異界との接触 3
ぎくっとして足が止まった。
何時だ? まだ『正常な』訪問者があるような時間なんだろうか。
動けずにいると、ドアの向こうから聞き覚えのある声で呼ばれた。
「センパイ……起きてますか……?」
……彩ちゃん……。
慌ててドアに駆け寄った。ノブを回す手が痺れているのがもどかしい。体を押し付けるようにして扉を開き、
「なんだよ、今日は……」
見合いじゃなかったのか、と続けようとして、再度、俺は固まった。
彩ちゃんの上半身が真っ赤に染まっている。数週間前に見た、ミナミの生首を下げた姿が重なった。
「どうかしたんですか……?」
不安そうな彼女の顔に、はっとして正気づく。赤かったのは真紅のタートルセーターを着ているせいだ。
「別にどうもしない。あ……その……。何か用?」
慌てて取り繕うと、彩ちゃんは珍しく、笑顔を見せずに沈んだ表情で、
「センパイに会いたくて……。聞いてほしいことがあるんです」
と俯いた。
居間に通すと、まず座卓の上のビール缶を見咎められた。
「センパイ、お酒飲んでたの?」
「もう醒めてるよ」
素面で話を聞く環境ができていることを伝える。
ちょっとためらった後、彼女は座卓を挟んだ俺の対面に着座した。
「あのねセンパイ、……わたし、今日……」
言い渋る彩ちゃんに、
「聞いたよ。見合いだったんだろ?」
努めて平静な口調で補足した。彼女に言わせるのは、なんとなく酷な気がした。
彩ちゃんの大きな目が、さらに大きくなる。
「知ってても電話もくれなかったんだ……」
「……」
予想外の返事だった。まさか俺のほうが責められるとは思わなかった。
思わず言い訳が口を突く。
「だ、だって、何を言えっていうんだよ? 見合いがんばれ、とでも言ってほしかったの?」
うろたえているのがバレバレだ。そんな俺に戸惑ったような視線を向けて、彩ちゃんは、肘をついて組んだ細い指先を、唇に当てたまま、呟いた。
「したくてしたわけじゃないもん。ずっと、センパイが迎えに来てくれないかなって……待ってたのに」
脳への血流が堰き止められた気がした。耳障りな破壊音が頭の中に響いてる。
彩ちゃんの言葉は、喜ぶべきもの、のはず……。なのに、俺に湧き上がっていたのは、不快感と怒りだった。こっちは、深刻な逆境の中、必死に自分を保っている。彩ちゃんの気持ちにまで手を回せというのは、あんまりにもわがままじゃないか。
いや、違う。……本当はそういう意味じゃない。
姉貴のことに集中しようと、他を切り捨ててきたこの1ヶ月の間に、俺の中には強固な殻ができあがっていた。カイさんやお袋に乱されたぐらいじゃビクともしないぐらいに。でも、彩ちゃんに関しては、まったく油断した状態で……。
散々に疲れきった自分の内側に入り込まれているようで、動揺を隠せない。
「見合いが嫌なら、自分でそう言えばよかっただろ」
刺々しい気分で彩ちゃんに当たった。心の中では『ごめん』を繰り返すけど、それを言葉にすることができない。
「そ……うん……」
彼女は俯いたまま口ごもる。
それから、小さく頭を振って、無理矢理な笑顔を返した。
「そう言われると思ったんですけど」
その瞬間、ガードが解けた。彩ちゃんの二の腕を掴み、自分のほうに引き寄せる。小さな骨格が俺の胸の中に収まった。仕事上で1人の人間として見ていた彼女はそれなりに大きな存在だったが、こうして抱きしめると、怖いぐらい頼りない。
最初は強張っていた彩ちゃんの体から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。胸に当たる彼女の吐息が熱くなっていく。抱きしめたまま、髪の中に顔を埋め、目を閉じた。柔らかい猫っ毛が気持ちいい。
彩ちゃんの指が、そっと俺の背中に回ってきた。
……いま、どんな表情をしているんだろう……。
好奇心が働いて、俺はゆっくりと目を開いた。ピンク色の頬に浮かべた照れ笑いを想像しながら。
けれど。
そこに予想した光景はなかった。
真っ暗だ。下も上もない。自分の姿さえ見えない。
床の下から風が吹き上げた。氷を撫でてきたように冷たい。それが天井に向かって抜けていく。振り仰いでも物質はなく、虚しい闇ばかりが広がっている。
屍ケ台とも違う。寂寥感の漂う渇いた台地なら、まだ視界は利いた。今は、まったくの無。視神経が脳へのアクセスを止めてしまったような、強制的な暗闇だった。
引きずり込まれる恐怖に、俺はもう1度きつく目を閉じた。幻覚だ。すぐに元に戻るはずだ。
「センパイ……痛い……」
彩ちゃんの声がすぐ傍で聞こえた。腕の中には、彼女の感触がちゃんと在る。
「あ、ああ……」
知らずに、かなりの力で絞めつけていたらしい。解放しようとした。が……。
その弾みに彩ちゃんがいなくなってしまいそうな気がして、できなかった。
「痛いです、センパイ……」
彼女の体に過剰な力が入ってる。逃げ出そうとするのを、俺はさらに抑え込む。
「離れるなよ。探せなくなる」
「だって……」
苦しそうに喘ぎながら、彩ちゃんは俺の体を押し返してきた。
「痛い。もう放して」
渾身の抵抗で離れようとする彼女の苦痛を慮って、つい腕を緩めた。隙をついて彩ちゃんが逃げ出す。
とたん、何もない空間に取り残された。
反射的に手を伸ばすと、細い体温に触れた。そのまま掴む。手首だ。
「きゃあ!」
本気で怯えた悲鳴が上がった。多少ショックを受けながらも、俺は、再度、彩ちゃんの体を引き寄せた。
腰に手を回すと、彼女はバタバタと暴れた。
「やだっ。嫌ですってばっ。どうしたの、センパイ?!」
そう叫ぶ彩ちゃんには、この異空間が見えていないのだろうか。
「暴れるなって! 治まったらちゃんと放してやるからっ!」
俺も怒鳴り返した。ビクッとした彼女から、やがて泣き声が漏れた。
長い。一向に闇が晴れない。
「センパイ……、あの……苦しいんですけど……」
彩ちゃんの息が上がってきた。
「もう少し力を抜こうか?」
自分ではそんなに強く締めているつもりはない。見えないから加減が難しい。
「はい……お願いします。逃げたりしないから……」
呟くように答えると、彩ちゃんはぐったりともたれかかった。
「ごめん……」
片腕だけ彼女の腰から離し、髪を撫でた。身動ぎした彩ちゃんは、自分から俺にしがみついた。
しばらく、どちらからも声はかけなかった。俺は失くした視覚を取り戻そうと必死だった。本当にどうしちまったんだ。なぜ、こんなに時間がかかるんだ?
絶望的な気分を押し留めて耐えていると、彩ちゃんが不安そうに囁いた。
「……センパイ……。センパイの中で……何が起こってるんですか……?」
「?!」
初めてその可能性に行き当たって、俺は恐怖に言葉を失った。
ここは俺の内部なのか? いつまでも正常な世界に戻れないのは、俺が完全に狂ったからなのか?
崩壊した自覚はなかった。……でも、妙な開放感はあった。
よく我慢したと思う。姉貴がいなくなってから。
……いや、本当はもっと前だ……。家族の中で頼る対象がいなくなってから、常に重圧と戦ってきた。10歳に満たないようなガキが、家族の長として振る舞ってきたんだ。精神に祟るのも無理はない。
やりたいことは……いくつもあったよ。正常なお袋の元で、親父に対する野次のない学校生活を送りたかった。痛々しいほどの自己犠牲をする姉貴の、のびのびと生きる姿も見てみたかった。どうして俺がこんな家族の一員になったのかって、大声で叫んでやりたかった。
彩ちゃんの指が俺の頬を伝うのを感じた。……その軌道に水滴が広がっているのも、自覚した。
「センパイが泣いてるとこ、初めて見た」
優しい声で指摘された。
「そんなに我慢してたんですね。可哀想に」
そう言って、頭を撫でてくれた。
返事ができなかった。嗚咽を殺すのに手一杯だった。
彩ちゃんは、俺の手を握りながら、ずっと話しかけてくれた。
「まだ見えないんですか?」
彩ちゃんの掌が、金色の軌跡を描いて、目の前を揺れる。
「うん。あ……その手の動きは見える」
俺は距離を図りながら、彼女の手を掴んだ。
「救急車を呼んだほうがいいのかなあ……」
逡巡する彼女に、
「いけね。保険証取りに自宅に戻らないと」
軽口を返す。彩ちゃんからも安堵の笑いが漏れた。
「センパイはすごいね」
そんなことを言われた。
「え? 何が?」
醜態を見せたばかりなのに、評価をされる理由がわからない。
「だって、我慢強いもん」
なるほど。悪い意味で言い得てる。
「うん、まあ。確かに、いろんなことを我慢してたな」
冗談で『彩ちゃんに対しても』と続けようとしたが、先を越された。
「しなくていい我慢もしちゃうし」
「……」
彩ちゃんの頭が腕に当たったのを感じた。
「……ねえ、センパイ。わたしがセンパイを好きなこと……知ってました?」
試すように問いかける彼女に、
「本気にはしてなかったけど」
正直に答えた。
「あ、ひどい」
膨れた頬を連想させる声がする。
「そんなに自分に都合のいいことはないと思ってたからさ」
言い訳すると、
「それってどういう意味ですか?センパイがわたしのことをどう思っているか、2文字で答えてください」
とやり返された。
……2文字って……。答え、決まってるじゃないか。それ……。
「うん、まあ……」
でも、その短い言葉が、なかなか言えなかった。
「っていうか、なんで文字数限定なんだ? 他の答えかもしれないじゃないか」
ちょっと捻くれてもみる。
「それ以外の返事を聞きたくないから」
彩ちゃんの声は真剣だった。
手探りで肩を抱き、指先で彩ちゃんの顔をなぞった。柔らかい唇を探り当てる。
「今日は来てくれてありがとう……」
フェイントをかますと、
「ずる……」
と非難が返ってくる。最後まで言わせずに唇を塞いだ。
目を閉じて、役に立たない視界を自ら遠ざけた。でも頭の中には幸せそうな表情をした彩ちゃんが、はっきりと浮かんだ。