第30話 撤退できない男
撤退は、敗北を意味する。
少なくとも、レオンハルト・ヴェルナーにとっては。
「履行率、九二%」
財務責任者の声が、重く響く。
「短期借入の更新、半数拒否」
「在庫回転率、過去最低」
執務室の空気が、重い。
だが、レオンハルトは立っていた。
「価格を下げろ」
短い命令。
「これ以上は――」
「下げろ」
拳が机を叩く。
「ヴァルデンが崩れるまで、止めるな」
彼は理解している。
今止めれば、自分が崩れる。
王太子との約束。
半年以内に商圏を奪えという命。
聖女奇跡事業への巨額投資。
失敗は許されない。
だから、止まれない。
ヴァルデン。
「価格、再下落」
グラントが報告する。
「ですが、下落幅は限定的」
「在庫は?」
「ヴェルナー側、さらに増加」
クラリッサが、静かに呟く。
「……撤退しませんね」
「できません」
私は、即答する。
「撤退は敗北です」
そして。
敗北は、王太子への責任転嫁を意味する。
王都。
「殿下からの書状です」
封蝋が重い。
レオンハルトは、破るように開封した。
――迅速に解決せよ。
――王国経済に混乱を与えるな。
彼の視界が、わずかに揺れる。
「混乱を与えているのは……」
自分だ。
だが、認められない。
「追加担保を出せ」
「もう残っている担保は……」
「出せ」
財務責任者が、目を伏せる。
内部で、囁きが始まる。
「無理だ」
「撤退すべきだ」
「損切りを」
だが。
レオンハルトは、止まらない。
ヴァルデン。
「南部と北部、正式復帰」
グラントが報告する。
「履行率、九八%に回復」
クラリッサの顔に、光が戻る。
「戻りました」
「ええ」
私は、静かに言う。
「振り子は、完全に反転しました」
価格は、徐々に戻る。
ヴェルナーの在庫は、減らない。
資金は減る。
銀行は冷える。
王都。
「履行率、八九%」
財務責任者の声が震える。
「八五を切れば、信用危険域です」
「黙れ」
レオンハルトは、低く吐き捨てる。
だが。
手が震えている。
「……なぜだ」
恐怖で崩せるはずだった。
だが、透明性が恐怖を削った。
契約が、信用を支えた。
彼は、ようやく理解する。
「……契約か」
支配ではなく。
縛りではなく。
履行。
それが、基盤。
だが、もう遅い。
ヴァルデン。
「次は銀行です」
私は、静かに告げる。
「融資停止が来ます」
その夜。
王都三大銀行が正式発表。
――ヴェルナー商会への新規融資停止。
市場が、凍る。
翌朝。
「……融資、止まりました」
財務責任者の声は、ほとんど囁きだった。
在庫。
遅延。
停止。
レオンハルトは、椅子に座り込む。
撤退はできない。
だが、前にも進めない。
撤退できない男は。
最も危険な決断をする。
「……最後の一手だ」
その呟きは、静かだった。
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