第5話 辺境は、すでに崩れていた
辺境領ヴァルデンの集落は、想像していた以上に静かだった。
人の姿はある。
だが、活気がない。
通りには雑草が伸び、石造りの家屋はところどころ壁が崩れている。
畑は耕されてはいるものの、十分な収穫が得られているとは言い難い。
「……ひどい状態ですね」
カイルが低く呟いた。
「ええ」
「ですが、予想の範囲内ですわ」
私は周囲を見渡しながら、冷静に評価する。
この土地は、捨てられている。
正確には――**管理されていない**。
税だけは取られる。
だが、治安も、支援も、投資もない。
(王国が一番得意な“放置”ですわね)
集落の中央にある、小さな広場。
そこに、数人の住民が集まっていた。
警戒の視線。
好奇と不安が混じった表情。
無理もない。
突然現れた、身なりのいい女。
しかも、追放された貴族令嬢だという噂付き。
「……あの方が?」
「貴族様、なのか?」
囁きが聞こえる。
私は一歩前に出て、スカートの裾を軽く持ち上げた。
形式張った挨拶ではない。
だが、最低限の礼は尽くす。
「初めまして」
「レティシア・フォン・ヴァルクレインと申します」
名前を名乗った瞬間、ざわめきが走る。
――ヴァルクレイン。
かつて王都で名を馳せた公爵家。
それが、なぜここに?
「私は、今日からこの地に滞在します」
「理由は単純ですわ」
私は、集落の人々を一人ひとり見渡す。
「ここには、使われていない土地と」
「働ける人がいる」
一瞬、沈黙。
だが次の瞬間、誰かが小さく笑った。
「……働いても、意味がない」
「どうせ、全部持っていかれる」
年老いた農夫だった。
擦り切れた服。
疲れ切った目。
「税だ」
「領主様は来ない」
「兵も来ない」
「それでも、税だけは――」
「ええ」
私は、遮るように頷いた。
「知っています」
それが、彼らを驚かせた。
私は続ける。
「ですから、提案をしに来ました」
「“契約”を、結びませんか」
また、沈黙。
――契約。
この地では、あまりにも縁のない言葉。
「畑を耕した分」
「作った分」
「売れた分」
「正当な報酬を、お渡しします」
ざわめきが、明確に変わる。
疑いから、戸惑いへ。
「……信じろと?」
別の男が言った。
若いが、顔つきは険しい。
「貴族様は、みんな同じだ」
正論だ。
だからこそ。
「信じなくて構いませんわ」
私は、即座に答えた。
「ですから、条件を提示します」
私は、グラントに視線を送る。
彼は頷き、書類を取り出した。
「これは、簡易契約書です」
「文字が読めない方のために、内容は口頭でも説明します」
人々が、ざわつく。
「契約は、双方対等」
「一方的な変更は、しません」
「違反すれば、私が責任を取ります」
それでも、誰もすぐには動かない。
私は、少しだけ声を落とした。
「……ここで、もう一つお伝えします」
集落の人々が、こちらを見る。
「王国への税」
「――私が、肩代わりします」
一瞬。
完全な沈黙。
次の瞬間、爆発するように声が上がった。
「な……!?」
「そんなこと、できるわけが――」
「できますわ」
私は、迷いなく言い切る。
「少なくとも、今年分は」
グラントが、小さく補足する。
「資金は、すでに確保されています」
「これは、施しではありません」
「投資です」
空気が、変わった。
疑いの中に、ほんの僅かな――希望が混じる。
(十分ですわ)
人は、希望を一度でも見てしまえば、完全な絶望には戻れない。
「……なぜ、そこまで?」
先ほどの農夫が、震える声で尋ねた。
私は、少し考えてから答える。
「ここを、使いたいからです」
正直な理由。
だからこそ、信じられる。
「この土地は、まだ死んでいません」
「――私が、それを証明します」
その時だった。
集落の外れから、怒鳴り声が聞こえた。
「おい! 誰の許可で集まっている!」
粗末な鎧を着た男たち。
王国兵だ。
数は、五。
態度は横柄。
「定期巡回だ」
「税の確認に来た」
――来ましたわね。
私は、静かに一歩前に出る。
「今年分の税であれば、すでに手配済みです」
兵士は、怪訝そうに眉をひそめる。
「は?」
「ここは、貴族様の土地じゃ――」
「いえ」
私は、穏やかに微笑む。
「“これから”は、私の管理下です」
兵士たちは顔を見合わせる。
理解できない。
理解する必要もない。
だが。
彼らは、気づいていない。
この瞬間。
この場所で。
王国の“支配”が、一つ――静かに剥がれ落ちたことに。
私は、集落の人々に向き直る。
「安心なさい」
「約束は、守ります」
それが、私のやり方。
辺境は、すでに崩れていた。
だからこそ――
「ここから、作り直すのですわ」




