川根ケ台 5
そういえば、ここの時間の感覚って、どうなってるんだろう。一向に傾く様子のない太陽を見ながら、そう思った。
姉貴はまだ生きている可能性が高いが、ミナミはすでに手遅れだった。遭難でも、栄養の蓄えの少ない子どもは先に死ぬ、と救助隊員から聞いている。とすると、この世界でも、時間の流れは、ある程度、正常なわけか…。
実はさっきから強い空腹感を感じている。ここに引っ張られてから、体感的には10数時間が経っているように思う。『餓死』という言葉が人事じゃなくなってきた。
「水があれば1、2週間は生きられるはず。…でも、動けなくなったら水も調達できないな…」
その前にここから脱出できればいいが…。
最悪、屍ケ台のやり方で食料を確保することも考えた。俺が倒れたら、姉貴を現代に帰せない。
台地の上に小山が見えた。あれを目印に歩けば、姉貴たちのところに苦もなく辿りつける。
「そういえば、子ども、探してやらなきゃいけないか」
ポケットの骨にそう問いかけた。それらしい遺体はかなりの数に及んでいたはずだ。
芳賀の爺さんが『女はたくさんの子どもを産んだ』と言っていたのを思い出す。生命力の弱い乳児の数を補うためだと聞かされたが、本当は、売買のために強制的に取り上げられた数も少なくなかったんじゃないだろうか…。
「ごめんな。先に姉貴のところに行く。その後で見て回ろう」
謝ると、骨の感触が、また湿ったものに変化した。
…気のせいかな。視界が、どんどん、よくなっていくように見える。
姉貴とミナミの姿はかなり遠くから見通せた。走って近づいてみたが、途中で息切れてしまったほどの距離がある。やっぱり、あの厄介に湾曲した空気は払拭されてるんだ。
晴れやかな気分になった。だって、これはいい変化だ。重苦しい閉塞感から解放されたんだから。
もう少し奥に目をやると、遺体の群れが小さく見えていた。ひどく広大な土地を徘回した記憶があったが、それほどの面積を持たず、屍ケ台は端を見せている。
「なんでこんなことが…」
呟いてから、ふと、ポケットを見た。
「もしかして…?」
死者の怨念で歪められた世界が、彼女を救ったことで、正常に向かったのかもしれない。
「ありがとう」
礼を言うと、母親は、また艶やかに色を変えた。
姉貴とミナミは、なぜか抱き合って眠っていた。…俺、彼女たちを隣り合わせで置かなかったか…?
「姉貴は、また動いたんだろうけど…」
ミナミの腕が姉貴の背中に巻き付いているのが解せない…。
そっと引き剥がし、少女の頬に手をやった。俺の拳ぐらいしかない小さな顔は、まったくの表情を消して、冷たく強ばっている。念のため、口元に水を流してみた。固く閉じた唇の上を流れ落ちるだけだ。反応はない。
…今まで、俺はミナミに対して、それほどの関心を持って来なかった。むしろ、姉貴を巻き込みやがって、と、殺意さえ覚えていたほどだ。だけど、こんな小さな実体を見ていると、それが大人としてどれほど冷淡な感情だったかを思い知る。
「お前も、ずっと辛かったんだよな」
親父の事故のことで周囲からずっと責められてきた自分の子ども時代と、間部アリサの、娘を全否定する言葉を同時に思い出して、この子の耐えてきた重さを理解した。
「…はあ」
溜息が出る。姉貴が蘇生しない。
手先の反応はあった。つねると驚いたように跳ね上がる。水をかけると、嫌がって払いのけた。なのに、口の中に流し込んだ水分を飲み下そうとしない。業を煮やして強引に注いだが、喉から先に沈んで行かず、口内いっぱいに溢れてしまった。窒息させるんじゃないかと、慌てて横向きして処置する。
呼吸は…よくわからない。心臓は動いたり止まったりしてる。マッサージもしてみたが、肋骨を折りかけてやめた。
「もっと簡単に目を覚ますと思ってたよ。」
性格から意固地だったサチに向かって文句を言った。爪先がわずかに持ち上がったのに苦笑した。聞こえてるのかな。
「俺が来てること、わかってる?」
呼びかけると、これには返事がなかった。
諦める気はないが、手詰まりなのも確かだ。俺は仰向けに転がって対策を考えた。
「…姉貴の体には、魂がもう残ってないんだろうか?」
非科学的な言い方だが、この霊魂の支配する世界では、そんなイメージが正しいような気がした。
「捕まえて体に戻す、ってことができたら、生き返るかな?」
虫取り網で人魂を追いかける漫画チックな想像が浮かぶ。
「…馬鹿馬鹿しい」
自分に呆れて横を向いた。神道や仏教にも招魂の方法はいくつもある。なのに、なんでそんな発想なんだか。
視界の隅にミナミの体が入った。なんだか、妙に黒っぽい。
「………」
起き上がって確認すると。
少女の小さな体には、蠢く黒い霧がびっしりとまとわりついていた。
凄惨な光景に、声が出なくなった。女児の肉体は、わずかずつ形を減らしていた。霧がミナミを『食って』るんだ…。
黒い粒子の一部が俺のほうに伸びていた。恐る恐る目で追うと、母親の骨が入ったポケットに繋がる。
慌てて彼女を取り出し、投げ捨て。
…ようとしたが。
触れた途端、体中の血液が一斉に消滅したようなブラックアウトに陥った。
恐怖に抗う時間すら持たず、俺の意識は拡散した。