川根ケ台 6
…どこだろう、ここは。
気づくと、見覚えのない部屋の中だった。ずいぶんと汚れたところだ。弁当の空容器や黴の浮いたペットボトルが放置されて、女物の下着や服が散乱している。
姉貴のマンションと間取りが同じだ、と気づいた。エプロン姿の彩ちゃんを堪能した台所の流しを確認すると、同じ照明、同じシンクに、統一感のない食器が、食べ終わったままの状態で投げ込まれている。
突然、幼児の声が聞こえた。女の子だ。涙声で訴えている。
「明日の遠足、お弁当作ってください…」
母親らしい若い女が金切り声を上げた。
「なんであたしがそんなことしなきゃならないのよっ!面倒かけるなら遠足なんか行くなっ!!」
女児の泣き声が大きくなった。壁越しに聞いたミナミの声と同じだった。
視界が暗転する。
開けたと思ったら、また同じ場所に出た。ただ、レイアウトがちょっと違う。カーテンの柄も変わっていた。
目の前にミナミがいた。姿が今より少し幼い。幼稚園児ぐらいだろう。白いブラウスを着て、嬉しそうに歌っている。
小太りの女が、俺に背を向けて座っていた。ミナミを見ている。間部アリサだと思った。
「お母さん、生活発表会、がんばるね」
幼女は健気な笑顔を見せた。状況がわからない俺の頭に、…誰の親切なのか、経緯が流れこんでくる。幼稚園の行事で歌を披露することになったミナミのクラスは、園側の計らいで全員が同じ衣装を贈与された。ふだん、母親からの協力が得られず、園で肩身の狭い思いをしていたミナミは、その『みんな一緒』がとても嬉しかったらしい。
「ねえ、あんた、そのブラウス、皺だらけでみっともないよ」
アリサの不機嫌な声が、ミナミの歌をストップさせた。
「もうちょっと言いようがねえのかよ」
腹を立てた俺は声に出したつもりだったが、自分の耳にも届かなかった。
俺の存在は、ここでは実体じゃないんだな、と理解した。アリサもミナミも、すぐそばに立っている俺に気づかない。
「アイロン、かけなきゃいけないね」
アリサが重そうな体を起こして、別室に消えた。何か不穏なものを覚えて、俺はミナミに近づき、聞こえるはずのない忠告をした。
「なあ、外に行こう。あの母親と2人でいたら、お前、何されるかわからないぞ」
ミナミは明後日の方向を向いたままだ。
アリサがアイロンを持って戻ってくる。手近のコンセントに電源を差し、熱が上がるまでの時間が待ち切れないとでもいうように、何度も手元のボタンを押した。そのたびに蒸気が吹き上がる。
「ちょっとおいで」
アイロンというものをあまりわかっていない様子のミナミは、アリサの呼びかけに素直に応じた。
「何するの?」
「後ろ向いて」
ミナミが背中を向けた。
馬鹿っ!俺は慌ててアリサの手を跳ねたが、まったく抵抗を感じずに通り抜けてしまった。
高温のスチームを吐き出しながら、アイロンが少女の背中に押し当てられた。
ミナミの凄まじい悲鳴と、アリサの哄笑が重なる。
見ていられなくて、俺は耳を塞いでうずくまった。
場面がまた変わった。何もない空間に放り出される。
頭を上げると、真っ黒な粒子に包まれた自分の手が見えた。
輪郭が妙に歪んでると思ったら、知らずに泣いていたらしい。
「…何がしたいんだよ…?」
特定の意思が俺の精神を蝕もうとしているのを、もう確信するしかなかった。助けたはずの女の骨から染み出した悪意が、全身に張りついているのを感じる。
「…関わらなきゃよかったか?」
理不尽さも覚えたが、余計なことをしたのかもしれない、とも思った。人間としての扱いを踏み越えられた彼女が、人間としての感覚を放棄してしまっていることは、想像できたはずだから。
網膜に30代ぐらいの細身の女が映った。艶やかな真紅の唇を歪めて…笑っている。
伸ばしてきた手を、払いのけるか掴むか迷ったが、拒絶してここに留まっても仕方がない。腕を差し出すと、俺の指の間に、彼女の指が絡んできた。その感覚は実体そのものだった。
白い着物の胸元から豊かな乳房を覗かせながら、彼女は俺に身を預けてくる。
「現世は希望…」
小さな湿った声音が、彼女の口から漏れた。
「死ぬのは弱いから…。要らないから…。生きることは強い者に譲って、あたしはあの場所に還ります」
「…現世っていうのは、生きてる人間の世界のことかな?そっちには希望があって、あんたのいた世界には…何があるんだ…?」
混乱しそうな言葉に注釈を加えて聞き返すと、狂人のように空っぽの笑顔を見せる母親は、
「優しさがあります」
と答えた。
「それは逃げてるだけだ」
否定すると、また周囲が暗くなった。
「いい加減にしてよね、毎晩毎晩!」
視界が戻る前に怒鳴り声が響いた。…サチだ…。
「自分の子どもを何だと思ってるのよ!母親が子どもを大事にしてあげなくて、どうするの?!」
久しぶりに聞いた元気な声だった。
会いたい。そう思ったとたん、サチのすぐ目の前に移動していた。間部ミナミの家の玄関口だ。連夜の虐待の声を、アリサに聞こえるように咎めたんだろう。
例によってサチには俺は見えていない。…見えていたら、きっと言い訳しただろうから。
「泣いてないからねっ」
と…。
姉貴のことを『サッちゃん』と呼んで親しんでくれた隣家の母親が、サチの頭を撫でながら、慰めていた。
「しょうがないよ、サッちゃん。そういう家庭もあるもの」
「『そういう家庭』に育ってきたから悔しいんじゃない。親が責任果たさなきゃ、子どもは無理をするしかないのよ」
姉貴は泣きじゃくりながら吐き出した。
…俺は…姉貴に頭を下げることしかできなかった。家族の本当の姿も知らず、姉貴一人に全部を背負わせてた自分の体たらくを、改めて痛感した。
どうやら、ミナミの周囲のできごとを、時系列で追っているようだ。次に飛んだのは、薄暗い部屋の中だった。万年床にアリサが寝ている。その隣で、ミナミが膝を抱えていた。
これは、たぶん、事件の起こる直前だ。ミナミが立ち上がって、台所から包丁を持ちだした。
「…なあ。なんでこんなものを見せるんだ?」
母親の骨に尋ねると、背中に柔らかい肉感が巻きついた。
「知ってほしい…」
とだけ答える。
ミナミは、でもアリサの布団には行かなかった。寝室の入り口に立ち、夕飯の支度もせずに寝入っている母親を、じっと見ている。
「お母さん、ミナミね、どうして生まれたのかなあ」
女児の震えた声に、俺のほうが力が入った。
「生まれ変わったら、今度は好きになってもらえるかなあ」
泣くこともなく、その場に座り込み、包丁を掲げる。
俺は背中の女の腕を捕まえ、無理矢理、目の前に引きずりだした。
「ミナミが刺したのは母親じゃなかったのか?あんな子どもにどうしてこんなことまでさせるんだ?!」
怒鳴りつけると、女は、やっと焦点の合った目をして、微笑んだ。
「行ってあげて」
そして、俺に抱きついてから、…ゆっくりと溶けた。
湿った黒い粒子に変わった彼女が、俺からミナミへ、橋を渡すように繋げていく。
大股でミナミに近づいて、包丁を取り上げた。少女はびっくりした顔で俺を見上げた。
俺は…なぜか、まったくためらうことなく、アリサに歩み寄り、肥満で膨らんだ腹に、刃を突き立てた。
絶叫が響き、暴れ狂ったアリサが室内の物を壊しながら、玄関に逃げていく。
俺はミナミの手を握って、その後を追いかけた。女児は呆然としながら、黙って従っている。
玄関を開け、アリサが表に転がり出た。その直後に、姉貴の鋭い声が飛ぶ。
「誰か来て!救急車を呼んで!」
頭の中にあるシナリオは、姉貴にミナミを預けろという。でも俺は迷った。事実の通り、ミナミと姉貴を接触させれば、2人は屍ケ台に飛んでしまう。
「…俺と、ここにいようか…」
ミナミに問いかけると、反射的に頷きかけたが、すぐに怯えた顔になった。
「やだっ。お母さんっ。お母さんっ」
逃げ出す女児を捕まえようとすると、腕が透けた。ミナミに繋がっていた黒い霧が、俺の元に戻ってくる。
もう干渉できない…。