川根ケ台 1
着地の感触はなかったが、気づくと大地の上に立っていた。
意外なことに、そこは夜じゃなかった。薄曇の空に、控えめな太陽が昇っている。ただ、静かだった。荒れた風音は連続していたけど、それも、生命の存在を掻き消すという意味では、静謐そのものに感じられた。
少しためらってから後ろを振り向く。もしかしたら、まだそこには俺のいた世界が残っていて、もしかしたら、彩ちゃんの顔を見られるかもしれない、なんて思ったから。けれど、背後はただの闇だった。こっちに呼ばれた俺が、あちらの正常な世界の彩ちゃんを『黒い粒子』としか認められなかったように、その闇も湿った質量を伴ってゆっくりと動いていた。
後悔は、してる。
「当たり前だ」
大きな声で断言してみた。ちょっと吹っ切れたような気がする。大きく伸びをすると、それでもやる気は出てきた。
「お袋、姉貴も俺もいなくなったら泣くかなあ」
口にはしたが、実はあんまり気にしてもいない。お袋は長い時間をかけずに俺たちのことは忘れるだろう。自分のことで手一杯な人だ。
「なんか身軽になった気がする」
こんな形で人生を放棄したくはなかったが、それでも、辛い気持ちばかりじゃない。
歩き出そうと正面を向くと、厄介なことに気づいた。明るいのに見通しが悪い。空気の密度が違うのか、まっすぐの視界が蜃気楼のように歪んでいた。風景とは思えない人工的な色が散在しているから、何か…まあ、あんまり歓迎しないものだろうけど、それが在るのは認識できる。
姉貴は…どんな姿になっているんだろう…。現実の時間から換算すれば1ヶ月。とても原型を保ってるとは思えない。
とりあえず人工物に向かってみた……が、意外に難しいな、これ……。近づけば近づくほど視野が歪む。曲面の鏡を貼ったミラーハウスの中を歩いているような感じだった。
右方向にあると警戒して近づいた『それ』が、突然、すぐ左手に現れて焦る。戸板に乗った無残な姿に触れまいと、妙な抵抗をして、逆に一緒にひっくり返った。我ながら情けない悲鳴を上げる。
乾いた屍の空っぽの眼窩から目を逸らした。……死体の目っていうのは、なんでこんなに怖いんだろう……。ありえないほどの軽い質量と、視界の端に入ったまばらな髪。
溜息が出た。
……姉貴はこんなふうになっているんだろうか……。
しばらくの間、動けなかった。屍体にこれ以上触れることが嫌だったからじゃない。……姉貴を見つけたくなかったからだ。
でも……。でもさ……。
身を起こし、ミイラを押しやって、立ちあがった。1体1体、確かめながら、ゆっくりと進む。
でもさ。どんなふうになってても、見つけてやらないと。こんなところに、いつまでも置いておくわけにはいかないしさ……。
視界の右側に、少し趣の違う様子の屍が映った。どきっとした。ミイラにしては生々しい。クリアな皮膚感と鮮明な赤。まさか……。ゆっくりと近づき、前例と同じ要領で反対側を見る。…が、ない。
「あれ?」
慌てて他所を見ると、すぐ至近距離で………、……簡易櫓に吊るされた、内蔵剥き出しの遺体に出食わした。
我慢できずに、その場で嘔吐した。身がついてるのは勘弁してくれ……。
それでも顔を上げる。長い舌を垂らした断末魔の顔を確認して、男であることに安堵した。
血に酔うっていうのを聞いたことがあるが、死体にも酔うみたいだ。だんだん正常な考えができなくなってきた。
屍ケ台の惨状を実際に見てみると、芳賀の爺さんが、いかに美談に仕立てていたかがわかる。ここにあるのはミイラばかりじゃなかった。明らかに、この場で屠殺した様子の数体も目にした。
旅人を襲う野盗だという話も怪しい。江戸期当時の旅は健脚と潤沢な資金が必要だったと習った。それなのに、この場所には子どものミイラも数多く残されている。思わず目を背けた1体は、傍らの母親にすがりついた左手を切り取られていた。姉貴とミナミじゃないことは確認済みだ。
寒村の生活を守るために、やむなく取った死体売りの商い。それが、いつの間にか殺戮を目的にしたものにすり替えられていったんだろうか…。
「はあ…」
涙が出そうになって座り込んだ。ずいぶん涙腺が緩んだんだな、俺。…まあ、悪いことじゃない。
「彩ちゃんに会いたい。お袋やカイさんには会いたくない。あ。先輩には挨拶ぐらいしておきたかったな」
わざと子どもみたいな口調でわがままを口にした。大人として、理性的な行動を取る余裕がなくなってる。
彩ちゃんの最後の姿が脳裏に浮かんだ。あんなに可愛かった娘が、ただの霧になっちまったのがもったいない。
…どんな顔で泣いてたんだろう。キスした時の顔も、そういえば見ていない。…あの世に写メとか…送れるわけないか。自分の考えに笑った。
寝転がって横を向いた。頭を抱えて丸くなる。耳を塞いだ。これ以上思考が進まないように。
帰りたいとは思わないように。
うとうとしていた。目が覚めてからも、鈍った頭を醒ます気力が湧かない。
手足が重い。起き上がりたくない。姉貴には会いたいけど、もう死体は見たくない。
もう一度、目を閉じた。こんなところまで来ておいて諦めるのも馬鹿らしいけど、やる気が萎えた。
「もうどうでもいいや」
そう言ってしまえば、自分の中に燻る姉貴への未練が消えるかと思った。
「…んなわけ…なかった」
でも、うまくは行かなかった。柿の木の枝が折れて落ちた姉貴の、激痛に耐えて『平気平気』と笑った顔を思い出したから。
「おーい」
溶けそうにだるい体を引きずって歩き回る。返事なんかあるわけない。わかってる。だけど、人間の声を耳に入れておかないと、意識が霧散しそうだった。
「サチー!迎えに来たぞー」
と怒鳴っておいてから、
「なんかこれって、あいつの高校の時みたいだな」
と自分でつっこみを入れる。サチの通学路に動物の死骸が置かれる悪戯が連続したことがあって、警戒したお袋から、下校時に迎えに行くように言われたんだ。
あの時のお袋は、サチの母親としての役目をちゃんと果たしていた。考えてみれば、今回のきっかけになったインターホンの事件のことだって、お袋の勧めで姉貴のマンションに行ったんだよな。
家族を大事にすることだけにエネルギーを費やしてきた中学時代の俺と、自分のために生きてみたいと願う現在の俺が、頭の中で、お互いを打ち消し合った。
「もっと気楽に行きたいんだよ」
とドライに構える俺に、俺が、
「お前って、でも実は、姉貴もお袋も大好きなんだろ?」
と反論する。
「リョウちゃん、そこ、あたしの席」
俺が親父の膝に入ると、すぐに飛んできて横入りしていたサチは、あの頃、親父が大好きだった。
「飲み過ぎはよくないけど、お父さんのお酒は明るいからいいわね」
さり気なく酒の入ったグラスを片付けながら、お袋は親父に笑いかけた。
「涼二、お父さんは、あんまり強い人間じゃない。嫌なことがあると、すぐにお酒を飲んで忘れたくなるんだ。お前は俺のようになっちゃいかんぞ」
と言う親父に、
「でも、オレ、お父さんみたいになりたい」
幼児の俺はそう返した。弱い人間性に溺れながらも、必死でそれを跳ね返して、俺たちを愛し続けてくれた親父の気持ちを、あの頃は理解していたんだと思う。
回想しながら歩いていたら、いつの間にか周囲の景色が変わっていた。行く手に盛り上がった小山が見える。斜面に張りついた剥き出しの岩が、今にも崩れそうだった。実際、崩落の跡らしい大きな横穴も開いている。
その麓に。
「…1体発見」
げんなりしながら、俺は、傾斜にもたれかかって座り込む遺体に目を向けた。嫌悪感が募る前に、足早に近づく。さっさと確認だけして、さっさと去ろう。
遺体の前に屈み込んで、土気色に変わった顔にかかる前髪を、そっとよけた。
ミイラじゃない。生前と同じぐらい、綺麗なままの姿を保っていた。
腕に固く女児を抱きしめているのが、本当に姉貴らしかった。