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屍ケ台  作者: 小春日和
屍ケ台
19/25

川根ケ台 6

 …どこだろう、ここは。

 気づくと、見覚えのない部屋の中だった。ずいぶんと汚れたところだ。弁当の空容器や黴の浮いたペットボトルが放置されて、女物の下着や服が散乱している。

 姉貴のマンションと間取りが同じだ、と気づいた。エプロン姿の彩ちゃんを堪能した台所の流しを確認すると、同じ照明、同じシンクに、統一感のない食器が、食べ終わったままの状態で投げ込まれている。

 突然、幼児の声が聞こえた。女の子だ。涙声で訴えている。

「明日の遠足、お弁当作ってください…」

母親らしい若い女が金切り声を上げた。

「なんであたしがそんなことしなきゃならないのよっ!面倒かけるなら遠足なんか行くなっ!!」

女児の泣き声が大きくなった。壁越しに聞いたミナミの声と同じだった。


 視界が暗転する。

 開けたと思ったら、また同じ場所に出た。ただ、レイアウトがちょっと違う。カーテンの柄も変わっていた。

 目の前にミナミがいた。姿が今より少し幼い。幼稚園児ぐらいだろう。白いブラウスを着て、嬉しそうに歌っている。

 小太りの女が、俺に背を向けて座っていた。ミナミを見ている。間部アリサだと思った。

 「お母さん、生活発表会、がんばるね」

幼女は健気な笑顔を見せた。状況がわからない俺の頭に、…誰の親切なのか、経緯が流れこんでくる。幼稚園の行事で歌を披露することになったミナミのクラスは、園側の計らいで全員が同じ衣装を贈与された。ふだん、母親からの協力が得られず、園で肩身の狭い思いをしていたミナミは、その『みんな一緒』がとても嬉しかったらしい。

 「ねえ、あんた、そのブラウス、皺だらけでみっともないよ」

アリサの不機嫌な声が、ミナミの歌をストップさせた。

「もうちょっと言いようがねえのかよ」

腹を立てた俺は声に出したつもりだったが、自分の耳にも届かなかった。

 俺の存在は、ここでは実体じゃないんだな、と理解した。アリサもミナミも、すぐそばに立っている俺に気づかない。

 「アイロン、かけなきゃいけないね」

アリサが重そうな体を起こして、別室に消えた。何か不穏なものを覚えて、俺はミナミに近づき、聞こえるはずのない忠告をした。

「なあ、外に行こう。あの母親と2人でいたら、お前、何されるかわからないぞ」

ミナミは明後日の方向を向いたままだ。

 アリサがアイロンを持って戻ってくる。手近のコンセントに電源を差し、熱が上がるまでの時間が待ち切れないとでもいうように、何度も手元のボタンを押した。そのたびに蒸気が吹き上がる。

「ちょっとおいで」

アイロンというものをあまりわかっていない様子のミナミは、アリサの呼びかけに素直に応じた。

「何するの?」

「後ろ向いて」

ミナミが背中を向けた。

 馬鹿っ!俺は慌ててアリサの手を跳ねたが、まったく抵抗を感じずに通り抜けてしまった。

 高温のスチームを吐き出しながら、アイロンが少女の背中に押し当てられた。

 ミナミの凄まじい悲鳴と、アリサの哄笑が重なる。

 見ていられなくて、俺は耳を塞いでうずくまった。


 場面がまた変わった。何もない空間に放り出される。

 頭を上げると、真っ黒な粒子に包まれた自分の手が見えた。

 輪郭が妙に歪んでると思ったら、知らずに泣いていたらしい。

 「…何がしたいんだよ…?」

特定の意思が俺の精神を蝕もうとしているのを、もう確信するしかなかった。助けたはずの女の骨から染み出した悪意が、全身に張りついているのを感じる。

「…関わらなきゃよかったか?」

理不尽さも覚えたが、余計なことをしたのかもしれない、とも思った。人間としての扱いを踏み越えられた彼女が、人間としての感覚を放棄してしまっていることは、想像できたはずだから。

 網膜に30代ぐらいの細身の女が映った。艶やかな真紅の唇を歪めて…笑っている。

 伸ばしてきた手を、払いのけるか掴むか迷ったが、拒絶してここに留まっても仕方がない。腕を差し出すと、俺の指の間に、彼女の指が絡んできた。その感覚は実体そのものだった。

 白い着物の胸元から豊かな乳房を覗かせながら、彼女は俺に身を預けてくる。

 「現世は希望…」

小さな湿った声音が、彼女の口から漏れた。

「死ぬのは弱いから…。要らないから…。生きることは強い者に譲って、あたしはあの場所に還ります」

「…現世っていうのは、生きてる人間の世界のことかな?そっちには希望があって、あんたのいた世界には…何があるんだ…?」

混乱しそうな言葉に注釈を加えて聞き返すと、狂人のように空っぽの笑顔を見せる母親は、

「優しさがあります」

と答えた。

「それは逃げてるだけだ」

否定すると、また周囲が暗くなった。


 「いい加減にしてよね、毎晩毎晩!」

視界が戻る前に怒鳴り声が響いた。…サチだ…。

「自分の子どもを何だと思ってるのよ!母親が子どもを大事にしてあげなくて、どうするの?!」

久しぶりに聞いた元気な声だった。

 会いたい。そう思ったとたん、サチのすぐ目の前に移動していた。間部ミナミの家の玄関口だ。連夜の虐待の声を、アリサに聞こえるように咎めたんだろう。

 例によってサチには俺は見えていない。…見えていたら、きっと言い訳しただろうから。

「泣いてないからねっ」

と…。

 姉貴のことを『サッちゃん』と呼んで親しんでくれた隣家の母親が、サチの頭を撫でながら、慰めていた。

「しょうがないよ、サッちゃん。そういう家庭もあるもの」

「『そういう家庭』に育ってきたから悔しいんじゃない。親が責任果たさなきゃ、子どもは無理をするしかないのよ」

姉貴は泣きじゃくりながら吐き出した。

 …俺は…姉貴に頭を下げることしかできなかった。家族の本当の姿も知らず、姉貴一人に全部を背負わせてた自分の体たらくを、改めて痛感した。


 どうやら、ミナミの周囲のできごとを、時系列で追っているようだ。次に飛んだのは、薄暗い部屋の中だった。万年床にアリサが寝ている。その隣で、ミナミが膝を抱えていた。

 これは、たぶん、事件の起こる直前だ。ミナミが立ち上がって、台所から包丁を持ちだした。

 「…なあ。なんでこんなものを見せるんだ?」

母親の骨に尋ねると、背中に柔らかい肉感が巻きついた。

「知ってほしい…」

とだけ答える。

 ミナミは、でもアリサの布団には行かなかった。寝室の入り口に立ち、夕飯の支度もせずに寝入っている母親を、じっと見ている。

「お母さん、ミナミね、どうして生まれたのかなあ」

女児の震えた声に、俺のほうが力が入った。

「生まれ変わったら、今度は好きになってもらえるかなあ」

泣くこともなく、その場に座り込み、包丁を掲げる。

 俺は背中の女の腕を捕まえ、無理矢理、目の前に引きずりだした。

「ミナミが刺したのは母親じゃなかったのか?あんな子どもにどうしてこんなことまでさせるんだ?!」

怒鳴りつけると、女は、やっと焦点の合った目をして、微笑んだ。

「行ってあげて」

そして、俺に抱きついてから、…ゆっくりと溶けた。

 湿った黒い粒子に変わった彼女が、俺からミナミへ、橋を渡すように繋げていく。


 大股でミナミに近づいて、包丁を取り上げた。少女はびっくりした顔で俺を見上げた。

 俺は…なぜか、まったくためらうことなく、アリサに歩み寄り、肥満で膨らんだ腹に、刃を突き立てた。

 絶叫が響き、暴れ狂ったアリサが室内の物を壊しながら、玄関に逃げていく。

 俺はミナミの手を握って、その後を追いかけた。女児は呆然としながら、黙って従っている。

 玄関を開け、アリサが表に転がり出た。その直後に、姉貴の鋭い声が飛ぶ。

「誰か来て!救急車を呼んで!」


 頭の中にあるシナリオは、姉貴にミナミを預けろという。でも俺は迷った。事実の通り、ミナミと姉貴を接触させれば、2人は屍ケ台に飛んでしまう。

「…俺と、ここにいようか…」

ミナミに問いかけると、反射的に頷きかけたが、すぐに怯えた顔になった。

「やだっ。お母さんっ。お母さんっ」

逃げ出す女児を捕まえようとすると、腕が透けた。ミナミに繋がっていた黒い霧が、俺の元に戻ってくる。

 もう干渉できない…。


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