかった…」
見合い相手と仲睦まじくしている彼女が思い浮かんで、一気にテンションが下がる。
姉貴との会話の間、じっと黙っていたミナミが、不意に口を開いた。
「ねえ…あの、前を歩いている人、誰?」
「見えるのか?」
驚いた。俺の目にも、今は、女の姿は見えない。子どもならではの感覚だろうか。
「あの人が、ミナミとサチの探し方を教えてくれたんだ。命の恩人だよ」
そう説明すると、女児は訝しげな声で、こう言った。
「ミナミのうちに来た女の人と一緒の着物着てる」
………。
別に不思議はない。彼女はずっとミナミを見ていた。普段は姿を消していただろうが、たまには現れたのかも知れない。
そうだよ。夜中の訪問者のことを思い出した。軽い骨の音。複数の声が聞こえたことの説明はつかないが、実体として、彼女は俺たちの前にも存在を示していたんだ。
「お前のこと、見守ってたんだ」
とフォローすると、それでも少女は警戒心を解かない声で咎めた。
「ミナミに、お母さんと一緒が辛いなら連れていってあげる、って言った」
俺はミナミを下ろして、頭を撫でるイメージを伝えた。それから女に向かって言った。
「俺だって、あんな虐待の場面を見たら同じ事を言ったと思う。そういうことだったんだろ?」
女の気配がゆっくりと戻ってきて、俺の隣で実体化した。姉貴が小さな悲鳴を上げる。
「あたしは子どもをなくしました」
彼女は淋しげな表情で、ミナミを見下ろした。
「ほら…」
自分の子を無碍にされた母親が、同じ場所で生死の危険に晒されていたミナミに同情しただけのことだ。そう確信して後を引き継ごうとすると。
女は予想もしなかったことを口にした。
「子どもはあたしが首を締めました。それから食べました。今もあたしの中にいます」
「………」
言葉が出なくなってしまった。
精神的におかしなところがあるのは知っていたが、それも、みんな、この世界での不遇が彼女を追い込んだんだと思っていた。だから、コミュニケーションを取ることで、わずかずつ正常な状態を取り戻して、ミナミや姉貴を救う手助けをしてくれたのだと、…彼女のことを、本当は善人なんだと、期待していた。
女は狂気を孕んだ微笑を浮かべて、ミナミの頬に手を近づけた。
俺は女児を遠ざけた。
誘うような艶かしい声が、彼女の口から漏れる。
「あたしの子どもは男の子でした。可愛い子でした。遊び相手がいなくて可哀想です。一緒に暮らしてくれる女の子が欲しかった」
それから俺のほうを見て、
「一緒に暮らしてくれる人が欲しかった…」
と、もう1度繰り返した。
「…悪いけど、あんたにやる気はないから」
ミナミのことも俺のことも、と言外に込めて跳ねつけると、彼女は焦点のぼけた目を逸らして、また誘導先に戻っていった。
「ねえ、どういうこと?」
姉貴が耳元で囁く。
「今の女の人が、ミナミちゃんをここに引っ張ってきたってことなの?」
「たぶん…」
ほぼ確信はしていたが、説明の仕方によっては、女の立場をひどく悪くすることになる。俺は慎重に言葉を繋いだ。
彼女はこの屍ケ台の土地から魂が離れず、150年先の俺たちの世界に至るまで、ずっと空間を行き来していた。自身の殺害と同時に幼子を失ったことで、特に、子どもに対してのアンテナに敏感だったんだろう。そこで激しい虐待に心身をすり減らしていた女児を見つけ、…それから…。
「だったら、あの鬼母に罰を与えて終わりじゃないの?」
サチの疑問は、俺たちにとっての理想しか考えていなかった。
「あんたが鬼母を刺した時点でミナミちゃんは救われたんだから、ここに引っ張る必要はないじゃない」
割り切った姉貴に苦笑する。
「彼女が寂しかったんだろ。ミナミも精神的に限界が来てた。こっちに引っ張ってやったほうが幸せだと勘違いしたんじゃないか?」
空恐ろしいことだけど。
サチは少しの間考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「さっき、リョウちゃんと再会したときに、なんとなくあの人の感情みたいなものを感じたんだけど、…あの人、泣いてたと思う」
「は?」
泣いてたのはお前だろうが、とツッコもうとして、サチが真剣なのに気づいた。軽口を引っ込める。
「私たち…ううん、私にはあんまり執着はないみたい。あんたとミナミちゃんがいなくなることを、すごく怖がってる気がする」
「…ん…」
彼女との微妙な関係を姉貴に言おうとしたが、なんだか照れくさくてできなかった。
「だからそれは…寂しがってるんだって」
とごまかすと、
「その調子で、またここに引き止められるの、私たち?」
不安そうな声音が尋ねる。
そんなことはないと…信じたい。俺は帰りたいという意志を彼女に伝えた。彼女はそれを受け止めて、こうやって協力してくれている。
ただ…。もし『一緒に暮らしたかった』という女の願いが暴走したら…どうなるんだろう…。
「早く行動したほうがいいな。気が変わらないうちに」
そう呟くと、姉貴は、
「帰れるのね?」
と嬉しそうに俺の周りを飛び回った。
背負っていたミナミから寝息が漏れ始めた。子どもって肉体がなくても眠くなるんだ。意外な習性を微笑ましく思っていると、サチがミナミの体をさすったような感触があった。
「ねえ、あの鬼母、生きてるって言ってたわよね」
声を低くしての確認に、俺も思わず声量を抑えた。
「ああ。ミナミを連れ帰ったら、またアリサが養育することになるのかな…」
その危惧は、ずっとあった。ミナミに対して、あえて復活を強く望まなかったのも、また始まるかも知れない虐待に晒したくなかったからだ。
「リョウちゃん、もう1回とどめ刺しにいって」
サチの発想は、俺の思考を上回っていた。
「阿呆」
短く悪態をつくと、盛大に溜息を吐く。
「あーあ。やっぱりミナミちゃん、引き取ろっかな。こんな大騒ぎになったんなら、間部さん、引っ越しちゃうだろうし。そしたら監視もできないものね」
「カイさんが承知するかあ?」
一応、旦那の顔を窺ってやると、サチは口を尖らせた。
「カイさんの承諾を得ようと思ったら、あと30年ぐらいかかるわよ」
「だけど、子どもを1人引き取るとなると、収入もなくちゃならないだろ。姉貴、今、専業主婦じゃないか」
現実的に見て、カイさんの協力がなければ、その計画は頓挫する。
するとサチは、声に笑みを含んで、俺の前に回り込んだ。
「じゃあ、リョウちゃんが結婚して引き取ったらいいじゃない。子ども作る手間省けるよ」
「…そこはあんまり省きたくない…」
名案、というより、迷惑な案に、即却下を願い出た。
「じゃあ…私が離婚して実家に帰るから、養ってくれる?」
代替案も似たようなものだ。
「お前、その思いつきで行動する癖をやめろよ。ミナミを育てるっていうのは、簡単なことじゃないんだぜ」
浅慮を叱りつけたつもりだったが、姉貴は譲らなかった。
「そうやって、大人が自分の都合ばかりを優先しているから、子どもを見捨てる羽目になるんでしょ。何ができるか、が重要じゃないのよ。何をしてやらなきゃいけないか、が大事なの。後の始末ばっかり考えてたら、行動できなくなっちゃうわよ」
「………まったく…」
呆れた。ふりをした。でも、本当に呆れたわけじゃない。
『大丈夫。なんとかしてあげる』。それがサチの口癖だった。実際に解決できてもできなくても、その言葉は、聞いた人間を勇気づけて、何らかの結果を産み出してきたんだ。
「…お前って、姉っていうより親父みたいだ」
一応、賛辞のつもりでそう評価すると、姉貴は、嬉しそうにしながらも、
「あら。お父さんはリョウちゃんの中にいるんでしょ?」
と言った。
「どういう…?」
意味がわからずに聞き返す。
「だって、いつも言ってたじゃない。家族を守るのはオレの仕事だって。小中学生のセリフじゃないわよ、あれ」
サチは笑う。
…そんなのは、親父の受け売りだ。意味も知らずに使っていただけだ。
でも…なんだろう、この感覚…。俺の中の何かが、確かに姉貴の言葉に呼応していた。
「それにね」
声を潜めたサチは、ちょっと思案してから、告白を続けた。
「私、お父さんに酷いことしちゃったの。お父さんが死んじゃったのは私のせいでね…。お葬式の時に、お父さんの亡骸を見ながら、あんたに言ったこと…覚えてないわよね…。私が殺したようなものって。そしたら、リョウちゃん、なんて言ったと思う?」
『お姉ちゃんが絞め殺したの』。そう言って泣き崩れていた姉貴のことは、完全に思い出している。でも、その後…?何か言ったのか、俺?
「幸子は優しい子だね、って、言ってくれたのよ」
姉貴の震え始めた声に、無邪気に膝に入ってきた幼女の姿が重なった。制御できない愛情が溢れてくる。
「でも、私、結構、悪い子だったと思う。そんなふうに言ってくれたお父さんのこと、好きになることがずっとできなかったもの。自分の苦労を全部お父さんのせいにして逃げてたのね。だからリョウちゃんにも八つ当たり的に無理を…」
そこまで言って、姉貴は、突然、疑問符をぶつけた。
「お父さん?そこにいるの?」
うん、と思わず答えてしまいそうになった。
俺は親父じゃない。けどサチが行方不明になって一人で心細かった間、ずっと俺を突き動かしてきた不思議な原動力があったことは感じていた。
涼二の『二』は2番目って意味だよ。幸子の次って意味だ。生前、親父は俺にそう言い含めてきた。自分を優先したくなることもあるだろう。家族を放って自由になりたいと思うこともあるだろう。そういうときは姉の幸せを1番に考えなさい。それがお前の人生を安定させて、将来、いい父親へと導いてくれる。息子の手本となれないことを自覚していた親父は、俺にそういう形で道しるべを残そうとしていた。
本当に親父が俺の中にいてくれればいいな、と思った。今回みたいに、家族のために必死にならなきゃいけないときに、手助けをしてほしい。俺をもっと強い人間にしてほしい。
「姉貴…俺、親父みたいになるんだ」
うまく言葉が見つからなかったが、それで伝わるような気がした。
「リョウちゃんって、なぜか自分から苦労するほうに向かっちゃうよね」
サチは苦笑しながら、でも嬉しそうに言った。
風が吹き込む。粒子の密集が乱れて、出口と外の景色が見える。
ミナミの気配が背中から消えた。同時に姉貴の存在も。急いで洞の口に走り出ると、クリアな視界の戻った屍ケ台の台地の上に、2人の体が折り重なっているのが見えた。
そして、サチが…。
大きく弧を描いて手を振った。
ミナミの小さな肉体も、もぞもぞと小刻みな動きを再開している。
「…よかった…」
俺は脱力して、その場に座り込んだ。
女が真横に立った。でも、その姿は消えそうに揺らいでいた。
口元が微かに動き、物悲しい唄を紡ぐ。子守唄のようだった。