川根ケ台 4
水の音がする。地面の下から。
目を覚まして頭を起こす。その途端に音が消えた。もう1度耳をつける。…やっぱり地下水の流れる気配がした。
水がある!俺は飛び起きて周囲を見回した。井戸があってほしい。江戸風俗の資料館などで見た水場の構造を思い出す。時代劇では長屋の外にあるのをよく目にするが、一般的な民家では…たしか家屋の中だ。
勾配のある荒れた土地に合わせるように歪んだ小屋が、とりあえず1番手近だった。走り寄ってみる。
目の前にすると、凄まじく粗末な建物だった。壁は骨組みに葦を組んだだけの吹きっ晒しで、ところどころ破れている。入り口は板戸だが、腐って下部が抜けている。広さは8畳分ぐらいだろうか。屋根だけが高くて、住居というよりは蔵のような様相だった。
すぐには入る気にならず、周囲を回って、隙間から中を覗いた。饐えた刺激臭が漂ってくる。暗いので内情はわからない。
水は…ありそうにない。でも、確認だけはしておかないと。
表の板戸に戻ろうとした時、突然、その板戸が軋む音がした。ぎくっとして、思わず身を潜める。
人がいる…?
足音がしていた。1人じゃない。2人はいる。
…考えてみれば不思議はないのかもしれない。屍ケ台の死者たちに呼ばれてここに来たと思っていた俺は、生存者の存在を頭っから否定していた。けど、江戸時代にタイムスリップしたのだと思えば納得が行く。ここには芳賀さんたちの先祖が、今もまだ生活しているんだ。
だったら、声をかけたほうがよくないか?姉貴を救う可能性が大きくなってきたことに、内心、躍り上がった。この集落の住人は台地との間を行き交っていたはずだ。彼らに協力してもらって、姉貴をここに運び込めば、水だけでなく食事も与えられる。
勇んで歩き出そうとした俺の耳に、聞き覚えのあるセリフが届いた。
「女のは珍しいでしょう。腹ん中も全部残ってますよ」
足が凍りついた。これは、姉貴のマンションで見た幻覚の場面なのか?
会話が続く。
「胎児はないのかね?」
「もう生んじまったあとです。子どもの方は、ほら、隣に」
「そうか、残念だな。胎児なら全部が商いになるんだが」
「今度は用意しておきますよ」
下卑た笑い声が響いた。
………。『用意しておきますよ』。その言葉が頭の中にリピートする。
妊婦をどこから調達するっていうんだ?野盗稼業でそんなに都合よく手に入るものじゃないだろうに…。
もしかして、俺はすごい思い違いをしていたのかもしれない、と気づいた。元々は二分した勢力を持っていた、この土地。死体が大きな財を成すことを知った双方が、協力して他所の人間を細々と狙うだろうか?それより、お互いを相対させ食い物にしたほうが、利益は跳ね上がるんじゃないだろうか?
いや待て…。矛盾もある。芳賀さんの一族も先住民の一族も、現代まで系譜を繋いでいる。潰し合いをしたのなら、どっちかが絶滅していてもおかしくはない…。
「若い女が手に入らないのが残念だな。さる方面の奥方衆には人気があるんだが」
売人らしい男の声が、まだ続いた。
「仕方ねえです。産むほうがいなくなっちゃあ商売はできねえ」
集落の人間らしい声が応答する。
そうか…。そういう采配がちゃんとあったのか…。
完全な余所者の俺がこの場に居合わせるのは、非常にまずい気がした。それに、急がなきゃならない。もし集落の誰かが台地に登って姉貴を見つけでもしたら…。
そっと建物から離れようとすると、中から派手な音がした。固いものがひっくり返ったような。
「おうっ。これこれ。暴れたら傷がつくだろう」
住人のほうの声がする。
「腐る前に胎盤を取り出しておくか。抑えておいてくれ」
売人の言葉と金属の刃音が重なる。
…ちょ、ちょっと待て…。
体が固まった。もしかして、『女』っていうのは、まだ生きてるのか?
幻覚の中では、女はミイラ化して完全に死んでいた。けど…今、ここが同じ状況だという保証は…ない。
かちゃんかちゃんと耳障りな金属音に混じって、啜り泣きのような声が聞こえてきた。やばい。マジでそれっぽい。どうしようか…。
いろんな選択肢が頭を巡る。
このままここを離れてしまえば、惨劇の様子を聞かずに済む。それが1番理想的に思えた。俺にはサチがいる。こんなことには関われない。
背中を向けて外に踏み出す。…つもりなんだけど、足が地面に張りついていた。正義感は霧散しているが、良心だけが居座っている。『せめてここにいてやろう』と。
「ああ、もうっ!」
結果なんか知るかっ。大声を出すと、中からの音がピタッと止んだ。
身構えたまま、しばらく待った。走り出てくるだろう連中とどうやって対峙しよう…。
不安と動揺に身が竦む。喧嘩なんか…したことないんじゃないか、俺?
けれど、いつまで待っても2人が姿を現す様子はなかった。…なぜだろう。俺の声が聞こえなかったんだろうか?でも、そんなはずはないような…。
恐る恐る移動し、板戸の隣まで接近した。抜け落ちている下の部分から覗くが、人の足らしきものは見当たらない。
?どういうことだ?出ていった気配はないのに…。
疑問だらけの状況に混乱していると。
また声が聞こえ始めた。
「女のは珍しいでしょう。腹ん中も全部残ってますよ」
板戸を開けて、中に入った。
何もなかった。黴の匂いと埃にまみれた何らかの骨組みが残っていただけだ。
天井を見上げると、明かり採りから黄みがかかった陽光が注いでいた。
…寂しい場所だな…。
今の惨劇は、きっと、本当にここで行われたものなんだ、と思った。生きながらに解体された母親の無念が、この場所に留まって、救われない回想を繰り返しているんだろう…。
俺の前に幻覚として現れたのは、この母親が、マンションと屍ケ台を繋いだ怨念の本体だからかもしれない。
「…ひでえよなあ…。これじゃあ、150年祟るのも無理ないな…」
肉体的な苦痛と、自分だけでなく子どもまで『食料』にされた彼女の精神的苦痛を図ると、俺が代わりに復讐してやりたいほどの気持ちになった。
戸板を外し、取り去れるだけの側壁の葦を引っこ抜く。この陰気な建物から、母親の魂を出してやりたかった。
相当に風通しが良くなったところで、土がむき出しになった床に目を転じると、細い骨が頼りなげに転がっていた。
母親のものだと、思った。
俺はそれを拾って、脱いで腰から下げていた上着のポケットに入れた。
「子ども…見つからないな…」
それらしい痕跡はなかった。子どもだけ処分されたのか…それとも、上に連れていかれたのか…。できれば見つけて、この骨をそばに添えてやりたい。
井戸を探すうちに、村の現状を把握できるようになっていた。どの家屋も、屋根が抜け落ちていたり、それ自体が傾いていたりと、廃屋感満載だ。廃村になって長い年月が経っていることを連想させる。
「実際のこの土地は開発が進んで見違えるけど、こっちの世界では150年の年月がそのまま保たれているのかもしれないな」
進歩していく生者の空間に比べて、留まることしかできない死者の村という対比が生々しかった。
「ずっとここにいたい奴なんて…いないよな…」
ポケットの中の彼女を握り締めながら、誰に、という目的もなく尋ねた。屍ケ台に縛られている霊たちが早く解放されればいいのに、と思う。
台地から離れて村落の一番奥まで進んでみると、すいぶんと大きい屋敷に行き当たった。まだ無事に残っている入り口の戸を開くと、すぐに井戸が目に入る。
「よかった。水は?」
駆け寄って確かめると、顔が映るほどの至近距離まで満たされていた。
鶴瓶を落として汲み上げ、まず自分が飲み干す。いろんなことがあったショックで忘れていたが、喉が痛むほどヒリついた。
それから、母親にかけてやる。粉を吹いていた表面が流れ落ち、細い骨が更に小さくなった。
「………」
なんとなく彩ちゃんの抱き心地を思い出す。
「もう1回…じゃなくて…気の済むまで、好きにさせてくれないかなあ…」
もしも帰れたらさ、とは口にしなかった。でも、帰れないという絶望感は、もうない。
土間から上がり框を経て、小さな板敷きの部屋に入った。木製、しかも漆塗りと思われる食器棚が、数竿、並んでいる。
「ずいぶん、贅沢な暮らしをしてたんだな…。」
これだけの財力を持っていたということは、ここは、『この村の支配者』のほうの屋敷なんだろう。
無意識に母親の骨に手をやった。彼女を殺した一族が住んでいた家だ。怖がるかもしれない。
水を運ぶ道具を探すつもりだったが、自分でもよくわからない衝動に駆られて、奥に向かった。小刻みな部屋が連続している。今の日本家屋と違うのは、北側に当たる部分に縁側ができていることだった。屋敷内を結ぶ通路を兼ねているらしく、屋外に出たり家内に潜ったりと複雑な経路を辿っている。
道筋に導かれるままに進むと、暗い大きな部屋に出た。今までの建物とは別棟になっているみたいだ。離れだろう。
部屋の中には、豪華な仏壇があった。上を見上げると、3体の遺影がある。一番新しいと思われるものは写真だった。
「この顔、どっかで…」
と呟いてから思い出す。マンションの管理人…藤原さん、だったか…に、似てる。
「支配者は先住者のほうだったんだな…」
現代において、彼らがあれほど恐々とした生活していた意味が、よくわかった。こんな残酷なことをし続けたのなら、芳賀さんたちに負い目を感じても仕方がない。
遺影を掴んで、通路から外に投げ捨てた。それから仏壇を引き倒した。紫檀の扉が外れて散乱し、位牌が気味のいい音を立てて折れる。
「あんまり気は晴れないだろうけど」
骨に触れると、スカスカとした感触だったはずのそれが濡れているのを感じた。満足したのかもしれない。
木工の水筒を8本ほど手に入れて屋敷を出た。水の重さが大したことないとはいえ、荷物を持ってあの崖を素手で登るのは難しい。どうしようか…。
「ここの集落の人間が台地に登るときは…道があったはずだよな…」
また村内をうろついてみることにする。
俺が下りてきた崖からそうも離れない壁面に、地均しした細い階段が、かすかに痕跡を留めていた。
「…こっちも楽じゃなさそうだ」
苦笑したが、でもクライミングよりは、はるかに体力は使わずに済むだろう。
成人1人がやっと通れる幅の、それも手がかりもない不安定な悪路を進む。風が吹くたびに体が持っていかれそうだ。必死で絶壁の瘤にしがみつく。
…親父は、もう守ってはくれないのか…、と少し寂しくなった。これぐらいなら自分で切り抜けろってことかな…。
縄でくくりつけた背中の水が苦痛になってきた。登山の時は、テントから食器まで、全部持っても歩けたのに。思ったより疲労の蓄積が激しいのかもしれない。
「あのさ、水、なんで行李に入れずに、直接、背負ったか、わかる?」
気を紛らわせるために、俺は母親の骨に向かって話しかけた。
「荷物ってさ、体に密着していたほうが軽く感じるんだよ。行李だと背中から浮くだろ。だから…」
所詮、独り言だから、全部を説明しきる前に黙りこむ。
限界を超えた疲れは妄想を呼ぶらしい。いつの間にか、俺は、母親の存在を背中に感じていた。長い髪が風になびいて肩口から覗く。俺の呼吸に合わせて、彼女からも乱れた吐息が上がった。
「…リアルだな…。まあ、役得だと思えば、いいか…」
水筒よりは女の体の感触のほうが、正直、嬉しい。
「彩ちゃん、立ち直ったかなあ…」
こんな発想をしている俺を、まだあの娘が心配しているんじゃないかと、ちょっと気の毒になった。
ゴールは遠かったが、姉貴の蘇生する様を思い描いていると、希望だけは湧いてくる。
「あいつ、最初になんて言うかなあ。風呂に入りたいとか言ったら、また水を取りに、ここを往復しなきゃならないな」
笑いながら、姉貴が潔癖症であることを説明すると、背中の母親は楽しそうに頬をこすりつけた。
「それよりも飯が先か。…まさか、姉貴にも人間を食えとは言えないもんな」
軽はずみに言ってから、
「あ、ごめん」
慌てて謝った。被害者に言うことじゃない。
「その…俺のいた世界では、食人っていうのは、ちょっと特殊な…儀式とか嗜好とか…まあ、そんなふうにしか扱われないことでさ」
言い訳を続ける。
「この時代では生存のためだったんだろ?芳賀の爺さんから、この屍ケ台のことを聞いたあとに、食人の歴史を調べてみたんだ。飢饉の時に子どもを交換して食ったとか…塩漬けにして保存しておいたとか…。だから、俺、…実は、この村の悪習についても、貧しい時代のことだからしょうがないんじゃないか、ぐらいに思ってた」
背中が濡れたような気がした。母親を泣かしたと思って、さらに気まずくなる。
「だけど、あんたみたいな、…生きてるうちから中身を取り出される、とかっていうのは…、ちょっと、『生活のため』では割り切れないもんがあるんだよな…」
薬の売人の声が過剰な熱っぽさを帯びていたことに、今になって気づいた。人肉嗜好。長い間、アングラな商売に触れていると、そういう感覚が育つのかもしれない。
「可哀想だったな」
図らずしも、彩ちゃんが俺に言ってくれたのと同じ言葉で慰めると、母親も嬉しそうに身を震わせた。