川根ケ台 3
「サチっ。おい、サチ、生きてるのか!」
呼びかけても目を覚ます気配はなかった。でも、また指が、条件反射のように、びくっと動いた。
「死後硬直とか言ったら怒るぞ。なあ、生き返ってくれよ」
動きとしてはおかしいが、その可能性もないわけじゃない。過度な期待をかけないように自己を牽制しつつ、それでも込み上げてくる確信を抑えられない。
「どうすれば目え開けるんだよ?」
こちらは微動だにしない風貌を凝視すると、唇がひび割れて厚みをなくしているのに気づいた。
「水分…」
そうだ。まず水を飲ませなきゃ。
周囲を見回すが、赤茶けた粘土の土壌が広がるばかりだ。
水は、高いところに保水され、下に落ちる。背後の小高い丘を見上げた。露出した岩盤に、亀裂が幾筋も見えたが、水滴すら探すことはできなかった。
立ち上がって、小山に沿って進む。至る前に遠景として見た、ここの様子を思い描く。崩落跡が横穴になっている箇所がなかったか?そこなら蒸発し損ねた水溜まりがあるかもしれない。
ほんの数十歩先に目的地はあった。地面から2メートルほど持ち上がった壁面に、高さ1.5メートルほどの洞が開いている。飛び上がって下端に手をかけ、体を持ち上げた。よかった。ワンゲルの時の筋肉は、まだ落ちてないみたいだ。
…けれど、せっかくやってきたこの場所は、早々に退散しなければならなかった。洞窟のすぐ入り口から奥に向かって、異世界へと誘うあの黒い粒子が渦巻いていたから。
こいつに巻き込まれたら、姉貴とまた離されるかもしれない。
洞から飛び降りて、いったん姉貴の所に戻った。こんな危険な場所から遠ざけておいてやらなきゃならない。
抱え上げると…驚くほど軽くなっていた…。
「いなくなったの、夕飯前だったもんな…」
空腹にどれぐらい耐えたんだろう。それを考えると胸が痛い。
30メートルほど離した場所にサチを置き、ミナミの元に走った。同じ運命を辿った女児にも強い同情は感じていた。抱き上げる前に、数度、頬を叩いたが、ミナミのほうに蘇生する兆しはなかった。
2人を安全圏に置いて、再度、水探しに向かう。
そういえば、この台地の果てはどこにあるんだろう?屍ケ台の下には芳賀さんたちの集落があったはずだ。そこに助けになるものが残されていないだろうか。
できるだけ直進方向に、それもかなりの距離を歩いた。たぶん、3キロは下らない。
唐突に地面が終わった。視界が正常じゃないせいで、危うく崖から転がるところだった。俺の落とした小石が、切り立った谷に落ちていく。
「…この垂直壁を登攀具なしで降りろってか…」
微かに下の集落の屋根が見えていた。フリーで下りられる距離じゃない。
途中の足場で休憩を挟みながら、なら可能かもしれない。
時間と、それから俺自身の体力とを計算する。…どうしても『無理』という答えが出る。が…。
…いいや。もう考えるのはよそう。落ちても死ぬだけだ。姉貴に水を持って行ってやれなかったら、結局は俺の運命も決まるんだから。
慎重に90度近い傾斜の岩場に足をかける。幸い、風の浸食が岩盤に傷を作ってくれていた。これならルートを確保しやすい。
「あんた、高所恐怖症になったことあるか?」
山岳救助の折りに指導してもらった民間の救助隊員が、2日目の夜にそう聞いた。
「ならないわけないですよ」
当時、大学の先輩の1人が没頭していたロッククライミングに引きずり回されていた俺は、苦笑しながら答えた。
「そうか。じゃあいい山男になるな」
指導員はそう言って笑った。
「2度と山なんか行くかっ」
汗の吹き出た額を拭いつつ悪態をつく。
「こんなに苦労して助けてんのに、死んだら承知しねえぞ、サチ!」
叫んだって喉が乾くだけなのに、腹が立って気が収まらない。
安定した足場に会うたびに、身を預けて目を閉じた。10カウントする間だけ、体と脳を休める。時間を気にするのはやめた。焦りが出れば疲れが倍増する。
「…半分は来たな」
上と下の距離を見比べて安堵した。着実に成果を感じられるのはありがたい。ここでも目を閉じて休憩を取った。気力が疲れを上回っている。大丈夫だ。このまま無事に下りられる。
カウントが0になった。でも、知らず、俺は深い眠りに陥っていた。気分がいい…。自分が空っぽになったみたいだ…。
「涼二!」
突然の大声に、びっくりして起き上がった。…そしてゾッとした。俺の体は斜面から大きく剥がれて、落ちる寸前だった。
マンションの部屋で姉貴の生存を諦めかけた時も、同じことが起きたのを思い出す…。
声の正体はもうわかったけど、もしかしたら姿が見えるんじゃないかと、首を巡らした。だけど目に入ったのは別の現象だった。少し距離を取った場所の岩肌が、強風に煽られて細かい崩落を起こしている。
…考えてみれば、激しく浸食されているここだって、同じことが起きてても不思議じゃなかったんだ。なのに俺の周囲は、見えない膜にでも守られているかのように無風だった。
『当分こっちに来ちゃいかんぞ』、と、改めて親父に叱られた気がした。
足の裏に大地の感触が届く。
そのまま地面に倒れ込んで、大の字になった。
着いた…。
手も足も、もう動かない。ちょっとの間だけ、寝よう。
目を閉じると、傍らに気配がしたような気がした。確かめる必要は…ない…な…。