EP60 目覚め(1)
目を開くと、過去の自分が居た部屋だった。
リージョンN、H市の、カイドウ家の病院だ。
病院の名前は覚えていない。ただ、祖母リエがずっと働いていた大きな病院だった。
最初ユイが入った部屋はやたら白い部屋だった。
あの日の悪夢を繰り返し夢見て、食事も喉を通らなくなった頃、別の部屋に移された。
それがこの部屋だ。
まるで深海の様な部屋。
濃紺のカーテン、コポコポと音を立てる水槽。
誰の趣味か分からないけど、タテゴトアザラシの大きなぬいぐるみが、デンとベットで寝ていた。
誰が置いたのか、四葉のクローバーのイラストが壁に飾られていた。
ユイはこの部屋が嫌いではなかった。
水の音がゆっくり体に染み入る、落ち着く部屋だったから。
気がつけば――目の前で少女がうつむき佇んでいる。
首のとれた白いクマのぬいぐるみを抱え、声なくすすり泣いていた。
(これ……過去の私だ……)
ユイは泣いている12歳の自分に触れようとする。
しかし、自分の手は透き通っていて、触れられない。
『泣かないで、大丈夫だから……』
この言葉はかつての自分には届かない。
そしてリエを呼んで泣く姿を見ていられなくなったとき――。
ロレン医師がやって来た。
彼が最初に見たのは、ユイの左手の甲だ。
気が付いたら浮かび上がってきた奇妙な印を、当時のユイは怖がった。
「ユイちゃん……そのぬいぐるみを少しの間、預かっても良いかな?」
「どうして? マロンはもう......」
「僕の知っている人なら、キレイに直してくれるかもしれないんだ」
「……本当に?」
そうしてユイはぬいぐるみをそっと手渡す。
彼はアルバ・ジョイ・ロレン医師。有名な精神科医の先生だった。
ロレン医師は12歳のユイの、左手の甲に突如として浮き上がったアザをみつめる。
それは幾何学模様の印、とでもいえるものだ。
そして顔を歪めて、涙をポタリと落とした。
ロレン医師の様な大人がこんなふうに涙を流す姿を、ユイは見たことがなかった。
だからこそ、きっと知らないうちに自分が傷つけてしまったのだろうと、子供のユイは自分を責めた。
「ごめんなさい」
ロレン医師は首を横に振り、眼鏡を少し上にずらして涙を拭いた。
「君のせいじゃないんだ。……温かい飲み物を飲もうか。フィリア・オレンジの、ね」
「フィリア・オレンジ……」
それが何かも昔のユイにはもう思い出せなかった。
それでも嬉しそうな顔をして見せたのは、目線を落としたロレン医師の手が優しかったからだ。
この時、少しだけ過去のユイの目が光りを灯す。
この先生なら、きっと大丈夫……そう信じることができた。
大人になったユイは左手の甲を見つめる。
あの不気味な印は今はない。
今となってはあれが何だったのかさえ分からなかった。




