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月の見える公園で

作者: さな

「……四千三百円、ですか?」

 私がそう言うと、目の前の小太りの男はさも当然であるとでも言いたげな顔で、

「うん。四千三百円だ」

 と答えた。人を舐めるにも程がある。そう思ったが、当然口には出せない。するとその男は続けて、

「じゃあ、来月の給料から引いておくから」

 と言うのである。

 私が悪い事をしたとでも? しかしそれでも言い返せないのは、下っ端のさだめだ。



 先日、私のバイト先のビル、の向かいのビルで火災が発生した。幸い怪我人は一人も出なかったものの、これは私の人生においては滅多にない一大事である。私も真ん前の建物が燃えているのを指をくわえて見ているような男ではない。そこで私は、手近な距離の消火器を手に取り、外へと駆け出す。消火器を持ち出したのだから、当然消火を試みたのであるが。

 ここで誤解の無いように言っておくが、私に何の功名心も無かったと言えばそれはもちろん嘘になる。しかし、一躍ヒーローとして新聞・ニュース、ワイドショーで勇敢な市民として取り上げられ……とまでは行かないとしても、少しくらいの見返りがあっても良さそうなものではないか! だが現実の理不尽という名の牙は容赦なく襲いかかったのである。

 私は人の海を掻き分けて進み、燃えるビルに向かい消火活動を開始したものの、ごうごうと燃えさかる建物の前に一本の消火器などあまりに無力、やや遅れてやって来た消防隊員達には「近づいちゃ駄目だよ、危ないんだから」と注意までされ、野次馬連中から冷ややかな眼差しを受けつつ、すごすごと退散した。



 そして、それだけならまだ自分史から消したい事項が一つ増えるだけだったのだが、その後日、今日。小太りで無精髭の上司から、消火器一本分の使用料として、四千三百円を請求されるに至ったのである。消火器の中の粉末代、だそうだ。そんなに高かったとは。

 私も、ささやかな抵抗をしようと努力はした。しかし、仮に私が「じゃああの消火器は何のために置いてあるんですか。火元を消火するためでしょう」と意見したとして、「でもあれ、隣のビルだったよね。あの消火器、ウチの物なんだよね」というようなことを言われたら、言い返す事は出来ないであろう。実際私は消火の役には立たなかったのである。前から変な奴だと内心では思っていたが、まさかここまでとは。こいつには助け合いの精神がないのかとは思うし、何かの法律に触れてはいないのかとさえ思う。だが私は、ひたすら耐えた。それが小心ながらも思いつく限りの最善の判断であったからだ。

 だってそうではないか。目の前の男は、簡単に私を解雇する事が出来るのだ。この不況では、いくら学生のバイトと言ってもすぐに見つかるかは怪しいものだ。貧乏学生は一月分の給料が無くなるだけでも相当厳しい。



 私は平凡な人間である。さえない男である。昨日を丸々コピー、ペーストしたような今日を生き続けている人間である。そして、変わらぬ生活に多少の変化が表れたとしても、大抵は今挙げたような、負の方向への変化なのだ。いや、別に私は自らを不幸であるとは思っている訳ではない。日々を生きる事そのものが困難な人間に比べたら、私の日常の何と恵まれていることであろうか。

 しかし、同年代の男女が充実した日々を送っている事を思うと、何とも言い難い気分になる。同級生からの、地味眼鏡などと言う呼称を甘んじて受けている私とは雲泥の差である。

 私はこの日々に耐えきれなくなっていたのかも知れない。

そのための行動、現状を打破しようと行ったことが裏目に出て、今日のように、ますます深く落ちていくことになる。


 私には、明るいところで行動する勇気はない。それなのに、日陰でじっとしていることも出来ないのだ。そしてまた、今日が終わり、変わらぬ日々は続いていく……。


 そのはずだった。



 日も完全に落ちて真っ暗になった頃、バイト先のビルを後にした私は、普段ならどこに立ち寄るでもなく、そのまま帰路につく。だが今日は違った。先程のことで沈んだ気分を転換するためか、それともただの気まぐれか。よく覚えてはいないが、帰途にある小さな公園に寄ってみる気になったのだ。

 その公園は、住宅街のちょうど中心辺りにある。確か桜だか梅だかの名前が付いていたように思う。私も幼い頃は、この公園でよく遊んでいたものである。今は随分と寂れているが、昔はもう少し活気があったのだ。あの頃は右も左も分からないくせに、やたらと楽しかった記憶がある。あの時の私にあって、今の私にないものはなんだろうか。それがこの日々を打開する鍵にはなり得ないだろうか。そういったことを考えつつ大して広くもない敷地内をのんびりと歩いていると、

「おや?」

 ベンチに人影を発見した。

 珍しいこともあるものだな。実際の所、この公園で人を見かけることは非常に少なかった。昼間の時間帯でも子供が二人居ればいい方、いわんや夜中など、人っ子一人見ないのが普通であり、周囲の街灯の少ないこともあって、幽霊でも出そうだと恐れられているくらいである。私にとってこの公園は数少ない思い出の場所のひとつであるのだが。しかし、幽霊、ねえ。もし仮に幽霊がいたとしても、何を恐れることがあるというのだ、馬鹿馬鹿しい。生きている人間の方が何倍も怖い。既にこの世を退場した人間に何が出来るというのだ。私にとっては幽霊よりも、最近この街に現れた通り魔の方が、よほど恐怖の対象となり得る。もっとも、その通り魔は、若い女しか狙わない。だが、それでも幽霊よりは怖い。私がその例外第一号にならない保証もない。

 私はそのベンチに近づくことにした。遠目にだが、そのシルエットが女の形をしているように見えたからだ。女性が夜遅くに公園に居たとしたら、通り魔の件が無くとも危険であると言わざるを得ない。近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。

 それは、とても綺麗な女性だった。

 女性と言うよりも、まだ少女といった方が近いだろうか、ほんの少し幼さを残す顔立ちは、モデルかアイドルであると言われても納得出来るほど整っており、肩より少し長い艶やかな黒髪は、月に照らされて輝き、幻想的な雰囲気を醸し出していた。伏せた睫毛は長く、上品なたたずまい。というか完全に私の好みのタイプの女性である。だが、しかし。

「あっ」

 女性がこちらに気付いたようだ。

「月が、綺麗ですね」

 いや綺麗なのは月よりもあなたです。そしてその台詞は愛の告白とみてよろしいか。夏目漱石じゃあるまいし。それに第一声がそれっておかしいでしょう。

 考えてみれば、私は通り魔と間違われても仕方ないような登場の仕方ではないだろうか。少しは警戒しても良さそうなものである。しかし、そんなことより。

「……何を驚いているんですか?」

 その女性もとい少女は言う。いや、だって、ねえ。

 少女を通して、向こう側の景色を見ることが出来た。半透明である。

「だって、透けて、ますよ」

 我ながら何という陳腐な発言であろうか。するとその少女は、「え、す、透けて……?」などと顔を赤らめている。「いや違うって、服じゃなくて体全体が」まさかそんなお約束のギャグみたいな反応が返ってくるとは。少し落ち着いた。

「ああ、そういうことですか」

 半透明の少女は、言う。

「わたし、幽霊みたいです。生前の記憶はありませんが」

 ひんやりとした風が、頬を撫でる。どうやら幽霊は本当に居たようだ。

 ほら、幽霊怖くない。むしろ可愛い。




 翌日。昨日の涼しさが嘘だったかのように、まだ暦の上では梅雨も半ばだというのに朝からじりじりと暑い日差しが照りつける中、いつものように電車に揺られ大学に到着し、教室へと向かう途中のこと、

「よ、ジミー」

 声をかけられた。

 その方向に目を向けると、身長百七十センチほどの痩身の男がこちらに向かってきていた。友人の佐藤である。それにしてもなんだジミーって。まさか地味眼鏡だからか。

「地味眼鏡だから、ジミー。ジミー・グラッシス。格好良いだろ」佐藤は言った。

「どこがだよ」

 私がそう言い返すと、佐藤は残念そうな表情を見せた。こいつは本気で言っていたのか。それとも残念そうな顔も込みで演技か。なんともつかみ所のない奴である。

 まあ、私も密かに彼のことをシュガーと呼んでいるし、おあいこかもしれないな。彼の名字は佐藤であるし、それに加え彼は三度の飯より甘味を愛する大の甘党だったことが、その名の由来である。いや、むしろ三度の飯が甘味だとしても少しもおかしくない。

「まあいいや。とにかく、お前はジミーだ」佐藤はいう。

「俺はジミーじゃない。地味眼鏡でもないけどな」

「それで、ジミー。昨日の話なんだが」

 こいつはあくまでジミーで通すつもりか。ならば。

「なんだい、シュガー」

 やり返してやった。

「へ? シュガー? ……ああ、佐藤だから、シュガーか。いいなそれ、採用」佐藤は笑う。

 まったくの逆効果ではないか。彼を喜ばせることになるとは。シュガーという呼び名が嫌ではないのか? これでは、私がまるっきり馬鹿のようだ。

「まあいいや。本題。俺、妹居るんだけど」佐藤は話を始めた。

「知ってる。この間自慢してたろ。可愛いとかさ」

「うん。可愛いんだよ」このシスコン砂糖め。「でさ、最近通り魔が出るって話じゃないか。だからさ、護身用にスタンガン買ってやったんだよ」

「へえ」こいつも、私と同じ町に住んでいる。大学生になるまで出会わなかったのは僥倖かも知れない。

「なんだその淡泊な反応は」ならばその話にどんな反応をすれば良いというのだ。佐藤は話を続ける。「だってさ、こんな大騒ぎになるの、あの時以来だろ」

「ん? ああ、あれは嫌な事件だったな」

 ちょうど十年前だっただろうか。実の父親が、その息子を自宅に監禁、虐待したのだ。発見が早かったため、身体的な後遺症も出なかったと聞くが、それでも私の町では大事件だ。確かその息子は鳥と同じ名前だったな。からすとか、はととか、そういう。他のことは、全て忘れたいくらいだ。

「気持ちは分からないでもないが、俺に言ってどういうつもりだ。そんなどうでもいいことのために呼び止めるなよ。授業に遅れたらどうするつもりだ」私は抗議した。しかし。

「どうでもいいってなんだよ。まあまあ、今日二限休講だろ」佐藤は言った。何だと。

「休講だって?」

「なんだ、知らなかったのか。あの教授も困るよなー。休講連絡くらい入れろっての」

 今日は二時限目で終わりだった。

 まあいい。むしろ好都合だ。そうだ、ついでに訊いておこう。

「なあシュガー。お前、幽霊を見たらどう思う?」

「え? 随分唐突だな」反応が実に自然である。シュガーという呼称に抵抗は全くないようだ。「……まあ、霊って言っても生き霊とか死霊とか、地縛霊とか浮遊霊とかいろいろいるし、信じるのは勝手だと思うけど」

「そうではなくて」

「悪魔の証明って知ってるか。悪魔の存在を証明するには、悪魔を連れてくればいいけど、否定するには、存在し得る場所全てを調べなければならないっていう」

 聞いたことはある。しかし随分と饒舌になったな。更にシュガーこと佐藤は続ける。

「でもこれって、裏を返せば、居るか居ないか分かんないもんがある時、居るって信じる奴の方が有利ってことだろ? その信じる気持ちは、簡単には否定されないってことだ」

 その解釈は初耳だな。こいつが最近SFやらオカルトやらにのめりこんでいることを知っていたので、何か参考になることでも知っているかと思ったのだが。

「あと、数学的にも似たようなことが言えてな。例えば公理って言って」

「いや、もういい」

 これ以上訊くのはやめにしておこう。話がどんどん脇にそれていきそうだ。

「ああそうだ。ところで、パフェでも食いに行かないか? 八百六十円」流石甘党。

「朝っぱらからパフェが食えるか」

「俺は五つくらいならいけると思うぜ。五つ食べると、ええと、四千三百円か。結構かかるんだな」

「四千三百円だと」

 その金額を聞くと同時に、先日の忌まわしい記憶が蘇る。ますます行く気がしなくなった。佐藤にその旨を話したら、「大変だったな」と言いながら笑いをこらえていた。ええい嫌な奴。

 結局、私は帰宅することにした。そうしなければならないだろう。

「パフェ五つかー。いつか一度に食べてやる」

 佐藤が呟いているのを聞かないようにしながら、私は元来た道を引き返していった。



 まだ時刻は昼過ぎ。私が自宅としているワンルームマンションの一室に足を踏み入れると、

「あ、おかえりなさい」

 私が何故どこにも寄らず帰ってきたのか。その答えとなるものが、ベッドに腰掛けていた。暢気にテレビ番組を見ていたようだ。

 昨日の幽霊である。

「……ただいま」

 私は挨拶を返した。どうしてこうなった。責任者を出せ。……私か。


 事の顛末を語ろう。

 つまるところ、幽霊少女はあの自己紹介ののち、自宅にやって来た、というわけだ。彼女は自分のことが見える人に会ったのは初めてらしく、たいそう嬉しそうにしていた。こんな公園に彼女一人で置いておくのには忍びないと思い、自宅へと誘ったのである。

 下心があった訳ではない。純粋な親切心からの行動である。そもそも、私は彼女に触れることすら出来ないのだ。いくら一つ屋根の下で寝泊まりしたからといって、間違いなど起こりようもない。まあ、一応私は床で寝たが。

 それよりも、そう提案した私に対し、彼女が何の疑いも持たずに承諾したことに驚いた。無防備にも程があるというものだ。生前の彼女は、保護者が付きっきりで守っていたに違いない。そうでなければ、会ったときからの態度といい、どうしたらあんな純真さを保っていられるというのだろう。

 幽霊の少女は、昨日は家に着いてすぐに眠ってしまった。幽霊でも疲れるのだろうか。そして今日は、私が起きてすぐに出かけていった。私にとって大学は休むべきものではないし、心の整理の時間が欲しかったからだ。

 ちゃんとした会話の機会は、今が初めてである。


 多少の沈黙が続いた。その静寂を切り裂いたのは、幽霊の少女の方であった。

「昨日は、どうもありがとうございました」

「お礼はいいよ。昨日聞いた」

 彼女が私の元に来たのは、長い間、自分に気付いてくれる者が居なかったからだろう。大層寂しい思いをしたに違いない。おそらく家に着くなり眠ってしまったのも、安心の表れであろう。そう考えるのは、自惚れが過ぎるかもしれないが。

「えーと、幽霊でも、お腹空くの?」私は尋ねた。

「そういえば、食べなくても平気みたいですね」

 昼食は一人分で大丈夫みたいだな。それにしても、私は随分とフランクに話している。大して言葉を交わさなかったとはいえ、一晩一緒にいて、緊張感はほぐれているからだろうか。彼女には、他人を安心させる性質があるのかも知れない。

「別に敬語じゃなくて良いよ」

「いえ、でも、恩人です」

 そんな風に見られていたのか。恩人。何の? まあいいか。言葉の綾だろう。

「そういえば、記憶がないって言ってたけど」私は尋ねる。

「はい」

「何か覚えていることってある?」

「え、あ……。ありません」彼女は目をそらした。何だろう。無意識に怖い顔でもしてしまったかな。

「そ、そうか……」

 ならばどうしたものか。何か分かれば、私にも出来ることがあると思ったのだが。

「あの場所には、いつから?」質問を続けた。

「それも少し曖昧で――時間の感覚も、鈍っているのかも。あ、でもわたしがあそこにいたのは、きっと」

 そこで彼女は一拍置いて、続ける。

「月が綺麗だったから」

 彼女の視線が、上方へと向けられた。その双眸は、記憶の中の月を見ているのだろうか。

 ……月。出会ったときにもそんなことを言っていたな。この幽霊の少女は、月に思い入れでもあるのかもしれない。

「結局、何も分からないという訳か……」

 私は、彼女を家に連れてきた後のことは深く考えてはいなかった。これからどうしようか。まさかこの幽霊少女をいつまでも家に置いていく訳にもいかない。ただ困っている彼女を見て、私にも出来ることがありはしないかと、漠然と思っただけだ。それゆえの質問であった。

 ……出来ること?

 彼女について何かが分かったとして、私はどうしようというのだろう。死者が幽霊となり、この世にとどまるのは、何かしらの未練があってのことだと聞いたことがある。この幽霊少女を救うというのは、彼女の願望を成就させ、成仏させることだろうか。簡単に出来る事とも思えない。

 ひょっとすると、私は好奇心のために、彼女を連れてきたのかもしれない。何しろ幽霊など見たのは初めてである。彼女が見目麗しい外見であったと言う事も少なからず影響しているだろう。半分くらいは親切心によるものだと信じたいが。

 ……そうだ。彼女自身は。この幽霊の少女は、どうしたいと思っているのだろうか。彼女も、自分の存在を認めてくれる人に出会った嬉しさのあまり、私についてきただけかも知れないのだ。私は、どうしたらいい?

「わたしは」半透明の少女は、私の様子を見て何か察したのか、それとも偶然か、私がまさに聞こうとしたことに対する答えをくれた。「わたしは、自分が何者なのか知りたいんです。わたし、感覚としては夢を見ているのに近いんです。記憶もないし、視界もあまりはっきりとしないし、色も分かりません。音だけはちゃんと聞こえるみたいなんですが。自分が誰だか分からないのが、つらい、というか不安なんです」

 私は、その言葉を静かに聞いていた。不安、か。彼女が何者なのか、調べればいいのだろうか。

「俺は幽霊を見たのは君が初めてだ」気になったので尋ねてみる。「どうして君のことは見えたんだろう」

 幽霊はいた。実際にこの目で見たのだから、私の頭がおかしくなったのでなければ、これを疑う事は出来ない。

 ならば、今まで幽霊を見たことがない私が、今になって見えるようになったのは何故か。いや、まだ私に幽霊が見えるようになったとも限らない。目の前にいるこの少女しか見ていないからだ。もし私に見えるのが彼女に限定されるなら、その理由は何だ。私は幽霊の少女の言葉を待った。彼女を透かして見える時計の針は、すでに一時を回っている。

「うーん……わたしにも分かりません。何かの波長でも合ったんじゃないでしょうか」

 波長? 何の波長だろう。単なる思いつきを口に出したようにしか思えない。しかし彼女の言葉は、当てずっぽうに言った割には、説得力のようなものを私に感じさせた。実際に幽霊を見た今、私のあくまで常識的な経験から導き出される回答など、あてにはならない。ファンタジーの世界では、超常現象の理屈を、科学的に説明する必要はない。そういったことは、SFの仕事である。似非化学、空想科学ではあるが。私にとって幽霊は、ファンタジーの存在だ。何故見えるのか、など些末なことである。

 情報が、彼女自身から得られないというのなら、

「聞き込みだな」

 とりあえず少女と出会ったあの公園から始めよう。無駄足になっても構わない。今日は既に無駄足を経験している。一度しているのだし二度したところでたいした違いはない。まあ、あの時は家にいる幽霊のことが気がかりだったため、むしろ幸いだったのだが。

「あ、私も行きます」

 幽霊の少女は、私との同行を申し出た。私以外には見えないのなら問題ないだろう。

「じゃあ、行きましょう、ええと」幽霊少女はそこで一旦口をつぐむ。「何て呼んだらいいでしょうか」

 呼び名か。

「ああ、俺は……」自分の名字を言おうとしたが、思いとどまる。面白いことを思いついた。どうせなら、あの名前を使おう。

「ジミーと呼んでくれ。ジミー・グラッシス」

 私は自信満々に言った。頬が緩んでいるかも知れない。


 私はこの時、続く日常に訪れた変化に、自分が期待を持っていることを自覚していた。何故この幽霊少女だけが見えたのか、なんて細かいことはどうでもいい。楽しそうじゃないか。子供の頃に感じていた気持ちが、戻ってきたかのようだった。今日は楽しかった、明日もきっと楽しい。そう無根拠に信じる、あの時の気持ちが。シュガー命名のこの名を使おうと思ったのも、おそらくは今までとは違う自分を演じるためだ。シュガー命名。その部分だけが若干気に入らないが。


 彼女は沈黙している。調子に乗りすぎただろうか。そう思ったが、余計な心配だったようで、

「……外人さんだったんですか?」目を丸くした。

 面白い子ですね、本当に。

「俺は日本人だよ」それと外人って差別用語じゃなかったっけ。「外国人に見える?」

「外人さんだ、って言われたら半分くらいの人は信じちゃうんじゃないですか? 背も高いし、睫毛長いし」 

 外国人って睫毛長いのか? 

「あと、それから」少女は言う。「そのニット帽、似合ってますよ」

 その言葉を聞いて、どくんと、心臓が高鳴った。「部屋の中でもかぶってるんですね」見ている景色が、回る。永遠に続く船酔いを連想させた。

「外人さんって、お洒落な感じするじゃないですか……あれ、どうかしましたか?」

 落ち着け、落ち着けと頭の中で唱える。しばらくすると、たった今の体調の変化が嘘だったかのように、歪む景色は消え去り、元の何でもない時間が戻ってきた。普段と異なる点と言えば、目の前に透明の少女が立っているくらいである。

「……何でもないよ」声が震えている。不審に思われないだろうか。

「なら、いいんですけど」良かった。ごまかせたみたいだ。

 ――帽子のことについて、触れないでくれ。頼む。

 もう大丈夫だと思っていた。話題を、変えなければ。

「……そうだ。君にも呼び名が必要だよ。幽霊、幽霊って呼ばれるのは、良い気しないでしょ」私は提案する。その場しのぎの思いつきだ。それにしては、そこまで不自然でもない話題かも知れないと、冷静にその発言を評価する自分もまた発見する。

「うーん……そうでもないですよ。わたしは名前も覚えてないし、幽霊は私しかいないんだから、問題ないんじゃないですか」ぐっ。だが関係あるか。

「じゃあ、俺の自己満足。俺が良い気しないから」半ば強引に、主張する。今の私は、非常に見苦しい。「じゃあ、霊子! 幽霊だから霊子! 今日から君は霊子ね!」我ながら酷いネーミングだな。

「えっ、霊子? まあ、いいですけれど」承諾していただけたようだ。

 それにしても。ジミーに、霊子か。いずれも本名ではない。ますます架空の人物を演じているようで、何とも滑稽である。今日佐藤にもシュガーという名が付いたが、まあ、気にしない方向で。

「じゃあ、霊子さんが居た公園の付近から回ろうか」

「はい、ジミーさん」

「よし、出発!」

 まるで長旅の始まりだとでもいうような気持ちの昂ぶりだった。すぐにでも外へ駆けだしていきたいくらいの気持ちである。しかし現実は意外と厳しく、

 ぐう。腹が鳴った。

 そういえば、昼食を食べていなかった。朝も急いでいたので、今日は何も食べていない。

「まずは、腹ごしらえだ、悪いけど、待ってて」格好が付かないな、私は。幽霊は腹が減らないんだっけ? 今だけは羨ましい。この高揚のおさまらぬうちに、出かけたかったのだが。人間は結局、腹が減っては戦ができないのだ。

 この際腹が溜まれば何でも構わなかったので、私は湯を沸かし始めた。沸騰して、三分待って、それでやっと食べ始めることが出来る。その時間さえも長く感じた。その時。

「四千三百円」

「え?」カップ麺を食べる箸の動きが止まった。私は振り返る。テレビが点いていた。ニュース番組のようである。私が帰宅してから、ずっと部屋の隅で働いていたこいつの存在は、すっかり意識の外に追いやられていたらしい。

「――この通り魔傷害事件はこれを持って八件目となりました。地方県警はこの一連の通り魔事件を同一犯のものと断定、現在調査を進めています。未だ犯人の素性は不明のままですが、犯人は共通して犯行の際、『俺は切り裂きジャックだ』と発言しているようです――」

 男性のアナウンサーが落ち着いた声で喋っていた。昨日、一人の女性が、また被害者リストに名を連ねたようだ。

「また被害が増えたのか」

 この頃、世間を、特にこの近所を騒がせている通り魔事件。二ヶ月ほど前から、切り裂きジャックを名乗る男が、若い女性ばかりを狙い、通り魔的傷害を繰り返している。野球帽を深くかぶり、サングラスを掛けているという特徴があるものの、その容貌だけで通り魔と断定出来るはずもなく、油断によって刺される被害者は後を立たなかった。だが今のところ、死者も、重傷を負った者もいない。足などを浅く刺した後、そのまま逃げるのである。被害者には自分で通報する余裕まであるそうだ。随分とけちな切り裂きジャックがいたものだ。

「四千三百円」私は繰り返した。

 四千三百円というのは、現場付近に落ちていたナイフの価格である。被害者の血痕が付着していたことから、凶器と断定された。近くのホームセンターで買われたものらしい。白髪混じりの店長が、マイクを向けられながら説明していた。定価よりも相当お買い得だそうだ。こんな時にまで、実に商魂たくましいおやじである。普通、自分の店の商品で犯罪が起きたら、宣伝などできないだろうに。「そういえば、そんな格好の人が買い物していきましたね。やたらと目立ってたもんで、よく覚えてますよ。ナイフ三本でした。複数買うと、余計にお買い得なんですよ」少しは不審がれよ。といっても、客商売、客は選べないか。しかし、三本買っていったと言うことは、今後もまったく同じものが凶器として使われる訳だ。

 私も、何しろ近所で起きていることであるし、事件に関心は持っていた。しかし、四千三百円ねえ。単なる偶然だとは思うが、ここまで続くと必然性のようなものを感じざるを得ない。

 後ろで、霊子さんが随分と怯えた様子でテレビ画面を見ていた。その輪郭が陽炎のように揺れていて、私は彼女が幽霊であることを改めて意識する。

 ラーメンは、すっかり伸びていた。




 高揚は、おさまらなかったようだ。

 いや、時間をおいたことで、余計な力みも抜け、落ち着いた気持ちであるのだが、妙な充足感は相変わらずこの身を包んでいる。

 私は、霊子さんを連れて、あの公園へとやって来ていた。昼間に来てみると、なるほど、公園の名前が分からなかったはずである、入り口の看板の文字は剥げて、読めなくなっていた。かろうじて桜の字が読めるか読めないかと言うくらいだが残っている。うーん、私がこの公園で遊んでいた頃、看板はどうだったけか。

 私は、ふと自分の右側を見る。霊子さんが立っている。結構な風の強さであるのに、彼女のさらさらとしていそうな髪は全くなびいていなかった。

「どうして」そこで、霊子さんは口を開いた。「どうして、私はこの公園にいたんでしょうか」

 そう言いながら彼女は、無意識であろうか、空を見上げている。その晴れた空には、せいぜいもくもくとした綿雲が浮かんでいるくらいである。しかし、私の部屋にいた時同様、雲を見ている訳ではなさそうだった。何故公園にいたのか、だって? それが答えじゃないのか、と私は思う。

「月」私は口に出して言ってみる。「会った時、言ってたよね。月が綺麗だって」

 この住宅街は、道幅も狭く、電線も多く宙を這っている。月が良く見えそうなのは、この辺りではこの公園くらいだ。それに、いくら幽霊と言えども、人の家の屋上に居座る訳にも行かないだろう。というかそんな幽霊は聞いたことがない。柳の下なり、樹海の奥なりに幽霊が出た、というのなら納得も出来ようものだが、幽霊が建物の屋上に居座って月を眺めているのは、なんとも現実味にかける気がした。幽霊という存在が現実的であるかは別として。

 私は続けて、言った。「君は、月に思い入れでもあるのか?」だとすれば、それはこの少女の生前の記憶、少なくともその残滓が、残っているということになる。

そういえば、何かの本で読んだことがあった。一般的に記憶喪失と言えば、エピソード記憶、所謂主観的「思い出」にあたる記憶を失うことである。一般名詞や、道具の用途など、辞書的な知識を忘れることはないので、日常生活に関しては問題なく送る事ができる。自転車の乗り方を忘れることはないが、それを習得するまでの過程は記憶していないと言うことだ。

ここで。記憶喪失の前後で、その性格までも変わってしまうことがある。溺れた経験から、水を恐怖するようになったのなら、その記憶が「完全に」消えれば、水を恐れることもなくなるだろう。実際に、傍若無人な振る舞いをしていた男が、記憶を失った途端臆病な人間になったという例がある。

まあ、生きている人間の記憶喪失に関する知識が、目の前の幽霊に対して使えるかは疑問であるが。

私は自分の意見について、説明した。「つまり、霊子さんが月を見るのが好きなら、好きになるきっかけになった経験、っていうのをどこかで覚えてるかもしれないって事だ」

霊子さんは神妙な面持ちで頷いている。納得していただけたようだ。

もちろん、ただ月が綺麗だから好むようになった、という可能性もあるのだが。思い出によって後から形成される性格とは別に、先天的に根っことなる部分は存在する。美しいものを愛でる人間の感情は理屈で割り切れるものでもないだろう。だが、そのことを彼女に伝えるべきでもないはずだ。彼女の記憶を引き出す確率は、少しでも上げておきたい。


「でも、ここに立ってても始まらないな。じゃあ、調べようか」

 私はまず、公園を見て回ることにした。大して広くもない敷地内を、ぐるりと一周する。霊子さんはしっかりと後ろをついてきて、小動物のようであった。

 そこで、目に付くものがあった。ごくりと唾を飲み込む。これは……。

 彼女の座っていたベンチの手摺り部分。それは一見塗装が剥げているようであり、緑色に塗られた中に一点、別の色をした箇所があった。その色は……赤。雨粒の、最初の一滴が地面に跡を付けるように、手摺りに浮かんでいる赤色。ペンキの塗り間違いということもあるまい。

 紛れもなく、血痕だった。彼女は、色覚を失っているらしい。だから、気付かなかったのだろう。

 これはどういうことだろうか。彼女は幽霊だ。ひょっとすると……。

 初めて彼女に会った時にも連想した、あの切り裂きジャック。「生きていた彼女」は、通り魔に殺された? しかし直後に私はその考えを否定する。彼は実際の所、殺人はおろか、重傷を負わせたこともない。   

 ならば、誤って殺してしまった? これも違うだろう。殺人事件を警察が公表しない理由も見あたらない。

 しかし、血痕と、幽霊。少なくとも、ここで誰かが血を流したことは間違いなく、ここに幽霊がいたのも事実である。ならば、「生きていた彼女」がここで刺されたことで、「幽霊の彼女」が生まれたとすれば、辻褄が合うのだが。

 その時、ある言葉が脳裏をよぎった。

 ――霊って言っても生き霊とか死霊とか、地縛霊とか浮遊霊とかいろいろいるし――

 佐藤が、言っていた。……生き霊。ならば納得がいくのではないか? 刺された時の精神的ショックにより、生き霊が発生した……。現状、一つの可能性であるが。

 もしそうだとすれば、霊子さんの、本体、というのだろうか、それは、今も生きている。いずれにせよ、これは結構な発見である。

 通り魔事件と、霊子さんは関係している。

 彼女は、自分の正体を知りたいと言っていた。それを知れば、彼女は事件の解決を望むに違いない。彼女に協力をする限り、通り魔事件は、既に避けることが出来ないのかも知れない。

「霊子さん」私は、訊くことにした。

「はい」

「覚えていることは、本当に一つもないの?」

「どういうことですか?」

「例えば、そう」私は、出来るだけ平坦な、しかしはっきりとした声で言う。「通り魔……切り裂きジャックについて」

彼女は、意表を突かれたようで、息を飲む様子が傍目にもはっきりと分かった。……当たりだ。

思い返せば、彼女はあのニュースを見ている時、酷く怯えた様子だった。それに、彼女が刺されたショックで生まれた生き霊なら、その記憶を残していたとしても不思議ではない。そして、私のことを恩人だとも言っていた。あれは、通り魔の恐怖から解放した恩人、ということではないだろうか。

私は続ける。「君が、俺の提案を受けて、家まで来たことには、裏は無かったんだと思う。だけど、君はあることに思い当たった。通り魔犯のことを口にすれば、俺が危険な目に合うってね。だから、君は何も覚えていないふりをした。大方、思い出した、とでも言ってどこかに消えるつもりだったんだろう」

これは正直、思いつきを口にしたのに近い。だが、彼女の様子を見るに、どうやら図星のようだ。自分が何者かを知りたい、というのはなかなか良く出来た嘘だと思う。恐らく、私のいない間に、考えていたのだろう。だが、彼女は本来、嘘も隠し事も苦手に違いない。彼女の視線が宙をふらふらと彷徨っていた。

「わたしに見えない証拠が、そこにあったんですね」

「ああ。血痕が残っていた」だけど、刺された少女は、死んだ訳じゃない。「多分君は、生き霊だ」

半透明の少女は、何も言わない。ある程度、察していたのだろう。しかし私は、彼女の心中を察することは出来なかった。


しばらくして、近隣住民に聞き込みをすることにした。

しかしまともに聞いても、教えてもらえないだろう。「この辺りで、通り魔に刺された女の子が居ますよね」と聞いたところで、不審に思われるだけだ。ひょっとすると、その事実を知らない可能性もある。

 だから、聞き方はこうだ。

「すみません、そこの公園で、よく月を見ていた女の子が居ましたよね。最近見かけないんですが、ご存じありませんか?」これなら不自然ではないだろう。

「ああ、理央ちゃんのこと?」聞かれたお爺さんは答えた。「月丘さんとこの理央ちゃんでしょ? 最近、見ないねえ」

「月丘理央」それが、この幽霊少女改め生き霊少女の名前なのだろう。霊子さんに目配せしてみる。

「あ、はい。多分当たりです。わたしの名前。しっくり来ます」予想はしていたが、彼女の声も私以外には聞こえないようだ。

 とりあえず、病院にでも行って問い合わせてみようか。

月丘理央は少なくとも公園に来られない怪我をしているようだから。関係者だと言ったら、会わせてくれるだろうか。

 その後、何人かに聞き込みをしたが、通り魔に関する情報は得られなかった。月が好きだったこと、素直な良い子であること、可愛い娘だった、など、ほぼ今まで見てきた霊子さん像と一致する発言を多く得たのみにとどまった。

 そこで、一つの違和感を感じた。

 心なしか、霊子さんが薄くなっている。透明度が、増しているのだ。どうなっているのだ?

「わたしは、多分、『わたし』に会ったら消えてしまうと思います」

「どういう、ことだ?」

「生き霊にしても、何にしても、残った念が達成されれば消えるものですよね。思い当たるものは、二つ。自分の正体を知ることと、通り魔事件の解決」

 自分に会うことで、前者が達成される、というのは分かる。だが、後者はどうだ。解決を見届けるまで、達成されないのではないのか?

「わたしは、ジミーさんを信じます。きっと事件を解決してくれる」

 事件を、解決する。実際、そのつもりであったが、一度も口にはしていなかったはずだ。それに、解決出来るとも限らない。それでも、この少女は私を信じる、というのか。その言葉が嘘でないことは、少女が薄くなっていることが証明している。消えかかっているのだ。

「でも。わたしがここにいた、ってことは覚えていて欲しいんです。文字通り、影も形もなくなりますから。あなたが忘れてしまったら、私はいなかったことになってしまいますから」消え入りそうな声だった。

 私は、この少女が「いる」ことを信じている。そして、彼女が消えてしまっても、「いた」ことを信じ続けるつもりだ。

「うん、分かったよ」

 佐藤の言葉を思い出す。信じる気持ちは、簡単には否定されない。


 私たちは、町の病院に来ていた。この町で、病院といったらここぐらいだ。町医者もあるのだが、霊子さんは、というか理央は可愛がられていたようだから、大きい病院に診てもらったのではないか、という推測に基づいての来訪である。

 受付の女性に、声を掛けた。

「すみません、この病院に、月丘理央さんって入院されてますよね」口調が断定的なのは、そのことを当然知っているのだ、という印象を与えるためだ。違ったら、一言謝れば済む話である。

「ええ。当院の入院患者さんですね」ビンゴ。受付が知っている、ということは割合重要な患者として扱われている、ということだろうか。

「僕、理央さんの友人なんですが、面会させてもらえませんか?」関係者、という曖昧な表現は避けた。

「すみません。現在面会はできない状態ですので」

 何だって? その時、別のところから声を掛けられた。

「あー、あの子ね、意識不明なのよ。まあ、命に別状はないから、すぐ戻るでしょ。心配しなくて平気よ」

 カウンターの奥の事務員らしき女性だった。……意識不明だと? 心配するわ。

「ちょっと、そんなに簡単に教えたら駄目ですよ」

「大丈夫よー。世の中そこまで物騒じゃないわよ。友達って言ってるんだから友達なんでしょ」友達じゃなくて、ごめんなさい。

 しかし、困った。いや、霊子さんだけ行かせればいいのか。じゃあ、ここでお別れだな。

「本当にありがとうございました」霊子さんは、名残惜しそうにしていた。その姿が、上階へと消えていく。

 無性に寂しさがこみ上げてくる。何としても、事件を解決しなければ。しかし、通り魔が次にどこに現れるのか、皆目見当も付かない。どうしたものか。

「あなたも、通り魔には気を付けた方が良いわよ」事務員らしき女性が話しかけてきた。女しか狙わないはずなんだが。「特に、中央広場には行かない方が良いわよ。犯人だって、徒歩で移動してるんだから、あそこは絶対通るでしょ」そうか。

 この町には何を思ったか中央広場なるものがあり、そこから縦横無尽に道路が伸びている、という構造になっている。通り魔がそこを通る可能性は高い。これはいいことを聞いた。別に、二日でも三日でも張り込んで、野球帽でサングラスの男に注意すればいいのだ。本来それは警察の仕事であるような気はするが、まあ、致し方ない。忠告にも関わらずすみません、中央広場行きます。

 ああ、そうだ。病院を出て、私は、携帯を取り出し、アドレス帳の「砂糖」と登録された人物に電話をかけた。

「あ、シュガーか? ちょっと貸してほしいものがあるんだが」


 中央広場に張り込むこと数時間。時刻は既に夕方、そろそろ夜に変わる頃。その男には、思いがけず早く出くわすこととなった。

目の前に現れた男。野球帽に、サングラス。そいつは、金髪、というよりは黄色の絵の具で塗りたくったかのような色に髪を染めており、そこがまず目についた。身長は、私と同じくらい。体格も、それほどがっしりとしているわけではなく、どちらかといえば細身である。その双眸は、サングラスのせいか、または彼の顔の彫りの深さ故か暗く、黒くなっていることもあって、まるで穴でも開いているかのようだ。その頬もこけていて、全体として骸骨を連想させる。得体の知れぬ雰囲気をまとった男だった。

こいつが、「切り裂きジャック」。こうして対峙してみると、成程、その名がふさわしいようにも感じられる。

いや、私は、こいつをどこかで見たことがある――。

不意に、男が口を開く。

「俺は」一瞬、聞き間違いかと思った。「霧崎孔雀だ」

切り裂きジャックじゃなくて。霧崎、孔雀だって……? それが、人の名だと気付くのに多少の時間を要した。こいつは、まさか、犯行の度に自分の名を告げていたのか。一体、何故。いや、待てよ。

「……孔雀?」

記憶の中の、ニュース映像。こいつの犯行を報道するものではない。もっと、昔。

この町でかつて起きた、監禁虐待事件。その当時小学生だった被害者の名が、確か孔雀だったはずだ。珍しい名前なので、今まで記憶していた。あの時、彼の名字は霧崎ではなかったはずだ。おそらく、霧崎という名字は、彼の母親のもの。きりさきくじゃく。切り裂きジャック。名が体を表してしまっている。しかも、あまり良くない方向で。

別段不思議なことではないように感じた。歯車を狂わされた少年が、時を経て、今度は牙をむく側になったのだとしても。

しかし、だからと言って私はこいつを許すわけにはいかない。かつてどんな経験があったとしても、何人もの女性をナイフで突き刺して良いはずがあるものか。そして何より。

あの、素直な少女は、こいつに刺された。

「お前は、あの監禁事件の被害者か?」私は、確認する。

「ん? ……ははっ」男は、笑った。「やっと会えたぜ。俺を知っている奴に」

 やはり、そうか。「何故、若い女を刺すんだ」

「綺麗だからだ。綺麗なほど、壊したくなるんだ。だけど、殺すのは駄目だ。人殺しは良くないからな。だから、刺すだけだ。それに、男は、筋肉が硬くて刺すのには適さねー」

 思った通り、こいつの考えは、理解出来ない。だが、それでいい。これで、奴を仕留めることに、迷いがなくなった。

 奴が言う。「今言った通り、男を刺すのは趣味じゃないが」こちらを見据える。「大人しく捕まるわけにも行かないんでね。とりあえず誰かに言う気がなくなるまで痛めつけさせてもらおうか」

 言い終えると同時に、シュッと風を切る音がして、ナイフの切っ先が私の腕目がけて飛んでくる。奴が体ごと突っ込んできたのだ。咄嗟に体を捻って回避。なんとか避け切れた。殺さない、というのはこいつの信念のようだ。しかし、刺すことそのものには、一切の抵抗がないようだった。不良が、不摂生かつ煙草を吸っていても、喧嘩が強い、その理由と同じ。そう思う間に、再び突き出されたナイフを、身を屈めて更に回避。そして、もう一点の共通点を発見した。

 ナイフは突く時と引く時、どちらも斬ることが可能である。だから隙が少なく、戦場でのナイフ使いは脅威となり得るのだ、ということを以前聞いたことがある。しかし彼は、突くことしか考えていないらしく、ナイフを引き戻す時に、大きな隙が生まれる。動きも、決して素早いわけではない。実際には、技術が不足しているという点も、同じなのだ。

 だがそれでも、素手対ナイフでは後者に軍配が上がるであろう。だから私も、武器を用意してある。私はポケットの中のそれを、取り出す機会をうかがっていた。気付かれては、いけない。斬撃を避けながら、今か今かと待ちわびる。金髪のドクロを仕留めるチャンスを。奴に、隙が出来るのを。

 しかし、誤算だった。

「意外とすばしっこいな」奴は攻撃の手を休めた。「だが、鈍くなってきてるぜ」

 衣服に穴を開けられる回数が多くなってきている。紙一重の回避。先に体力が無くなったのは、私の方だったのだ。おそらくは、この状況のせいであろう。ナイフを向けられて、平常心を保つのは、流石に難しかったか。動揺していては、体力が尽きるのも早い。そして、更に悪いことに。

「それに、何を隠してるんだ?」武器に気付かれていたのだ。「さっきから右ポケットを気にしてるよな? バレバレなんだよ。観念して刺されろや」

 奴は、一歩分引いていた。私の腕の届く、その範囲外まで。これでは、奴に武器を当てることが出来ない。

 男は、地面を蹴った。再び、ナイフが振り回される。回避しきれず、武器を取り出す間もなく、左肩を切られた。その痛みに、体がぐらつく。万事休すか。そう思った矢先のことであった。

「待てっ!」奴の注意が声のした方へそれた。私も、その方向に目をやった。

 その声は、予想もしていなかった声。しかし、よく知っている声であった。その、男は、小太りで、無精髭の……。

「誰だ、おっさん」奴が言う。

「私は、お前の被害者の父だ」その男は。私のバイト先の、上司だった。「理央の、娘の敵を討つ。殺すつもりはないが、痛い目を見てもらわないと納得出来ない」

 何と言うことだろう。私の上司は、月丘理央、あの幽霊少女の父親だったのである。そして、その手には。犯人のものと同じナイフが、握られていた。

 四千三百円の、ナイフが――。

 そういうことだったのか。理央の父親、私の上司である月丘氏は、娘を刺した犯人に復讐をするつもりだったのだ。あの理央の性格からするに、相当に可愛がっていたに違いない。そしてそこに、ナイフが四千三百円である、という報道。どうせなら、自分が使っていたのと同じナイフで。たまたま私が消火器を使ったので、四千三百円を請求したのであろう。ナイフを得る口実に過ぎなかったのだ。

 殺すつもりはない、だって? そこまで計画して、敵をとるという気持ちが揺らいでいないのだ。その言葉を、信用出来るだろうか。

奴は、急な出来事に怯んでいるようだった。今こそが、好機。月丘氏には悪いが、自分の上司を殺人者にするつもりはない。金髪ドクロの二の腕に、右手に持った「武器」を、押しつけた。

予想外に大きな音が鳴る。小さな爆竹でも破裂したような音だった。霧崎は、くぐもった悲鳴をあげる。よろけて、路上に膝をつき、崩れ落ちた。その手に握っていたナイフが放される。まだ、突然走った衝撃の正体を掴めてはいないであろう。あいつは、相当に電圧の高いものを買ったようだ。

スタンガンである。先程電話をかけて、佐藤から借りたものだ。その電流が、まるで鋭い針のように、彼のその二の腕から、その奥深くの骨、さらには神経に至るまでを突き刺していったのが想像出来た。

霧崎孔雀はまだ、突然走った衝撃の正体を掴めてはいないであろう。しかし、まだだ。この程度では、足りない。再び、大きな音が鳴る。今度は、倒れ込んだ奴の、ふくらはぎを。

今度は、はっきりとした声を上げた。これで、まともには歩く事すら出来ないはずだ。逃げる事は、出来ない。

形勢逆転だ。私は、携帯を取り出し、誰もが知っているにもかかわらず、実際に電話をかける機会は非常に少ない、三桁の番号を入れた。

「もしもし、警察ですか」修羅場をくぐり抜けた直後であるためか、非常に落ち着いて話すことが出来た。

「通り魔が倒れてます。場所は――」

 情報を伝え、電話を切った。これで終わりだ。左肩が痛むが、大して気にならない。

「すみません。押さえていて下さい」私は月丘氏に言った。

月丘氏は、黙ってそれに従った。ロープを取り出して、霧崎を電柱に縛り付けている。一応、捕まえる用意はしてきていたようだ。そして、私に尋ねる。「聞かないのかい?」どうして、ここに来たのか。ナイフを持って、通り魔と戦おうとしていたのか。そのことを。

「さっきので、大体分かりましたよ」私は答えた。

「そうか。君はやっぱり賢いな。自力で、切り裂きジャックまでたどり着いた」切り裂きジャック、という言い方が胸に引っかかった。私は、彼の正体について話した。

「……そうか。それを知っていたら、私は彼に同情してしまったかも知れないね。いや、その方が良かったのか。どちらにせよ、私は君がいなかったら、彼を、きっと……」殺していたかも知れない。続きを言うことが出来ず、月丘氏は、黙り込んだ。

「結果オーライで、いいんじゃないですか」私は言った。

彼の娘も、理央もきっと、こんな風に言うに違いない。笑って許してくれることだろう。

「それにしても」月丘氏は言う。「君は私が来るまで、犯人と戦っていたんだよな。怖くはなかったのか?」その質問が来たか。

「怖かったですよ。でも」私は、自分の状態を確かめた。

やはり落ち着いている。今なら、言えるかも知れない。

「………俺も、監禁事件の被害者なんですよ」言えた。「すぐに逃げ出したから、世間には知られてないですが」

 私は、十年前、孔雀の父親に誘拐されたのだ。家の中には、腐乱した動物の死骸が無数に転がっていた。その矛先が、今度は人間に向いた。それだけのことだったのだろう。ニュースで被害者の顔など報道されなかったが、私が孔雀を見たことがあるのも、当然である。再会としては、最悪の形だったが。

 私は、早い段階で脱走に成功した。ひょっとすると、それが息子を虐待する、始まりだったのかも知れない。

 あの体験は、私の心に大きな傷を残した。だが、孔雀は、自分を守るために、狂ったのだろう。壊れたのだろう。「身体的な」後遺症は一切出なかったようだが。それも、幸か不幸か、と言ったところだろうか。五体満足、健康体でなければ通り魔も務まらなかっただろうし。

 しかし、これで私の過去は、一つの決着を見たわけだ。

「その経験のせいで、きっと恐怖心が薄いんでしょうね」

 あの体験に比べれば、ナイフでの斬撃くらいなら、そこまで恐怖することもない。幽霊を見たくらいでは、そこまで驚かない。帽子の下に未だに深く残っている、頭の傷について触れられると、少し取り乱してしまうが。

 月丘氏が、あんぐりと口を開けたまま固まっている。まあ、無理もないか。

 月丘氏に押さえつけられた霧崎が、何か言っている。

「俺は、きっと止めて欲しかったんだな。だから名乗ってたんだ、きっと」

 ふざけるな。だから女性を刺して良いというのか。初めから私を狙え。刺されるべきだったのは、私だけだ。

 しかし私は身勝手なので、刺されるのは必死で回避したのである。私が刺されても、こいつは犯行を続けただろうからな。名乗らなくはなったかもしれないが。

「俺は女を刺すことで、精神を安定させていたんだ。また、狂っちまうな」女を刺すこと自体が狂っている。それに気付かないあたりが、本物なのだろう。

 さて。警察がそろそろ到着する頃だろう。そして、月丘氏は、最後にこう言った。

「実はね、消火器の中身なんてあんなに高くないし、ちゃんと届け出れば交換してもらえるんだよ。四千三百円は、返す。あれは、借りていたんだ」



「うめえ、うめええええ」

 佐藤が本当に美味そうにパフェを食べている。テーブルには、同じものが五つ。流石はシュガーである。

 通り魔、霧崎孔雀との対決の翌日。私は、佐藤と一緒に駅前の喫茶店に来ていた。この店のパフェが絶品らしい。五つで、四千三百円。代金は、私が支払うつもりだ。

「それにしても、どういうつもりだよ。珍しいな」佐藤が五つ同時に食べながら言う。

「まあな」

 本人は知らないだろうが、今回の事件の解決は、彼がいなければ起こりえなかったであろう。霊子さんが生き霊だと言うことに気付けた。スタンガンを貸してくれた。

そのことを言うのは癪なので、伏せておくが。

 四千三百円の使い道。あの通り魔は、女を刺すために、バイト先の上司、理央の父親も、通り魔に一矢報いようと、ナイフを買った。それに比べれば、よほど有意義な使い方である。


そして、夜。私は再び、あの公園に来ていた。私は、ベンチに座ってじっと待っている。月が好きで、人を疑うことを知らない、あの少女が来るのを。

 彼女は、私が通り魔とのやりとりを終えた辺りで、目覚めたらしい。

「通り魔を、捕まえてくれた人に会いたいんです」バイト先の上司によると、月丘理央は、そう言ったようだ。「月の見える公園で」

 遠くに人影が見える。女の姿だ。近づいてくる。その髪は、ちゃんと、風になびいている。

 彼女が、声をかけてきた。

「あ、あなたですよね、犯人を、捕まえてくれた」

 私は微笑む。その輪郭も、揺れていない。はっきりと姿を見ることが出来る。実体を伴うと、余計に綺麗だな。

 だが、この少女は、月丘理央は、霊子さんではない。私のことも、知らない。

「ええと、お礼は」お礼なら、聞いた。霊子さんから。だから、もう結構だ。悲しくなる。「……もう、言いましたよね?」

 え?

 少女はこちらをじっと見ながら、言う。大きめの瞳に、吸い込まれそうになる。「わたし、夢を見てたんです。でも、やっぱり、夢じゃなかった。月の見える公園で、また会えた」

「霊子、さん?」

「はい」

 何と。彼女は、霊子さんの記憶を、持っていたのだ。夢、という形で。

「ええと、ジョニーさんでしたっけ?」思わず、笑ってしまった。やっぱり、この子は面白いな。

「ジミー。ジミー・グラッシスさ」

 風が吹いて、木々が揺れている。今日の風は、心地よい。

 いや、それにしても今日は、一段と。

 

「月が、綺麗ですね」

今度は、私が言った。

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― 新着の感想 ―
[一言] ホント、アローさんの作品面白いです。 文章力があってうらやましい。 実は、うちの娘2~3歳まで、幽霊を相手に話して遊んでたので、この作品を読んで思い出しました。 けれど、代わる代わる新…
2011/02/09 19:13 退会済み
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