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屍ケ台  作者: 小春日和
現代
12/25

異界との接触 3

 ぎくっとして足が止まった。

 何時だ? まだ『正常な』訪問者があるような時間なんだろうか。

 動けずにいると、ドアの向こうから聞き覚えのある声で呼ばれた。

「センパイ……起きてますか……?」

……彩ちゃん……。


 慌ててドアに駆け寄った。ノブを回す手が痺れているのがもどかしい。体を押し付けるようにして扉を開き、

「なんだよ、今日は……」

見合いじゃなかったのか、と続けようとして、再度、俺は固まった。

 彩ちゃんの上半身が真っ赤に染まっている。数週間前に見た、ミナミの生首を下げた姿が重なった。

「どうかしたんですか……?」

不安そうな彼女の顔に、はっとして正気づく。赤かったのは真紅のタートルセーターを着ているせいだ。

「別にどうもしない。あ……その……。何か用?」

慌てて取り繕うと、彩ちゃんは珍しく、笑顔を見せずに沈んだ表情で、

「センパイに会いたくて……。聞いてほしいことがあるんです」

と俯いた。


 居間に通すと、まず座卓の上のビール缶を見咎められた。

「センパイ、お酒飲んでたの?」

「もう醒めてるよ」

素面で話を聞く環境ができていることを伝える。

 ちょっとためらった後、彼女は座卓を挟んだ俺の対面に着座した。

「あのねセンパイ、……わたし、今日……」

言い渋る彩ちゃんに、

「聞いたよ。見合いだったんだろ?」

努めて平静な口調で補足した。彼女に言わせるのは、なんとなく酷な気がした。

 彩ちゃんの大きな目が、さらに大きくなる。

「知ってても電話もくれなかったんだ……」

「……」

予想外の返事だった。まさか俺のほうが責められるとは思わなかった。

 思わず言い訳が口を突く。

「だ、だって、何を言えっていうんだよ? 見合いがんばれ、とでも言ってほしかったの?」

うろたえているのがバレバレだ。そんな俺に戸惑ったような視線を向けて、彩ちゃんは、肘をついて組んだ細い指先を、唇に当てたまま、呟いた。

「したくてしたわけじゃないもん。ずっと、センパイが迎えに来てくれないかなって……待ってたのに」


 脳への血流が堰き止められた気がした。耳障りな破壊音が頭の中に響いてる。

 彩ちゃんの言葉は、喜ぶべきもの、のはず……。なのに、俺に湧き上がっていたのは、不快感と怒りだった。こっちは、深刻な逆境の中、必死に自分を保っている。彩ちゃんの気持ちにまで手を回せというのは、あんまりにもわがままじゃないか。

 いや、違う。……本当はそういう意味じゃない。

 姉貴のことに集中しようと、他を切り捨ててきたこの1ヶ月の間に、俺の中には強固な殻ができあがっていた。カイさんやお袋に乱されたぐらいじゃビクともしないぐらいに。でも、彩ちゃんに関しては、まったく油断した状態で……。

 散々に疲れきった自分の内側に入り込まれているようで、動揺を隠せない。


 「見合いが嫌なら、自分でそう言えばよかっただろ」

刺々しい気分で彩ちゃんに当たった。心の中では『ごめん』を繰り返すけど、それを言葉にすることができない。

「そ……うん……」

彼女は俯いたまま口ごもる。

 それから、小さく頭を振って、無理矢理な笑顔を返した。

「そう言われると思ったんですけど」


 その瞬間、ガードが解けた。彩ちゃんの二の腕を掴み、自分のほうに引き寄せる。小さな骨格が俺の胸の中に収まった。仕事上で1人の人間として見ていた彼女はそれなりに大きな存在だったが、こうして抱きしめると、怖いぐらい頼りない。

 最初は強張っていた彩ちゃんの体から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。胸に当たる彼女の吐息が熱くなっていく。抱きしめたまま、髪の中に顔を埋め、目を閉じた。柔らかい猫っ毛が気持ちいい。

 彩ちゃんの指が、そっと俺の背中に回ってきた。

 ……いま、どんな表情をしているんだろう……。

 好奇心が働いて、俺はゆっくりと目を開いた。ピンク色の頬に浮かべた照れ笑いを想像しながら。

 けれど。

 そこに予想した光景はなかった。


 真っ暗だ。下も上もない。自分の姿さえ見えない。

 床の下から風が吹き上げた。氷を撫でてきたように冷たい。それが天井に向かって抜けていく。振り仰いでも物質はなく、虚しい闇ばかりが広がっている。

 屍ケ台とも違う。寂寥感の漂う渇いた台地なら、まだ視界は利いた。今は、まったくの無。視神経が脳へのアクセスを止めてしまったような、強制的な暗闇だった。

 引きずり込まれる恐怖に、俺はもう1度きつく目を閉じた。幻覚だ。すぐに元に戻るはずだ。


 「センパイ……痛い……」

彩ちゃんの声がすぐ傍で聞こえた。腕の中には、彼女の感触がちゃんと在る。

「あ、ああ……」

知らずに、かなりの力で絞めつけていたらしい。解放しようとした。が……。

 その弾みに彩ちゃんがいなくなってしまいそうな気がして、できなかった。

「痛いです、センパイ……」

彼女の体に過剰な力が入ってる。逃げ出そうとするのを、俺はさらに抑え込む。

「離れるなよ。探せなくなる」

「だって……」

苦しそうに喘ぎながら、彩ちゃんは俺の体を押し返してきた。

「痛い。もう放して」

渾身の抵抗で離れようとする彼女の苦痛を(おもんぱか)って、つい腕を緩めた。隙をついて彩ちゃんが逃げ出す。

 とたん、何もない空間に取り残された。

 反射的に手を伸ばすと、細い体温に触れた。そのまま掴む。手首だ。

「きゃあ!」

本気で怯えた悲鳴が上がった。多少ショックを受けながらも、俺は、再度、彩ちゃんの体を引き寄せた。

 腰に手を回すと、彼女はバタバタと暴れた。

「やだっ。嫌ですってばっ。どうしたの、センパイ?!」

そう叫ぶ彩ちゃんには、この異空間が見えていないのだろうか。

「暴れるなって! 治まったらちゃんと放してやるからっ!」

俺も怒鳴り返した。ビクッとした彼女から、やがて泣き声が漏れた。


 長い。一向に闇が晴れない。

「センパイ……、あの……苦しいんですけど……」

彩ちゃんの息が上がってきた。

「もう少し力を抜こうか?」

自分ではそんなに強く締めているつもりはない。見えないから加減が難しい。

「はい……お願いします。逃げたりしないから……」

呟くように答えると、彩ちゃんはぐったりともたれかかった。

「ごめん……」

片腕だけ彼女の腰から離し、髪を撫でた。身動ぎした彩ちゃんは、自分から俺にしがみついた。


 しばらく、どちらからも声はかけなかった。俺は失くした視覚を取り戻そうと必死だった。本当にどうしちまったんだ。なぜ、こんなに時間がかかるんだ?

 絶望的な気分を押し留めて耐えていると、彩ちゃんが不安そうに囁いた。

「……センパイ……。センパイの中で……何が起こってるんですか……?」

「?!」

初めてその可能性に行き当たって、俺は恐怖に言葉を失った。

 ここは俺の内部なのか? いつまでも正常な世界に戻れないのは、俺が完全に狂ったからなのか?


 崩壊した自覚はなかった。……でも、妙な開放感はあった。

 よく我慢したと思う。姉貴がいなくなってから。

 ……いや、本当はもっと前だ……。家族の中で頼る対象がいなくなってから、常に重圧と戦ってきた。10歳に満たないようなガキが、家族の長として振る舞ってきたんだ。精神に祟るのも無理はない。

 やりたいことは……いくつもあったよ。正常なお袋の元で、親父に対する野次のない学校生活を送りたかった。痛々しいほどの自己犠牲をする姉貴の、のびのびと生きる姿も見てみたかった。どうして俺がこんな家族の一員になったのかって、大声で叫んでやりたかった。

 彩ちゃんの指が俺の頬を伝うのを感じた。……その軌道に水滴が広がっているのも、自覚した。

「センパイが泣いてるとこ、初めて見た」

優しい声で指摘された。

「そんなに我慢してたんですね。可哀想に」

そう言って、頭を撫でてくれた。

 返事ができなかった。嗚咽を殺すのに手一杯だった。

 彩ちゃんは、俺の手を握りながら、ずっと話しかけてくれた。


 「まだ見えないんですか?」

彩ちゃんの掌が、金色の軌跡を描いて、目の前を揺れる。

「うん。あ……その手の動きは見える」

俺は距離を図りながら、彼女の手を掴んだ。

「救急車を呼んだほうがいいのかなあ……」

逡巡する彼女に、

「いけね。保険証取りに自宅に戻らないと」

軽口を返す。彩ちゃんからも安堵の笑いが漏れた。

「センパイはすごいね」

そんなことを言われた。

「え? 何が?」

醜態を見せたばかりなのに、評価をされる理由がわからない。

「だって、我慢強いもん」

なるほど。悪い意味で言い得てる。

「うん、まあ。確かに、いろんなことを我慢してたな」

冗談で『彩ちゃんに対しても』と続けようとしたが、先を越された。

「しなくていい我慢もしちゃうし」

「……」

 彩ちゃんの頭が腕に当たったのを感じた。

「……ねえ、センパイ。わたしがセンパイを好きなこと……知ってました?」

試すように問いかける彼女に、

「本気にはしてなかったけど」

正直に答えた。

「あ、ひどい」

膨れた頬を連想させる声がする。

「そんなに自分に都合のいいことはないと思ってたからさ」

言い訳すると、

「それってどういう意味ですか?センパイがわたしのことをどう思っているか、2文字で答えてください」

とやり返された。

 ……2文字って……。答え、決まってるじゃないか。それ……。

 「うん、まあ……」

でも、その短い言葉が、なかなか言えなかった。

「っていうか、なんで文字数限定なんだ? 他の答えかもしれないじゃないか」

ちょっと捻くれてもみる。

「それ以外の返事を聞きたくないから」

彩ちゃんの声は真剣だった。


 手探りで肩を抱き、指先で彩ちゃんの顔をなぞった。柔らかい唇を探り当てる。

「今日は来てくれてありがとう……」

フェイントをかますと、

「ずる……」

と非難が返ってくる。最後まで言わせずに唇を塞いだ。

 目を閉じて、役に立たない視界を自ら遠ざけた。でも頭の中には幸せそうな表情をした彩ちゃんが、はっきりと浮かんだ。


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