川根ケ台 7
血で汚れた掌を、また粒子が侵食し始めた。
…どこへ連れていかれても、もういいや。自分が人間を刺したという朧気なショックと、アリサのような母親がいる世界に住んでいたという嫌悪感に、力が抜けた。可哀想な子どもも、もう見たくない。
現代も、屍ケ台の大地と似たようなもんだ。救いがない…。
周囲から景色が消えた頃、近づいてきた女の手が、俺の頬に触れた。そのまま首をなぞって、服の中に入ってくる。
このスキンシップは、甘えの一種なのかな…。明確な意図がわからず、俺は、戸惑ったまま、手を抜こうとして。
…驚いた。
体温の低い滑らかな皮膚を想像していたが、彼女の感触は、干からびてささくれだったミイラのものだった。
ああ、そうか…。
「…牡丹燈籠って怪談、知ってる?」
聞いてはみたが、答えが欲しかったわけじゃない。女の霊魂に魅入られた男が、とり殺される話をしたかっただけだ。
「俺…あんたに好かれたってことなのかな…?」
絶望感に涙が出てきた。こんなところで、負の感情にまみれたまま、俺はこの女と共存していくんだろうか。
女が、俺の脇に身を寄せて、腰に腕を絡ませてくる。漆黒だと思っていた長い髪は、惨めに抜け落ちて頭蓋を晒していた。
気持ち悪い、と本音では思った。
…でも、その頭を撫でてやった。
こんな姿で執着してくる彼女を、畏怖の感情だけでは見られなかった。
「…さっき、元の世界に帰るって言っただろ」
声をかけると、黒ずんだ薄皮を張りつかせた顔が、俺を見上げる。
「そこで、また、あの回想を繰り返す気?」
せめて、その行為だけでもやめさせたい。
「俺が一緒にいれば…思い出すことも…その、減るのかな?だったら」
このままとり殺してもらっていいよ、と続けようとして。
やめた。
「あのさ、俺、…恋人、いるんだ」
彩ちゃんのことを、そう断言していいものかは、正直、微妙だったけど、わかってもらいたくて引き合いに出した。女は、感情を現す表皮を失った顔を歪める。
「だから、やっぱり帰りたい。自分のことばっかりで悪いけど…」
彼女が寂しがった気がして、罪悪感が湧いた。でも、目を逸らして続ける。
「後な、姉貴も一緒に連れていきたい。サチはこんなところで死んでいい人間じゃないし」
アリサや、アリサの母親のような醜怪な人間が跋扈する現代に、姉貴の正義感は必要だろうと思えた。
「それから、ミナミ…。あの子も、もう1度やり直しをさせたい。あんたが見せてくれた実情を知ったら、このまま人生を終わらせるのは悔しいだろ」
完全に諦めていた少女の復活を、今さら望むのは後ろめたいような気もしたが、ミナミだけ遺体で連れ帰るのは、もう願い下げだった。
女の表面がゆっくりと変化していき、白い肌に無垢な瞳をはめ込んだ造作ができあがる。
唇に朱が乗ったところで、彼女は身を起こし、俺に口づけをしてきた。
ぎょっとしたが、抵抗するよりも、思い通りにさせてやろうと、そのまま応えた。
頭の中では、必死に本性を思い出す。彩ちゃん、ごめん。これは浮気じゃないから。
制御も虚しく、理性が溶けかけたところで、衣擦れの音がした。目を開けると、半身をはだけた彼女の乳房が目に入った。慌てて引き剥がす。
「ちょ、ちょっと待って。それはまずいっ。俺、カノジョいるんだって!」
…潤んだ目で見返す視線が…痛い。
そりゃ…。つい、逸した視線をこっそりと戻した。透けるような色白の肌に、丸みを帯びた肩。その下には、思いの外、ふくよかな膨らみがあって、肉厚で柔らかそうな腹部に繋がっている。
急に空腹感を思い出した。
「…食欲と性欲って…似てるよな…」
何も考えずに『食っちまおう』かとも思ったが…。
やめた。どっぷり後悔しそうだ。
彼女の着物の襟を合わせ、もう1度、頭を撫でる。
「子ども…探してやるって言っといて、まだだったな」
母親としての自覚を取り返してもらいたくて、そう言った。そして、
「姉貴たちのそばに戻してくれ」
と頼んだ。
彼女は黙って俺の顔を見ていたが、やがて、腕を差し出す。
細い指が俺の手首を握った。その部分から真っ黒な粒子が沸き上がって、体内に侵入してきた。また意識が暗転する。