生者か死者か
寝不足の目をこすりながら出社した。地方都市のオフィス街に、俺の仕事場はある。
地下駐車場に車を突っ込み、エレベーターの上昇ボタンを押すと、急に脱力感が来た。睡眠不足のせいじゃない。過度の緊張感から解放された自覚が芽生えたせいだ。
朝まで姉貴宅で過ごした俺は、ちゃんと主婦をしているらしい彼女手製の朝飯を食って、マンションを出た。ドアを開けるときに、まざまざと深夜の物音を思い出す。見送りに出ている姉貴を何度も見返ると、
「何よ、うっとうしい?」
とケチを付けられた。心配してやってんのに。
骨……いや、俺の妄想の中で、訪問者はもっと確実な姿を持っている。口を大きく開けた頭蓋。欠損している肋骨。粉を吹いた骨盤。折れた大腿骨。山の中で見つけた遭難者は生きて帰りたかった未練を全身で表していた。玄関の向こうにいた、あの質量の軽い存在は、生きている人間と同質の立場に見せようとしていた気がする。
「幽霊や妖怪なんてものが本当にいたとして……なぜ、それが姉貴のところに現れたかが謎だよな……」
あちらを立てればこちらが立たず。超常現象で推理してみても答えは出ない。
オフィスのドアを開けると、すでに出社していた先輩社員が、
「おはよっす。なんだ?冴えない顔だな」
とからかってきた。
「ちょっとあってね。あんまり寝てないんです」
答えると、
「一晩中、何があったのかなあ?」
と下卑た笑いをぶつけてきた。
「そんないい話じゃ……」
苦笑しながら言い訳する。
そうこうするうちに、後輩の彩ちゃんが出社してきた。俺の顔を見るなり、
「どうしたんですかあ? 顔色が、青いって言うより白いですよ」
と驚いた。そんなに病的な症状なのか、俺。
「あんまり追及するなよ。一晩中の作業で衰弱しきってるんだから」
俺が答えるより早く、先輩が茶々を入れる。
「違うっ。泊まったのは姉貴のとこだって!」
彩ちゃんの前で恥をかいたことに感情的になって、思わず声を荒らげた。
「お姉さんって、この前、結婚した? 新居に泊まるなんて仲がいいんですね」
屈託なく笑う彩ちゃんは、その後、こっそりと、
「妬けちゃうなあ」
と呟いた。大きな瞳を伏せる仕草にどきっとする。
朝の定例業務をこなし、次の波が来るまでの時間をぼんやりと過ごしていた俺に、先輩が話題を蒸し返してきた。
「お前って彩っぴ狙いじゃなかったの? 本当はどこに行ってたんだよ? 姉貴の家で寝不足って変だろ」
こそっと耳打ちに忍び寄る小太りの体を押し返して、
「だから違うって」
俺は半ば笑いながら否定した。
「隣人トラブルってやつですよ。真夜中にインターホンを鳴らす非常識な馬鹿を捕まえようと思ったの」
「そりゃあ悪質だな。姉ちゃん、そんな馬鹿に絡まれてんのか」
「あの人も喧嘩腰なとこあるから……」
身内として、少々、姉貴に厳しい評価を下すと、彩ちゃんが聞きつけて寄ってきた。
「お姉さんに何かあったんですか? それで泊まったの?」
結局、俺は2人に顛末を話すことになった。
「なんだか妙な話だなあ。嫌がらせなら、もっと恫喝的なことしてもおかしくないんじゃないか? 相手は複数なんだろ?」
先輩が珍しく真面目な顔で反応する。
「でも、お隣さんですし、自分の正体を知られるのは嫌なのかも」
彩ちゃんの意見も、至極、的を射てると思う。
「自分の立場を守りたいなら、俺なら、むしろもっと恐怖感を与えて話もできないようにさせるぜ」
「先輩は過激すぎですよ」
話に割って入った。彩ちゃんの先輩を見る目が変わりつつある。
「訪問者が誰だって、今日にははっきりします。姉貴、今ごろ監視カメラを買いに行ってるはずだから」
そう説明すると、
「よかった」
と安心する彩ちゃんの横で、
「誰も映ってなかったりしてな」
とニヤつく先輩。
……もし、本当にそうだったら……。
「……幽霊が訪問してくるなんてこと、本当にあるんだろうか……」
一笑に付されると思って黙っておいた仮説を、思わず口にした。
「マジで受け取ったの? んなことあるわけないだろ」
嘲る先輩に対して、意外なことに彩ちゃんが俺を肯定した。
「そういうの、ないとは言えないんじゃないでしょうか……。だって、今朝の水嶋センパイの顔、生気が抜かれたみたいな色してた……」
俺は自分の顔を触ってみた。ちゃんと体温も持ってる。疲れも回復している。
「とり憑かれたみたいだった?」
笑ってそう聞くと、彩ちゃんは、
「ちょっと心配になりました」
と控えめに微笑んだ。
その流れを傍観していた先輩が、いきなり俺に受話器を突きつけた。
「あのさ、ちょっと面白くない、そういうの? 実録お化け屋敷! みたいな」
「人事だと思って……」
調子のいい言葉に苦笑しながら、俺は受話器を受け取る。
「それでどうすればいいんですか? 寺にでもかけて悪霊退治頼めって?」
「違う違う。かけるのは不動産屋」
先輩は自分のノートPCを手繰り寄せながら言った。
「よくあるだろ。そのマンションが建つ前は墓場だったとか沼地や井戸があったとか。それ、確認してみろよ」
「不動産屋なんか知りませんよ」
受話器を突っ返そうとすると、先輩はそれを遮って続ける。
「マンション名ならわかるだろ。検索してやるよ」
結果。大手の住宅情報会社がヒットし、俺も悪ノリで事故物件の是非を追及することにした。
会社を退社すると、そのまま姉貴宅に向かう。監視カメラの設置をしてやらないといけない。
「意外に安いのね、こういうの」
警告灯付きの丸いフォルムのカメラには数千円の値札が付いていた。それを玄関のすぐ上に取り付けたあと、別売の受信装置を室内のビデオに繋ぐ。
「これって録画OKなんだよな?」
確認すると、
「って店の人は言ってたわよ。白黒だけど」
答えが返る。録画機の電源を入れると、接続したモニターに外の様子が映し出された。
「よし、成功。明日の夕方また来るから、そのときに一緒に確認しようぜ」
促すと、姉貴は怪訝な顔をした。
「その前に見ちゃだめなの?」
不動産屋からは、特に手がかりは得られなかった。しつこく粘ってみたが、マンションが建っているのは山地を削りとった岩盤の上で、災害にも人災にも見舞われたことはなかったらしい。その回答を聞き、俺もいったんは「やっぱり隣か」と納得したんだが、このマンションに戻ってみると、言いようのない胸騒ぎが襲ってくる。ビデオに映った『もの』を、姉貴一人のときに見せたくはなかった。
「もし想像しないものが映ってたらショックだろ?」
軽口でごまかしながらそう答えると、姉貴は、奇妙に真剣な表情で尋ねた。
「それって……鳴らしてるのが、隣の母親じゃなくて子どもの方ってこと?」
「は?」
質問の意味がわからない。
「深夜2時だぜ? 子どもが起きてるわけないだろ」
否定すると、
「でも……」
と言いあぐねる。続きを促すと、姉貴はくぐもった声で呟いた。
「なんていうか……気配がね、小さいのよ。大人の大きさじゃないみたいな……」
「……」
心当たりは……あった。軽い骨のような音の羅列は、子どもが跳ね踊っているようなリズムを刻んでいた。
俺は姉貴に向き直って、俺の想像と不動産屋の回答を伝えた。顔をしかめて聞いていた姉貴だったが、一瞬、パッと目を見開いたあと、
「そうだ!」
と笑顔になった。
「そういうこと知ってそうな人が近所にいるわ。95歳のお爺ちゃんなの。おすそ分けに行ったりして顔を繋いでるから、話も聞かせてくれると思う」
次の俺の休みに合わせて、その老人宅を2人で訪問することにした。