EP71 契約(1)
リージョンN、カイドウ家本邸。
カイドウ家当主の特別客用の客間に、世界を担う二家の当主が集っていた。
その場に少し遅れてユイが到着した時、ミカゲが柔らかな微笑みをユイに向けた。
しかしその笑みは仮面であることをユイは既に知っている。
その証拠に赤紫の目は鋭いままだからだ。
ユイは足元のマシューを見つめる。
その視線に気づいたマシューが、一瞬だけユイを見上げる。
――大丈夫だ。
そう言われたような気がする。
ユイは、濃紺のマタニティドレスの裾を掴み、ミカゲに向かって静かにカーテシーを行う。
その優雅な姿勢に、ドアに近い場所に座ったアヤカが微笑む。
「ユイ、ゆっくりでいい。上座に座りなさい」
「はい」
タクマの言葉に、ミカゲも頷く。
ミオンに手を引かれ、ユイはお腹を庇いながらゆっくりと歩き進む。
テーブルを挟んでミカゲの前に立った時、ミカゲはユイに向かって深々と礼を行う。
そのスマートさにユイは驚いた。
(今日のミカゲには軽さがない……)
そうだ。この瞬間から彼の空気がかわった。
どこか他人を侮るような軽さも、浮ついた雰囲気も感じさせない。
ユイは用意してきた仮面を剥がされる様な感覚を覚える。
ユイを見つめる赤紫色の目が、夕陽の光を受ける。
その輝きは宝石にも似て、美しく感じられた。
「ユイさんが彼に着座を進めないと、彼も座れないわよ?」
二人の間に流れる張りつめた空気を、アヤカがそっとフォローする。
メイド服を着たミオンが、ワゴンの上でフィリア・オレンジティーをカップに注ぐ音が聞こえる。
アヤカが片手をあげると、ミオン以外のメイドが部屋を出ていく。
その扉が閉まるタイミングを待って、ユイは女王の仮面をまた被る。
「本日はお忙しいところ、本邸へお越しいただきありがとうございます。座ってください」
「はい」
ユイも大きめのゆったりとしたソファーの中央に、静かに腰を下ろす。
ミオンが、その背中に大きめのクッションを挟みいれる。
マシューもユイの着座の瞬間を待って少し離れた場所に待機状態で腰を下ろす。
「あれからお子様は順調ですか?」
最初に話を切り出したのはミカゲだ。
ミオンがユイとミカゲにフィリア・オレンジティーを差し出す。
それを落ち着いた笑顔で受け取りながら、ユイは答える。
「はい、おかげさまですくすくと育っています」
「それは何よりです。無事にお生まれになる日が楽しみですね」
「ええ……。家族と共にその日を心待ちにしています」
ユイは家族と言う単語に力を入れる。
タクマは口元をほころばせながらフィリアオレンジティーを口に含む。
それをミオンとアヤカが見守る。
場が和んだ頃合いを図って、ミカゲは持参した鞄から端末を取り出す。
13インチほどの画面を、慣れた手つきで動かす。
「これは我々のルシー・フェルドの仕様書です。ご確認ください」
そこには、ルシー・フェルドの仕様書が表示されている。
ミカゲは立ち上がり、少し前の目めりになってその端末をユイに手渡す。
その際、ミカゲの手首から僅かな香水の香りがした。
瑞々しいフルーツの香りだ。甘くなくそれでいて清涼感がある……。
ユイはその香りが好きだった。
ヒロトがその香りのシャンプーを好んでいたから。
心は少しだけ揺れたまま、
ユイはその端末に表示された仕様書をじっくりと確認する。
それはユイによってタクマに渡され、タクマからアヤカに渡る。
そして最後にアヤカからユイに戻り、ユイはスクロールしてマシューに見せた。
マシューは確認後一度目を閉じ、ユイを見上げた。
ユイは頷き、ミカゲに向けて端末を渡し返す。
しかしお腹が大きいため、その端末はミカゲまで届かない。
「ご確認ありがとうございます」
ミカゲは再び立ち上がり、ユイからその端末を受け取る。
その視線は一瞬だけ柔らかいものになる。それがユイにとっては少しだけ揺らぐ原因になる。
続いてミカゲは、特殊用紙の4枚の契約書をユイの前に並べ始めた。
『売買契約書』、『所有権の放棄証明』、『ユーザー規約確認書』。
そして『登録名申請書』だ。
これらはすべて秘匿性の高い重要書類となっている。
複写禁止は勿論、どの細工も施されないようにプロテクトがかかっている。
「ユイ・リア・イサキ様……。カイドウ姓にはいつ頃変えられるご予定ですか?」
落ち着いた紳士的な低い声だった。
こんな声も出せるのかと、この場の誰もが軽い驚きを示す。
「出産を終えてから変える予定です」
ユイはハッとして、ミカゲに引き寄せられないように線を引きなおす。
(……試してる?)
「わかりました。では……AI存在距離規定は完全にご理解頂けていますね?」
「はい」
ユイは冷静な声で答える。
「ルシー・フェルドは、このような金額にさせて頂きたいと思います」
「ユイさん、その書類はわたくしも一緒に拝見させて頂いても良いかしら?」
「はい、勿論です」
ユイの許可を得て、アヤカがユイの隣に座る。
ミカゲからアヤカは『売買契約書』と『所有権の放棄証明』を受け取る。
さり気なくユイを補佐しながら、アヤカはミカゲとアレンの記載があることを確認する。
(この金額……)
「この金額は……どういった情報から算出された数値ですか?」
(おじいちゃんの遺産と私の貯金の総額……)
ユイの問いかけに、ミカゲは穏やかな笑みを浮かべたまま答える。
誠実なセールスマンの姿勢の奥に、静かな挑発が見えるとユイは思った。
「ルシー・フェルドには、私も価値を置いております」
その言葉にアヤカが眉を寄せた。
「カイドウ家の資産を透かして見たとでも言いたげですわね」
「そのような意図はございません。お気に障りましたらお許しください」
「まあ、そんなに噛みつくな。安かろうが高かろうが、買うかどうかはユイが決めることだ」
タクマがミオンにお茶の追加を促す。
ミカゲが口にしないお茶をミオンが下げようとしたとき、ミカゲはミオンに小声で訊ねる
「これはユイ様がお好きなお茶ですか?」
「はい」
「でしたら、このまま頂きます。私も緊張してしまってタイミングを逃しました」
少し照れたようにミカゲは微笑み、冷めたフィリア・オレンジティーを口にする。
それを見たアヤカがため息をつく。
「そうね……ユイさんが判断することね。わたくしのダメな癖が出てしまったわ」
「問題ありません。この金額に抑えて頂いたことは、企業の誠意の現れと思っていますから」
「ユイ様の寛大な配慮に感謝いたします」
それをアヤカに渡し、ユイは震えを殺しながらサインを行った。
アヤカ経由で受け取った小切手を、ミカゲは大事そうに受け取る。
私財を丸ごと差し出した現実が、静かに体の奥へ沈んでいく。
その重さに、世界が少しだけ遠くなった気がした。




